「3.11とアーティスト:10年目の想像」水戸芸術館 現代美術ギャラリー
二重の街の映像。リアルである。きっと、そうなるであろうとも思った。
この積み重ねの重さに対しての写真というメディアはなんて軽い(過程)だろうとも、ふとおもった。写真という一瞬さ。
でも、写真が写してるのは現実というなによりも重たい表現がつまってて。
それとは違う、ゆっくりと時間をかけて、逆に良い意味で(っていうのはないかもしれないけど)感覚的には忘れてしまいそうになるほどな展示だった。
なんというか、忘れかけてしまう今なんだという。
今回の展示で、どうだ写真だ!がないことがすごい良かった。
絵の具の積み上がりだったり、言葉の多さだったり、
まず、とても見切れない、というところが適切な気がした。
写真を見たら、きっとそれは体験に変わってしまうだろうと。
高嶺さんのが、ほんとにリアルという劇は、グサッとくる。
作られた表情とは、なんとも本当よりも本当らしいんだろうか。
震災体験の言葉の中に、閉したい時に、人と話さなきゃいけない環境が
一番こたえたみたいな気持ち。
家がめちゃめちゃになってるんだよなぁという、笑えない感じ。
写真は、誰も見たことのない世界を、ほら。と、見せてくれるが、
例えそれが架空だとしても、それは現実にあるもので。
なにか、それこそ見えていない世界を、2011.3.11以降、見ている人がいることを知れたような。
そして、それは私自身であることに気付ける展示でした。
言葉ってそういう時に便利なものなんだなと。
あの日を境にして見えてないものを、私たちは見ているんだと。
今の令和3年。
10歳になった赤ちゃんは、言葉を使う。
私の使ってる言葉と、私が見ている世界とは、
別の世界だから、二重なんだと。
それは写真の事実だとなかなか伝わらないことだとすごく思った。