「写真、「芸術」との界面に 写真史一九一〇年代─七〇年代 」 光田 由里
そもそもの写真の定義が、すでにある中で話がある( ? )というのは、日本には写真の歴史がすでにあるってことだろうか(?)ねーって。日本の中の日本写真史が独特なのかなぁ…、日本のなにかと繋がってしまってる気がする。。。とか、前よんでいた本が日本の話は全然出てこないから、それに引きづられて、そう思ったりしていた冒頭。
“写真芸術社が生まれたのは1921年(大正10年)、「芸術写真」をひっくり返して「写真芸術」という新造語を旗印に掲げたのは、これまでの型にはまった凡庸な「芸術写真」を否定し、新しい写真表現を主張するためだった。”
言葉の”あや”っておもしろいっていうか、でもその通りで、芸術的な写真だったのを、写真の芸術にしたということは、全然違うことだ。例えば、なんだろう。人間動物と動物人間。じゃー動物の人間と、人間らしい動物・・・ですもんね。(えっ?なーそれ。
“ただ写すだけでは満足できない彼らは、ストレートなプリントよりも、手作業と工夫を凝らす余地のある、ピグメント印画(顔料を筆で塗布して画像を作る)を好んで作った。作画にあたっては、水墨画や浮世絵、あるいは泰西名画など、身近な絵画が盛んに参照された。彼らの営みが、「絵画の模倣と当初から批判されながら、写真は「芸術」たりえるか、いかにしたら「芸術」となりえるか、という論議を生み出していったのは、明治末期以降のことだった。”
なるほどに、そういったピグメント印画や、ゴム印画、ブロムオイルあたり、もしかしてコロタイプも、写真芸術の中では、ストレートなプリントに飽き足らずに、そういったことに挑戦していた中から生まれたものなのですね。。。でも、それはつまり写真はまだ芸術と呼べるものではないから、絵画に近づけようという、、、ピクトリアリズム(と、とりあえず言ってみる)。「写せる」という単純な喜びから、変化していった時期なのかな〜 人間ってのは強欲なものです。言い方を変えれば真面目です。
“見たような、型にはまった、凡庸な画面になりがちだった。「芸術写真」という語には、写真以外のものを模倣して、芸術らしく見せようとした写真、というような揶揄的ニュアンスがつきまとってしまう。写真芸術社は、「芸術写真」のこうしたニュアンスを根底から変えようとした運動である。彼らは「絵画の模倣」から脱して、写真独自の表現を打ち出そうとした。まず写真を記録か表現かという二分法から解放し、光と影による芸術だと規定し直して、ストレートなプリントの価値を唱えた。絵画に似ていることを「芸術」の認定基準にするのをやめ、作者の内面/精神世界が作品に表れることを「芸術」の証だと主張した。いわば正統的モダニズムの写真観を確立した彼らは、それぞれが独創的な画面をめざし、カメラ・アイならではの構図、写真ならではの対象を、次々に発見していったのだった。”
この頃に、記録か表現かという点から外れて「光と影」と規定し、ストレートの価値を与えて・・・作者の内面、精神世界が作品に現れるものを芸術・・・・、きっとそう主張しなくとも「そうなっていた」作家(とも知れずな人)は、いたのでしょう。「光と影」と定期し直してから、森山さんが出てくるまでの間ってどれくらいかかってんだろうか。もうそれは、写真の1つの完成なのかなー。それは森山さん個人というより、いろんな人との時代を超えたバトンを渡されて「写真」として受け継がれてきたものが、形になったのが森山さんだったのかと、ふと思うのです。細江さんからの師弟関係を丁寧に、たどってみたいものである。ウェストンっていっつも出てくるから、すごいんですよね。影響力って。( THE 雑なコメント )
“野島の交友関係は、残された書簡からもうかがわれる。多くは連絡や挨拶、パトロンとしての野島への無心だが、富本、中川のように自己の制作や心境について書き送ったものも多い。
野島に宛てた芸術家や文化人たちからの書簡は「野島文書」と呼ばれてきた。野島文書の現況は当時のままでなく散逸していることを考慮しなくてはならないが、期間的には限られている。兜屋画堂から「光画」までの時期に集中しているのだ。1940年代以降は彼らと野島の交流はほとんど途絶えてしまった。戦後のどさくさで、モダンなアパートメントを併設した野々宮写真館を手放した後は、野島は病気のため葉山にこもることが多くなり、いつしかコレクションも散り散りになる。野島のエネルギーが公的な活動に使われていた時期が、彼の芸術家としての制作期間とほぼ完全に重なっていることを思うとき、野島の生きた時代の激しい動きとともに、彼にとっての<美>の意味がどのようなものだったかが察せられる。見る人としての野島は、常にカメラを持っていた。彼は、目撃し見いだした新鮮な<美>を記録し、擁護し、出版した。野島康三の写真作品は、こうした活動と合わせて立体的に見られなければならない。単に交友した作家たちの作風の影響を引き算してみるのではなく、穏やかな野島の、純粋な意図とするどい解釈を時代のなかに読み取るべきなのである。”
そうでした。読んだけどこうやって振り返るまでに忘れちゃってた。そっか。野島さんの写真はこういった関わりと、時代とともにあって、コレクションも散り散りになってしまったという事実。そして、限られた期間での文書のやりとり。。。パッと咲いて散った花のような、、、「写真うまいじゃん」って言われてから撮り始めた、、という、才能あふれるみんなの中で写真を撮っていたということは、どういう気持ちだったんだろう。そこはまだ、写真は芸術じゃない「カメラマン」的な意味合いが強ければ、そこはすんなりと写せていたのかもしれない。ともすれば、マン・レイが周りの芸術家達を撮っていたように、誰かの為に撮っていたってのもあるかもしれん。「野島康三の写真作品は、こうした活動と合わせて立体的に見られなければならない」これは、野島さんの写真を見る時には、常に思い出して、心に止めておきたい光田さんの言葉ですね。(とか言って、もー 野島康三と小島一郎がごっちゃになっているバカ脳な私です (えーっあの極寒の青森の人、お金持ちだったんだー!すげーって途中なぜか壮大な勘違い ) )
“「写真の新しい機能」文中に、村山は極めて近代主義的な写真観をこのように書き付けている。この写真観こそ、1930年代前半に突出した新即物主義や、伊奈信男が高らかに宜言した「写真に帰れ」(「光画」創刊号、1932年)の主張につながる、この時点で最も新しい芸術写真観だったと思われる。こう書いた村山自身は、伊奈のいう「リアルフォト」を実際には受け入れてはいなかったのは、見てきたとおりである。”
「写真へ帰れ」読みたいんです・・・!でも、今はこれだ!と、他のを読んでいると、後回しになってしまっている今。次、読みます・・・!
“村山が1926年に予言していた「大なる現実性」は、まもなく芸術写真家たちの中心的課題となるだろう。そのきっかけをつくるのに、再び村山が写真界で重要な役割を果たす。1931年、「独逸国際移動写真展」(「Film und Foto」展の「写真部門」の主要部分が日本に巡回)をドイツから岡田桑三とともに日本に招聘したときである。この展覧会の影響がすばやく広く行き渡って、「新興写真」と名づけられた動向を生み出したことはよく知られている。伊奈の論文「写真に帰れ」を載せた雑誌「光画」創刊もその果実の一つだった。「Film und Foto」は国際的に巡回して大きな影響力をもった展覧会で、これまで写真先進国だったイギリスやフランスに代わってドイツの「ノイエ・フォト」の地位を決定的にした。”
おーー!その展覧会を招聘したのは、村山さんだったのですね。。。それは欠かせない人物だ。(と、今は頭の片隅の片隅に覚えておくだけ覚えておけば、いつかまたどっかで繋がるでしょう・・・そして記憶違いをするでしょう )
“モホリ・ナギを中心にしたバウハウス系の写真が一つの柱となって、村山が誌面で紹介したフォトグラム、フォトコラージュ、多重露光など多彩な実作が多くの写真家を引き付け、流行を巻き起こした。それだけではない。構成主義的な、極端な仰角や大胆なフレーミングでとらえた機械や都市建築、新即物主義と呼ばれるクローズアップによる静物や肖像、小型カメラによるスナップ、また顕微鏡写真や赤外線写真など科学的な実用写真の新しい視覚が、日本の芸術写真界に衝撃を与えたのだった。多くの写真家たちにとって、「Film und Foto」展のうち主に前者のスタイルが新しい芸術性を感じさせ、後者のスタイルが、写真独自の視覚を生かした「非常ななまなましさ」と見えたことは想像に難くない。”
そうですね。。。。衝撃ですよね。。。。今、そんな衝撃ってこれからあるのかしらん。。。でも、そこらへんは「壺」になってたり「ペンキの塊」みたいに見える写真からは、確かに感じますよね。すっごい記憶に残るし。。。。でも、面白いかっていうと、その中山岩太が否定するような気持ちが分かるというか(中山岩太はさんをつけるのがなんか似合わない語感ですね)。その時代に評価されないものでなければ、という点では、それはもうアートの領域なんでしょうね。写真も、そういった側面もあると思うけど、、、個人的には、もうちょっと野暮ったく、誰にとっても写真であって欲しいみたいな、へんな想いがあっちゃいます。・・・・だめですね、古い考えの人がはびこっちゃー。
“・・・こうして溜飲を下げた中山だが、新興写真の流行には批判的だった。「いはゆる新興写真と称せられるものは、例へば煙突が斜めになったり、建築物の切れつぱしが写つてみたり、或ひは実に不愉快なクローズアップとか、出鱈目に重ね合したやうなもの、さういふものを総称して云ふのであります」。”
“伊奈は「カメラを持つ人」が「現代の年代記作者」になりえたときこそ、写真は最も高い社会性を獲得するのだと称揚した。”
煙突ななめって、安井仲治そのものじゃないですか。年代的にも8歳、年下。お兄さんとして若い世代を否定とまではいかなとくも「近頃の〜」と良くいうように、話してしまう感じはどうしてもあっちゃうものでしょう。自分にはできないことと、認めている裏返しのような感じで。
おもしろい。現代の年代記作者。。。。そうなんです。今を感じないとね、古くもなり得ないし。そう意味での、作られたような写真を否定するってのは、わかったりも。。。その視点から中山岩太を改めて見てみなくては。なんか、光田さんからはその写真家の、それらの写真を見る大切な視点を教えてもらっていますなぁ。
“以来、中山の再評価は進んできた。1995年の阪神・淡路大震災が引き起こした惨事は、中山研究をさらに進める契機になった。それまで70年間使われていた中山写真スタジオが倒壊し、文化財レスキュー隊やボランティアの方々の尽力によって、プリント、乾板、資料などが救出されたのである。芦屋市立美術博物館を中心にそれらが整理され、現存する中山の作品の全貌が現れるに至った。中山岩太という複雑な個性を、どのように解釈し位置づけ、これから生まれる表現に資していけるか。それは、彼の作品をいま受け取る方々にゆだねられる。”
へー!そうなんだ!!これは興味深い・・・。芦屋市美術館に写真を見に行こう。
けっこう駆け足で読んでしまいましたが、振り返ってみると単純な好き嫌いでみるのではない「視点」を教えてくれていたので、この本の中に出てくる写真家について知りたい、どんな角度から見ればいいのかと疑問に思った時には、光田さんの本を読んでみたいと感じました。(そうそう、細江さんのを調べていて実は一度、細江さんの部分は読んでいたんです。しかもそのミニグラフについて。そこに触れているのって、あんまりいないでしょうから貴重な展示風景の写真でした。これまた、当時を克明に知ることのできる写真の凄さ。 )