「世界は美しくて不思議に満ちている」長谷川眞理子
200万年前に何が起きたのでしょうか。人類の祖先が、そのころ、熱帯雨林を出てサバンナに移動していったことと関係があると思われます。600万年前ごろから地球は寒冷化し、アフリカでは乾燥化も進んで、熱帯雨林はだんだん縮小していきます。もともとチンパンジーなどと同じく熱帯雨林に住んで、豊富に実る果実などを食べてのんびり暮らしていた人類の祖先は、自発的にか、チンパンジーとの競争に負けたからなのか、200万年前ごろからサバンナに進出していきます。しかし、サバンナは熱帯雨林に比べると厳しい環境です。平原なので、外敵に見つけられやすい。サバンナでは水が少なく、食料は簡単には手に入りません。そこで、人類の祖先は、大きな集団を形成し、互いに協力して狩猟や採集などで食料を確保する必要にせまられたはずです。つまり、この状況で互いに「心」を共有し、協力することができなかった個体は滅び、協力がうまくできた個体の子孫が現在の人類に進化していったと考えられます。
何不自由なく豊かな生活をしていたのに、どうしてサバンナへと繰り出していったのか。。。チンパンジーに負けたとか面白いですが、それはちょっとありそうですね。もしそうなら、なぜ負けたのかと考えると、ヒトは優しかったのかな…?と。争えば負けてしまうからこそ、協力しよう?と…?そして知能を持ったのならば…チンパンジーたちとは違った任務を背負いサバンナへと旅を始めたような。。。
最近の研究によると、他者を助けてあげたいという「心」は、生後かなり早い時期の赤ちゃんからあるようです。たとえば、生後6ヶ月や10ヶ月の赤ちゃんに、簡単なアニメーションで、山に登ろうとする図形を助けるキャラクターと邪魔するキャラクターとを見せると、助けるキャラクターの方を好むことがわかりました。また、2歳くらいの赤ちゃんがお母さんの膝に抱かれているところに、重たい荷物を持って扉が開けられない、という状態の人がいるところを見せると、まったく初対面の他人なのに、赤ちゃんは扉を開けてあげようとします。チンパンジーは、困っているチンパンジーがいても、「助けてくれ」というシグナルがそのチンパンジーから出ない限り、何もしません。ですから、人間に関しては、私は「性善説」を取ります。人間の社会には、「正義」や「公正」といった道徳感情がありますが、これも「協力する心」から生まれたと考えられます。その理由を考える上で非常に重要なことは、「人間は一人では生きていけない」ということです。熱帯雨林からサバンナに出た人類が営んでいた狩猟採集生活は、一人ではできないのです。このことは、人間は何らかの集団に属し、そこで仲間と認められなければ生きていけないことを意味します。集団から離脱して、別の集団に移るということも簡単にはできません。そうなると、自分だけの利益と集団全体の利益が対立する状況が生まれたとき、困ったことになります。自分の利益と集団全体の利益を群にかけて、つねに調整しなければなりません。自分勝手な行動もできないことはない。
集団から離脱して、別の集団に移るということも簡単にはできない… 自分だけの利益と集団全体の利益が対立する状況が生まれたとき、困ったことになる。。。たとえば、ライバル関係にある集団だと、スパイ的に相手の弱い部分を知られてしまう…?守護大名のような、力を付けた大名が増えると… 潰されてしまう。勢力争いなのだろうか。。。人間は何らかの集団に属し、そこで仲間と認められなければ生きていけないことを意味する… いくら1人であっても、どこかへ行きたい誰かと話したいというのは、そもそもが協力するために生まれたヒトとしての宿命がそうさせているようで、自分はそれでいいはずなのに、どこか体が”それじゃまずい”と、そう言ってきているような気もします。( “私は”必要としていないのに!) そして、周囲も孤立しているヒトはほっとけない、ほっとくことを許せない?というのも、性善説と関係しているような。1人になるためには、人間的ではない方面に敢えていかないと行けないのでしょうか。
このような「心」を人間が育て、血縁を超えて協力関係が築けるようになった理由には、先ほど述べたサバンナ進出での厳しい環境を生き延びることもありますが、そこで子どもを育てるために「共同繁殖」が必須になったこともあります。「共同繁殖」とは、子育てを母親だけ、両親だけがするのではなく、非血縁者も含めて多くの人々がかかわって行うことです。人間の子育ては非常にたいへんな作業なので、両親だけではできません。集団の中の多くの人がかかわります。人間は、知らない他人の子どもでも可愛いと感じますし、つい助けてあげたりしたくなる。母親も、見ず知らずの人にも、赤ちゃんを抱っこさせたりします。これは、人類が共同繁殖の動物である証拠です。こんなことは、共同繁殖ではない動物では、あり得ません。
たしかに。そもそも人間の子育ては大変すぎて、誰かに手助けをしてもらわないと、成立しない。。。それ自体、性善的なのか、進化をしていく中でそうなった後天的なのか、、、にしても、そのなぜサバンナへってのが、不思議でならないけど、少しストレスがある方が人間は生きやすい?みたいな話を小耳に挟んだことがあるのを思うと、生きるためのストレスを求めてサバンナへ…?そして、助け合える人間性が育まれて、人間の繁殖として上手くいってるのであれば、それはやっぱり、ストレスというのは生存するために必要なのでしょうね。そのストレスっておきかえて見れば不便さでもあって。便利になってしまった今、そっちの方向へわざわざ揺り戻しが起きていく(携帯を捨てたくなる、森の中で生活するとか)のは、趣味とかではなくてヒトが生きる上で必要に駆られてなのでしょう。
人類の情動は大脳の深いところにある、生命が太古の昔から発達させてきた「大脳辺縁系」と呼ばれる部分で発生しています。これまでは、前頭前野が「メタ認知」の能力を活かして情動を抑制してきました。しかし、現在の情動の垂れ流しと伝染を見ていると、前頭前野がうまく歯止めをかけていないように思えます。もちろん、情動抜きに前頭前野が独立して論理のみで働くことはできません。情動は大事です。しかし、これまでは、メンタライジングとメタ認知を働かせ、異なる情動どうしを比較し、異なる立場の人々の「心」を想像したり、自分を含めた全体の状況を把握したりして、前頭前野を通した言葉で表現してきました。その言葉が、異なる集団に属する人にも「心」を感じさせ、協力関係を拡大させてきました。そのような理性の言葉は、読書や議論などによる深い思考の訓練によってしか激善されません。かつて「言論」とは、そのような訓練を受けた前頭前野のチェックを経たものしか発表されない場でした。そうではない言葉の表出は、「井戸端会議」のように、ある特定の仲間うちだけの非公式の場に限られていました。しかし、SNSなどで発せられる言葉のほとんどは、今や前頭前野で吟味されることなく、全世界に向かって発言されています。そのような言葉の前には、「科学的事実」が通用しません。それは前頭前野で深く思考しなければ出てこないし、理解できないものだからです。
前頭前野を通さない言葉の表出は、「井戸端会議」のように、ある特定の仲間うちだけの非公式の場に限られていた。。。それが今では、世界中に広まる(広まってしまう) のは、なんにもメリットと、そもそもの目的とは合い介さないんじゃないでしょうか。噂や嘘から謀反が起きたり、暗殺されたり。島流にされることはあるけれど、それですら、発言することの効果を一旦頭で考えて、覚悟をもって口にしていたでしょうし。。。でも、情動の垂れ流しと伝染はやめられないとまらない。その、やめられなさってのは、、、私たちがサバンナへ出てから必然的に得た協力関係のような強さで、本能的で、報酬系とか快楽系の回路とつながってるんでしょうね。精製して砂糖を編み出しちゃった人類みたいな。。。いつでもリスクをとることが最終的な安定…ではなくて、その安定と言いつつも、生きていく上でのバランスとして必要な生物学的な?安定で、生きるか死ぬかとは別で、リスクを取るって行為がどこかで必要としているのを知っているのでしょうか?私たちって。
ジュースの缶に手の届かないほうのチンパンジーは、隣のチンパンジーがステッキを持っているのを見ると、「ちょうだい」と言うように手を伸ばした。それに対して、75パーセントの場合、隣のチンパンジーはステッキを渡したのである。このチンパンジーにとって、ステッキを渡すことによる見返りは何もないのであるから、これは驚くべき結果である。しかし、私たち人間にとって非常に違和感があるのは、ジュースに手が届かなくて困っているチンパンジーが、隣のチンパンジーに「ちょうだい」というサインを出さない限り、隣のチンパンジーがステッキを自発的に渡すことはなかったということだ。山本らはこれを、「チンパンジーはおせっかいをしない」と表現している。
数年前にインドへ行った時、飛行機の中で、機内サービスが始まると、ななめ向かいに座っていた親子ほど年の違う男女は、隣のテーブルを出して助け合っていた。いい関係だなーと思って見ていたら、それ以降なにも話さず、飛行機を出る時に、あっ他人だったことがわかった。なぜ、なんなに自然とお互い助け合うのかと、不思議に思ったけれど、インドでは人口が多すぎて(?)みんなが家族なんだなと、そのあとのインド旅行中に感じたものでした。おせっかいを含めた手助けをすることが、つまりは生きやすいのでしょう。都会ではそれを止めるのがふつうですが、ご近所で助け合うみたいなことが、自然とある地域は、それはやっぱり古いのではなく、そもそものことなんだなーと。ただ、進化の過程(衰退の過程)で、それがなくなることもあるのかな。
その先、振り返れば、ホモ属の歴史は数動の歴史である。およそ250万年前から、気候の変動と寒冷化はどんどん顕著になるが、そのころが、まさにホモ属の出現の時期だ。そして、古代型サピエンスが出現する50万年前ごろからは、地球の平均気温がこれまでにないほどの頻度で数変するようになる。いわゆる、氷河期と間氷期のサイクルである。私たちホモ・サピエンスは、そのような中で20万年前にアフリカで出現した。さらに、7万年前ごろから、サピエンスはアフリカを出て全世界に拡散した。ギュンツ、ミンデル、リス、ビュルムの四回の氷期を経験する中で、前人未到の地へと拡散したのだ。このような地球規模での環境澈変の時期に、住み慣れたアフリカの地を離れて世界中に拡散していくとは、動物として信じがたいことだ。いつ絶滅してもおかしくなかった状況ではないだろうか?それが絶滅せずに発展するには、ここで述べたような協力的な知能の獲得が、究極的な鍵の役割を果たしたに違いないと考える。
途方もなく、万年な話で、4回の氷河期からの今の私たちなんて。神様は、この地球をどう見てるのでしょうか。絶滅を回避するために、移動していたとしか思えないけれど、それもまたハイリスクで、いつからどこで氷河期や天災が起きるか知れずな時に、何を頼りに生き延びたのか…。そのあたりは、卑弥呼であったり、占いとか、紋様とか、儀式とか呪術とかに寄せられていたのかと思うと、これまた人間に必要なこと、生まれるべくして生み出されたカテゴリーだとさらに強く感じるばかりなのです。
氷河期と、米文化(麦もまた)ってのは、対になってるよるようで気になります…。つまりは、どちらも必要になるというような。。。その氷河期と稲作の差をなくすことが、最終的に環境 (人類にとっても) に優しいことだとしたら、私たちは絶滅するほうが、地球には良いのかとさえ感じてしまいます。地球は私たちのものってわけでもないですもんね。そして、地球にとって良い人間の生活の仕方ってなんでしょうね。それが微々たるエアコンを切ることからだと分かっていたとしても・・・もうさすがに辛いですよね。
私たちの個性は、そういう状況を生き延びていくための戦略でしょうか。。。







