「なぜ植物写真か」中平 卓馬

 




にゃるほどに、カリスマ性を一文一語から感じて、下記、心に残った言葉抜粋散文。中平さんが向かっていた写真ってのが、どんなものだったのか、まったく分からなかったけど、なんかわかりました。匿名性だったり。でも、1ページ半ページが濃厚すぎて、また読まないとなぁー。ディスカバージャンパンとか、ほんと同感してたところより、もっと深いとこまでいっていて、自分の考えはなんて浅いんだろうと。個性をなくせるかってのは、アートとは真逆ですよね。でも、僕もそれがアートじゃない写真の面白いとこな気もしてる。


で後半結構、評論なのですね。観たことも知ったこともない作品などは、読んでも分からないのでまたいつの日か…。


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いかにも私は世界を見る、だが同時に世界は、物事は私に向かってまた物の視線を投げ返してくるのだ。


はじきかえしてくる皮みたいな。


ニュースからホームドラマ、料理の時間、スポーツ、そしてその間を縫い合わせるようなスポット・コマーシャルの介入。一体われわれはそれらの遂一をどうやって、どのようかパースペクティブのもとに秩序付け、組織してゆけばよいのか。


われわれの「中心」は喪われた。


世界の解体はまさしく、この中心の解体と対応している。


人間の敗北を認め、物事が物事として存在するこの世界に人間が人間として存在する、けっして特権的なものではありえないが、しかし正当なる場所を探し出すことが先決ではないだろうか。


大切なのは、絶望的にそれを認めることなのだ。それが出発である。


個が個として成立するわれわらの時間の軸はもうすでにずたずたに切り裂かれてるのだ。


“悲しそうな”猫の図鑑というものな存在しない。もし図鑑に少しでもあいまいな部分があるとすれば、それは図鑑の機能を果たしてはいない。

  

植物がもつあいまいさを捉え、ぎりぎりのところで植物とわたしとの境界を、明確に仕切ること。それが私が密かに構想する植物図鑑である。


日焼けして、ぼーっとしてる時に声をかけららて怒る。それは植物の段階に入ってたから。

  

なぜなら私は意識という病魔に冒されているのだから。

 

カラー写真でなければいけない。モノクロームの暗室作業にはあった手の痕跡を私はきれいさっぱり捨てようと思うからだ。手はやはり自己である。

 

一度シャッターを切ること、それですべては終わる。


写真の物理的性格が無謀介的に、社会的性格に結びつけられ、、、


あきらかにわれわれは奇妙なひとつの神話のただ中を生きている。


あさま山荘事件。1週間以上固定した映像は、ドキュメントというよりははるかに強くモニュメントの正確を帯びていた、と僕には思えるのだ。


来る日も来る日も静止した山荘の映像を凝視し続けた。それは象徴的機能。。。事態は、只今、現在進行中なのに、その意味を固定してしまった。それは、極少数派の社会的悪と退廃の露呈という意味。これらの映像は逆算的にひきずり出されたものなのだ。


ベンヤミンは芸術がもっていた礼拝的価値を、写真は展示価値に変えたと。それが30年近くで、再び逆転。


写真を芸術作品などというまやかしの価値から、現実の影を色濃く留めた、ただの媒介に奪還せよと主張してきた。しかもそれは窮極的には匿名の媒介でなくてはならないだろうと。


1枚1枚の写真はぼくの内的イメージの表出ではない。それは現実を指示する記号なのだ。


同じくしてパリ市立美術館展示中だった、マテランの作品が国威を傷つけたというので、検閲に。取り外し。抗議文とともに展示された。

マテランの絵が見にくいから剥がせと。断ると、勝手に剥がされた。

それは、ビエンナーレの評判を抗議を用いて、関心を高めようとしていた。実際に、作品もそれで売れていた。

抗議文の返事、ビエンナーレは個々のものではない。のあとに、仕事を引きちぎって、参加をとりやめた。


制度としての芸術からいかに脱出するかがぼくらに課された唯一の問いであり、そこから脱出をはからない限りもはやあらゆる表現はただの意匠、ただのファッション、そして最終的に一つの商品に不可避的に還元されてしまうに違いないであろうということ。


はたして個性的なであるということが、それ程までに価値あることであるのか。


むしろ積極的に個性を捨て切ること、そのことによって現実社会の基底を揺るがすことができるのではないか。


その日のうちに見る。その時までにぼくの写真は”ぼくの”という所有格を捨て


われわれひとりひとりが、日々を生きるその無償性、無目的性にきわめて近似したものである。


現実からも私からも遊離したところで成り立つ表現、作品というものがはたして存在しうるのか。


白昼は物事はあるがままの物事として存在する。赤裸々に。それはまぎれもなくわれわれに苦痛を与える。なぜなら、われわれはそれに名辞を与え、そのことによってそれを私有しようと願う。


眼は外界へ通じる透明な窓ではなく、世界から私を遮断するシェルターに変わる。世界はわたしの逆送された投影である。


この陰影こそ、人間の逃げ去る最後の堡塁である。


1968 写真展ばやりである。デパートの大ホールを借り切っての相当大掛かり。

それがデパート側の商業宣伝にも組み込まれているのは、疑問。

  

——

思想はあってたとしても、実感、実態のない、言葉や写真がきらい?なのでしょうかね。

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木が木であるという自明であるがふもうの理を証明するものとしての映像を逆転させ、反対にそれらしくある意味に疑義をさしはさむ映像を、遅ればせながらも、提出した。しかし、小さなファッションになりさがってしまった。それらはすでにデコレイションとなってしまった。

  

ぼくはまずぼくにとってだけ「意味」を持ち、「現実」もなるものをフィルムに定着し、それを、再び写真を発表することによって現実へ投げ返してゆく、ただそのことだけにこだわっているのだから。


ディスカバリージャパン 


それは日本の近代化の歴史そのものであり、西欧を憧れ、モダンなものを求めつづけるというわれわれの心的構造を巧みに利用する。


意識の中における近代への憧れ、それから逆転して前近代への優越感を最大限に利用する。

 

かりそめの開放感だけはまちがいなく提供してくれる。われわれはまさしくポスターの中の風景をさまよい歩き、自分でもそう信じ込み、また計画的にそう信じ込まされている辺境の住民たちへのひそかな優越感を確認して帰ってくるのだ。 


 

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