「暮らしの中の文化人類学」波平恵美子

   




そのほかに、子供が家庭内で学ぶ重要な事がらは人間関係にかかわることである。子供は夫婦のあり方を父母の関係から、姑と嫁のあり方を祖母と母の関係から学ぶであろうし、親たちの近所の人や友人への接し方、その評価やうわさ話から、他の人と自分との関係をどのように設定し、行為によってどのようにその関係を示すかを学ぶ。人見知りをする子の親は交際下手であるとか、両親が離婚した子供がまた離婚する割合は、両親が離婚しなかった人のそれより大きいなどというのは、このことを証明している。もっと深刻なのは、実の子を虐待する親は、幼児のころ自分も親から虐待された経験を持つということである。言葉もそうであるが、人間関係を築き保持するやり方も、人間が人間であるところのもっとも基本的家庭内教育と家族内伝承要素である。その基礎が幼児期に家庭内で培われるところに、家族が社会の基礎的集団であると言われることの理由がある。核家族はその構成が単純でかつ小規模であるために、子供が学ぶ対象が少ない。受け取る情報が少ないうえに、学ぶ相手が持つ偏りがそのまま子供に伝えられる可能性が高くなる。しかも、家庭内教育はかつては年中行事などを通して、また家庭がそのまま職場であることから、教育やしつけの内容はカリキュラムとして編成される傾向があった。


「基礎が幼児期に家庭内で培われるところに、家族が社会の基礎的集団であると言われることの理由がある」。ここらへんは、もう数年前に”毒親”的な本を読み漁っていた時に、そうだったのかと、痛烈に感じたったこと。家庭は最小人数の社会。それが学校へ行って、仕事をしてと、大きくなるだけだから、関係性という在り方は、基本的な根っこはあまり変わることはない。後天的に意識的に変えようとしても、なかなかに変え方が、わからないどころか、恋愛対象に選ぶ相手もまた、そういった生まれ育った家庭の再現となるような相手を選ぶ傾向にもなるのではないかとも思う。だって、家族の形をそれしかしらないのだから。その自分が過ごした家族の形に対して幸福を感じない場合、その家族ではない違った形を選択することは、必然だと感じる。




数年前、福島県の平野部の村を調査中に七歳の男子の「七草」の行事に行き合わせ、招待された。七草というのは七日正月のことではなく、数え年七歳の男子に対して行なう祝い、つまり七五三の祝いである。この子は私が十年前にこのムラの調査を始めた嫁から目についたわんぱくで、家でも近隣でもそのわんぱくぶりは周囲をハラハラさせていた。ところが、この「七草」の正客二十人を招いて、延々四時間に及ぶ宴席では、容織はかまを着けたまま、トイレに立つほかは座りっぱなしで、次々に出される膳も作法通りに食べ、その見事な主役ぶりに、皆は舌をまいた。四歳のころからこの子を知っている私もその変身ぶりにはじられない思いだったが、これが伝統的社会の教育というものかと納得したのである。

もしこの席で、この少年が日ごろのわんぱくぶりを発揮したなら、子供の両親はもちろん、祖父母や曾祖母まで陰に陽に非難される。「跡取り息子がなんてことだ」という訳である。つまり、伝統性の強い農村では、子供のしつけは一つには子供のため、二つにはその子に家業を継がせ、いずれは扶養してもらうことになる親のため、三つには今後も共同生活を営み続ける親族や村落のために行なわれる。親族や近隣が他家の子供の成長ぶりに無関心でいられないのは、個人的な親切心やおせっかいから出ているのではなく、移動がほとんどない社会で、一生その人と生活をともにしてゆくことが予定される人々にとっては、まさに自分たちのためなのである。ムラの規則無視はもちろん、日常のつき合いでほかの人とはかけはなれた行動をとる人がいると、共同生活はギクシャクしてくる。極端に偏った性格の人と軒を接し、毎日、しかも朝から晩まで顔を突き合わせて生活することは周囲の人々には苦痛である。


ほんとに、自分のことを思い出しました。七五三で、着慣れない服を着た私が、宴会の席の中心にいる時のこと。いつもはただの「⚪︎⚪︎さんところのお子さん」と見ているようなみんなの目が、その時ばかりは、何か別のものとして見ている(扱われる)。それは、尊敬やこれからの期待を込めて見ているという視線で。私は結局、着慣れないのが心地悪く父母の「もう着替えよっか?」の言葉から、食事後にすぐに脱ぎ捨てたわけですが、あれは何か大人へと近づくための通過儀礼として大変に必要なことだったのかも・・・と、今思い直すと、ちゃんと席の間着ておけばと思いました。特に山や川の農村地域で生まれ育ったわけでもない中でも、家の1F和室(仏間)で集まりができる環境に生まれ育ったことは、少し救いのようにも感じます。







伝統的な地域社会での教育のあり方を示す例として、さらに次のものをあげよう。新潟県と福島県との境界遊くにある山村では、昭和二十四年まで「出題」を作って、山林の伐採に従事していた。ほかに現金収入はなかったから、山仕事は重要な生計の手段であり、男の子は数え年十五歳になると、一人残らず山組に編入された。この十五歳の少年は「那山」と呼ばれた。初山はまた成人式を意味する言葉としても使われ、三月の節句には初山の少年の家へはムラの全戸からもちが届けられ、初山の親は息子が編入される山組の人々を招いて視安を張った。冬山での伐採は、初山にとってつらいものであったが、そこでの働きが十五歳までにその少年が得た能力の総決算であったから、弱音を吐いたり、泣いたり、先輩たちから見て、あまりにふがいない仕事ぶりを見せる訳にはいかなかった。そして初山から三年たっと「ムコバン(婿番)」となり、山組の中でもっとも気働きを要求される役割を負わされた。周りに気を配り、もっとも小まめに体を動かし、つらい仕事をやらされるために「婿番」と言われた。だから、親たちは息子が初山になるまでに山の労働に耐えられる体力や道具の使い方、人の顔色を見て気を配ることに至るまで、ひととおり教育を終えておく義務があったのである。


そういった、壁みたいな役割を昔は、親や、地域の人が誰に言われるでもなく、生まれ育ったことを大人になったら自分の番だと、自然とこなしていたようにも思う。今ではコンプライアンスで、やれなくなってなってしまったこと。それは、成長のために必要かと思うようなことで…でも、もうなかなかに理解されない、というか昔から理解されないからこそ、一部の地域だけで発展したのならば、それは、静かにどこかで、知られずに、まだまだこれからも続いて欲しいと願うばかりです。



その分に応じて客に出すようにとか、嫁取りや元服の際の招待客をもっと制限せよ、子供の誕生祝いの祝い着に絹を使ってはならない等々、細かいところまでにわたって節約質素に努めるようにと村内法で定めているのである。

これらの規制の内容から逆に、庶民がハレの時には大きな消費をしていたことがわかる。

昭和三十年代末の四国の農山村で、春の彼岸に各家が二百個も三百個もまんじゅうを作っているのを見て驚いたことがある。

そんなに作ってどうするのかと問うと、親類に十個ずつ配るという。ところが、どの家もそのくらいの数のまんじゅうを作り、お互いに配り合うのだから、結局は作った数だけのまんじゅうがどの家にも残ることになる。一日ではとうてい食べきれず、何日もかかって食べるのだから、一見すると大変な無駄である。しかし、お互いに物を交換しあうことによって、家と家、人と人との関係を確認しあい、今後も親類として親密なる関係を続けることを暗に相手に告げるのである。また同じ時期に同じ食べ物を、食べる場所はそれぞれの家庭であるとは言え、皆がいちように食べることによって、一つの共同体に生きるものとしての一体感を持つことができるのである。ハレの日の大消費は、流動性がなく、閉鎖性の強い社会で、沈満しがちな人々の活動や関係を活気づけるもっとも有効な方法であったろう。


これは、思います…!!とても強く。同じ食器でみんなで食べることには、意味合いがあると。そして、ハレとケを定義して生活すること。常にハレであってしまえば、それはもはやケとなり、ハレが消えてしまう。そういうバランスの中でしかお互いが存在し得ないことに早く気づくこと。そして、それを分散させること。ここには人間が「豊かさ」を感じる仕組みが多分に含まれているように感じます。俗に言うお金では買えないこと。



  

祭りが日常の秩序の逆転を意味するものを含むとするならば、裏返しにされしかも左袖だけ手を通して着られた羽織は実に象徴的である。なぜなら、日本の文化の中で「左」の強調は、正常性や一般性の逆転を意味するからである。なお、この羽織の背裏の代金は職人の月収の一ヵ月分に当たる高価なものさえあったといわれる。

祭りにおける大消費は経済的な価値の逆転を意味した。日常の生活(ケの生活)では賀素や倹約が価値を持ち、無駄やぜいたくは固くいましめられた。ところが、祭りの場でのしみったれや節約は美徳でもなんでもなく、むしろ人並みのつき合いも心得ない者の行動と非難された。日常の倹約は金を蓄えるためのものでもあるが、そのためた金は派手に使いきるためのものであった。しかし、現在ではどんたくの費用の個人負担は少ない。むしろ、企業がその宣伝をかねて社員によるパレードを行ない、また企業名入りの仮設舞台を作って宜伝につとめる。

例えば、日常餅をつくことを忌む気持ちがあり、「祭りの日でもないのにキネの音をさせるものではない」と言われていた。昭和四十年代初めに先に例をあげた四国の農村を調査した時でも、「病人が餅を食べたいなどと言い出すと、隣近所に断って理由を話し、餅をつく」と話していた。日ごろ化粧をしたり、長い着物を着たり、白米を食べたり、酒を飲むことは単なる浪などではなく、不道徳とさえ思われ、陰に陽に村の人々から非難されたのである。

一言で言えば、その対象は耐久消費財であった。かっての日本人が、ケの日に節約する一方で、ハレの日のための特別の衣服や食器や用具を調えようと努力したことが、様々な優れた工芸技術を発達させたように、特に昭和三十年以降の日常生活の「ハレ化」は、大量の耐久消費財の購入となって現れ、それは日本の工業生産の水準を引き上げ、高度成長経済を支えてきたと言えよう。


ハレのためのケのようでいて、実はケを過ごすためにあるハレなんじゃないかなと思うわけです。日頃、派手にすると非難されたというのも、暮らしの知恵というか。それが、倹約的な話のように聞こえるけれども、それは実は理にかなった幸せを1番に感じられる暮らしの割合だったんだろうかと。今の私たちは、ハレを求めすぎて、ハレの立場が消えかかってるように感じる。ケをケとして過ごすだけに満足できなくなってしまったというか、ハレでいられること、求めて得られる生活を過ごすことが1つの目指すべきステータスになってしまったというか。それは、旬を待つことの楽しみでもあるはず。それが、一年中同じ野菜を食べれてしまうことも、もうハレなんだと感じます。日常生活のハレ化が、高度成長期を支えた・・・ってのは、発展のようでいて、それは悲しいことに、貪られていたんでしょう。それが今、ピークというかもう、これ以上ないってところにいる気がします。


  



「血のつながり」が存在するなどということを認めるのは人間だけである。「社会的な血のつながり」を意味する「出自」の認識が家族や親族などの社会集団を形成するうえで久くことができないし、家族や親族は人間の社会形成のうえで長い間にわたって重要な役割を果たしてきた。

人間以外の動物で母親との関係が存在する期間というのは、子供が自分でエサを取ることのできない無力な存在であり、個体としてまだ小さく、母という他の助けがないと生きてゆくことができない間だけである。いったん成熟した子供は親から離れ去っていく。成熟した子供の世話をする親はいない。親は子が小さいうちは面倒をみるが、その親が、その後老化や病気によって衰弱し自分でエサを取ることができなくなっても、その子や他から助けを受けることはできない。一方、人間は子供を養育するとともに、病弱な者、老いた者の世話もする。人間に特徴的な家族制度や出自の確認は、子供の養育とともに、老人の援助をその一つの大きな目的として発達してきたと言えよう。そして人間の文化の発達は、知識や経験が世代を超えて伝えられ蓄積されたことによる。人間の社会がそれ特有の「老人問題」を抱えるのは、人間が文化を発達させることと引き換えに手に入れた結果である。


なるほど・・・。血のつながりを感じる仕組みというのは、確かに自分が弱った時の一人では行きていくことができないことを、みんなが感知、察するためなのかもしれないですよね。老いることが問題となったのは一体いつからなんでしょうか。どこかそれも文化の発展の中で「若くいること」が特権階級とするような風潮の中で、それを求めることにお金が動くといった仕組みからなのでしょうか。。。そこには「血」の代わりに「美」で人が動き、人間に踏まれてタネを飛ばしていくオオバコのような元からあるシステムを壊すばかりかなとも。歳をとっても2、30歳差のある若者と常に同じ土俵に上がって戦えることって、人間全体を遠く、逆軸で1万年未来から見た時には、それって健康な働きなんでしょうかね・・?こうやって生きている今も、どんなに不健全だったか、きっと笑われるのでしょうね。ヒロポンやら、農薬やらの、私たち人間がやってきた話からすると。




老年人類学を専攻する片多順氏(福岡大教授)は、その著『老人と文化』(昭和五十六年刊)の中で、ブッシュマンや、食料不足が深刻で争いごとは食物をめぐって起きるといわれるボリビアのシリオノ・インディアンにおける、小型動物や、容易に手に入る果物、あるいは消化が良く栄養価の高い食物を、老齢者と幼い子供にのみ独占させるための食物禁忌の存在について述べている。つまり、それらの食物を若者が食べると動きが鈍くなるとか白髪になるとか、あるいは病気になるというのである。そのような禁忌が存在するために、壮年者や若者はそれらの食物を自分たちの食料とはしない。その結果、食料採集の能力の低い老人や子供に、それらの手に入りやすい食料が残される仕組みになっている。

五十年後の日本の経済的状況がどのようなものであるかは予測がつかないが、現在より仮りに悪化していたとしても、国民全体の生活水準を下げれば問題は解決するのである。先に述べたように、「老人」とみなす年齢を例えば七十五歳に引き上げたとしても、老齢による体力の衰えや病気にかかりやすくなるという事実は変えることはできないであろう。一人の就労者が扶養しなければならない計算上の「老齢人口」は、「老齢者」の年齢をたとえ七十歳、七十五歳に引き上げても徐々に増加してゆくかもしれない。しかし、現在の「老人問題」の論じられ方は「老人を大切にできる社会こそが、人間の社会としての成熟を示すもの」というもっとも基本的なことを忘れているとしか考えられない。豊かな現在の日本で、「将来への対応」と言いながら、実は老齢者への偏見が作られてゆくことを恐れる。

親夫婦がすっかり老いて、姑が食事の支度ができかねるようになると、嫁が食事を作って隠居屋へ運ぶ。昭和四十年に壱岐島の農村を調査した折、歩くのがやっとだというおばあさんが隠居屋から母屋へ食事のために傘をさしてやって来るのを見た。漁村と異なり、広い敷地の中に大きな母屋が建っている。そのおばあさんに「一人で離れて寝起きして寂しくないですか」と尋ねると、一人で暮らしている方がずっと楽だし、一人といっても目の前に子や孫がいるので寂しいなどということはない、母屋へ移るのは自分の葬式の時だと言って笑った。


これは、私の家でも起きていたことかもしれません。1階と2階の一軒家での二世帯だった実家は、一緒にご飯をともにすることはなく、時々顔を見せることがありました。それが当たり前に思っていましたが、他の家はそうでもなかった。口減しとは無縁の話ですが、元を辿ると、そういった老人への対処法?という意味合いが元来強かったのかと感じた。ここでの「老人を大切にできる社会こそが、人間の社会としての成熟を示すもの」という基本を、忘れてはいけないという話は、いまではどちらかというと「老害」として切り捨てられそうになっているようにも感じる。積極的な制度として、現代の高齢化対策というのは、色々と叩かれてしまう時代だからこそ、それを掻い潜って何ができるものか?何が残されているものかとも思う。口減し的なことは全くできないわけで、かといって、歳をとれば、自然と食事は少なくなり、でかけることも減る。それに伴っての暮らし方、隠れ家ではないけれど「自分はもう、そういう自分なのだ」と、割り切れるような生活が、幸せであることを感じられる高齢者が、減ったのではないかと思う。つまりは「若々しく」「お元気ですね!」と言われることが幸せの代名詞となってしまっているからこそ、そうあるべきという傾向が強く、その分そうなれない人が「老害」として映ってしまうのではないか。改めて、みうらじゅんの「老けづくり」は素晴らしい方向からの可能性だなと思うばかりです。そうなっても良い、もしくは、そういう価値観で生きてもいいはずなのに、と。







荷物の運搬は「カベル」「イタダク」といって、約十貫から十五貫(三十七キログラムから五十五キログラム強)もの荷物を頭上にのせて運んだ。これだけの荷物を持って、日帰りの商売では往復で四、五里(十六キロメートルーニ十キロメートル)から十里(四十キロメートル)も歩いたという。    ( シガ )

勝本浦では女性の出産や月経は「不海」だと考えて、祭りや漁業にかかわることから神経質なほど排ける。しかし、女が漁にたずさわれないから女性が実際の生活で男性に比べて劣位を占めるのではなく、女性(妻)は、陸での生活をしっかりと支えており、陸での支えが強いほど、男(夫)は安心して海での漁に専念できると人々は考えている。生活というものはどちらが上でどちらが下という優劣で計れるものではない、両者の協力によって成り立つのだということを、勝本浦の人人は様々な言葉や行動で示してくれた。「近代化」した社会と考えられる工業生産社会で、女性の地位の劣位が明白になり、確定的になっているのは、人間の暮らしというものが、あいまいになり、その実体がぼやけてきたからではなかろうか。

今日の都市生活者の間では、死は「不浄」であるから喪中はお宮に参らないとか、神社の祭りに参加しない、あるいは正月は祝わないという習慣は一般的に見られる。しかし、お産が「不浄」であるから神ごとをはばかるという心持ちは極めてうすいと思われる。子供が生まれて三十日目前後に行なわれる「お宮参り」が、実はお産の「忌み」が明けたことを示す儀礼であり、それ以降は太陽に直接赤児も産婦もさらされて良いのだというようなことを、ほとんどの人が知らない。お宮参りの赤児の掛け着物は、お宮へ参るまでは赤ん坊の頭までスッポリかくれるように掛け、お宮へ参って神官のお祓いがすんだあとはすこし下げて、頭や顔が見えるようにすることの仰上の意味についても知っている人は少ないであろう。つまり、お産は、産婦だけに不浄がかかるのではなく、赤児にもかかっているという仰がかつては存在したのである。今日、お宮参りの儀礼のみが残り、その仰はすっかりうすれてしまった。今日「忌引き」といって職場や学校を休む制度は、家族や親族の死のみにかかわっているが、伝統的には「忌引き」は、出産についても存在した。勝本浦で妻がお産をすると夫が漁を休むのはこの「忌引き」にあたる。

鉄砲撃ちも恐ろしさのあまり、穴から若者が出てくるのを待ちきれず撃とうとするため、穴へはいり込む若者と一番手の鉄砲撃ちは必ず肉親関係の者がなったという。それでもクマに襲われることはあり、穴グマ狩りの最後の負傷者は、一人は太ももをかまれ、もう一人は頭部を前足でひっかかれて生頭髪が生えなかった。そして、二人ともその妻が妊娠中であった。人人は「だから妊娠中の女房を持っている者はクマ狩りに加わってはいかん」と言う。現在は遠くから同時に何人もで撃つので、かつてのような危険はないが、それでも妻が妊娠している場合は必ず辞退する。

女性の生殖能力によって社会の成員が補充され、社会は存続することができる。それが周知の事実であるにもかかわらず、女性の生殖にかかわる現象が女性のハンディキャップとしてとらえられるということは、「生産」というものが経済価値を持つ製品の生産やそれをめぐる活動にのみ限定され、また「生産効率」が一個の企業や工場や作業所、職場のみを単位に考えられていて、社会全体で見ようとはしない傾向が厳然と存在することを示している。


男女の中での役割と、血縁関係だからこそ成しえることができる。女性の出産が「忌み」という話もかなり興味深い・・・。そして、お宮参りは本来「忌み」が明けるということも全然知らなかった。

バランスをとるために「忌み」に入るというか、、、そこもハレとケの関係性だとも思いました。もちろん大量出血といったことでしょうが、子どもが生まれるめでたい後にこそ「忌み」をするというか。腹八分的な。私も、そこはいつも注意して過ごすようにしてますが、なんというか、良いことがあった時、もしくは大きな変化がある時には、例えば高価で買って大切にしていた靴を捨てるとか (もちろん履き古してしまったのもありますが)、1日何もしないとか、徹底的に掃除するとか。若干違いますが月の満ち欠けでも満月は吸収しやすいからこそ、栄養価のあるものを。新月へと向かう時には、デトックス。( とか言いつつ、ポテチはいつ食べるんだという思いもなく、無償に食べたくなったタイミングで食べてますが・・・ ) 近代化の中で、女性の家事が働きとして軽視されていった ( 家事は当たり前にやるものだと、なんとも思わなれないようになった & 逆に夫へも「家事を手伝って!」と、なること )ことは、どこかに歪みが生まれる気がする。それは、見えないけど、存在しているエネルギーのようなもので、それは、押されれば倒れるような当たり前のことじゃないかなと。ずっと押されているのに、気づいていても、倒れなくても大丈夫でいられる世の中になるためのテクノロジー、もしくは不感症・不眠症になる生活は、いらないなぁ・・・と、頭の中でブツブツ。






・・・・面白いことに、盛んに「非行」をしていた若者達が若者組を退会すると、すっかりそれらの行為を止めてしまうのである。しかも、若者組の幹部を勤めたような人は、消防団長になったり、区長になったり、場合によっては漁協や農協の幹部、村会議員や町会議員になってゆく。年下の若者を使って、組織ぐるみで「非行」をやっていた主謀者が何十年か後には村落内の幹部として、若者の「非行」に眉をひそめる側になるのである。

つまり、若者組の「非行」や横果は、やっている者たちにとっては真剣で本気なのだが、客観的に見ると「制度化」された「非行」であり、その時期に何をやろうと、後あとまでその人の人生に傷を残すことにはならなかったのである。そして、若者宿は、思春期の子供を、ある時期だけ、枠はあるとは言いながら、家族からそして村落の厳しい規制から切り離す役割をし、一方では一人前のムラの成員として育ってゆくための修養をさせながら、他方ではギリギリー杯まで、社会的なルールを無視する行為を若者たちに許す場を提供したことになる。若者宿の青年たちと、都市生活者で兄弟姉妹が一人か二人、多くて三人くらいの家族における中学生や高校生を比較してみると、その差異がどれほど大きいかわかる。家庭でも学校でも、子供は監視や千渉や保護はされても、かつての若者たちのように適当につき放し、勝手に振舞わせ、しかし、自分たちの立場や役割は絶えず意識させておくというようなことはない。そのような機能を備える集団は、今の都市社会のどこにもないのである。子供部屋は親や学校からの避難場所なのだが、そこは若者宿とは異なっている。若者宿は若者たちがそろってうち込めるような「非行」も教えてくれるが、同時に社会の一人前の成員となった時の技術や知識や生きてゆくうえでの知恵を教えてくれる先輩がいた。しかし、都市の家庭の子供部屋には、そのような先輩はいないのである。


これは、すごいヒントかもしれません。今は多様性とか色々な年代の人と一緒にいることが何か、学びが多いみたいな風潮が基本になっているところに、どこかこの頃、違和感を感じていたからです。それって普通に過ごして日常的に出くわす人間関係を、わざわざ、なしてコミュニティーと呼ぶのか。そして、当たり前にその中では「対話的」な会話が繰り広げられて、その中には不自然に話に登らない話題が多い。エロだとかグロだとか、非友好的な話だとか喧嘩だとか。それは一体どこへ・・・?というのを、解消できないでいる人が多いのではないかと。そういうことを本当にくだらないこと(当人にとっては真面目)を、同じ世代の人と、答えもなく、ただ今の時間を無邪気に過ごすということこそ、今足りていないんじゃないかと。職人のような話下手でぶっきらぼうだけど、とにかく技術がある。みたいな存在が生まれることが、コミュニティー形成よりも大事だと思って。若者が、若者でいられる場所ってのは、絶対的におかしな世界なんだと思う。やっちゃいけないことをやってみたい盛りなんだから。私だってそうでしたもん。




ヨバイの語源についてはともかく、ヨバイとは男女の結婚前の交渉のすべてを指すと言えよう。性交渉を持つこともあったし禁じられていることもあった。若者が数人で連れ立って、頬たちが夜なべ仕事をしている所へ出かけ、退屈で単調な手仕事をしている娘たちを、若者とその性を楽しませるための、歌をうたったり滑稽話をしたりする行為も含まれていた。 

明治二千年代生まれのあるおじいさんは、性関係を伴うヨバイの実行者としての話を私が聞くことのできた唯一のインフォーマトであったが、八十人の女性と性関係を持ったと語った。

その内の何人かは同じムうに嫁に来ているということであったが、「その人たちと毎日顔を合わせてもなんともないですか」という私の問いに、「ヨバイと結婚は違う」と言い切り、ついでに当時二十三蔵の未婚であった私に、「もう十年若ければ今御挨拶して、夜お邪魔するのだが」と言って笑った。ちなみに、「御挨拶する」とは、ヨバイをしたい相手に昼間出会った時、男の方から、肩に掛けた手拭いをはずしてチョッと頭を下げることを指した。

女はもっぱら承諾するかしないかの意志表示をするのみで、決して教極的な態度は取らなかったという。そのやり方は、気に入った娘に出会うと、先に述べたように、男が手拭いを肩からはずす。それに応じて娘が頭から手拭いを取るとそれは承諾の印であり、知らん振りをされると拒否の印であった。娘の承諾を得て、ヨバイに行けば、娘が寝ている部屋、あるいは戸が開く場所には、その外の軒に昼間見た手拭いが下げてあり、それが手引きとなって、難なく部屋に入り込めたという。ヨバイには一人で行くのではなく、大抵は若者組の年下の者を二人ほど連れて行き、外で見張りをさせた。

結婚が前提でなければ、三度までしか同じ娘の所へは行かないもので、自分もどんなに好きな娘の所へでも四度は行ったことがないと語り、また、行為は娘が昼間の激しい労働で眠っていることが多く、起こさないよう優しくするのが良いとされたという。娘とは決して言葉を交わさないことも作法の一つで、それは、家族に気づかれないということのほかに、何か重要な意味があるような気もするのだが、今の所私にはその意味がわからない。

自分の娘の所へ若者が通って来ないと、親は心配の余り、酒を持って若者組へ、ヨバイをしかけてくれるように頼みに行くことさえあったという。なぜなら、ヨバイの経験を持つことが、若者や娘の結婚の条件とされることさえあったからだという。

花嫁が到着する頃を見計らって、若者組の中でも特に花婿と仲の良い未婚の青年が二人で、台所の戸口の所で餅をつく。花嫁が台所に入り座敷へ移るまで杵の音をさせ続ける。これは、この結婚によってこの新婚夫婦の性行為がうまく行なわれ、その結果多くの子供が生まれるようにとの呪術的意味を持つ儀礼であると民俗学では言われている。


女の子へちょっかいを出す行為も、遺伝子的に残された非公式なヨバイなのかもしれませんね。人の中の成長の過程で「非行」が必要なのであれば、それが許される期間が存在しない限り、その非行が許されない期間でいつか起ってしまうのは必然的に思える。夜這いが同じ人は三度までというのは、なんとも人間らしい制度ではないかと思いました。餅つきの縁起もよくわかるし、それならば餅はやっぱり特別な日に食べるものだということも納得です。同世代の中でしか分かち合えない諸々を、若者宿で強制的に切り離し、そこを解放特区にする。15で山に入るのと、同じく、大人になることを約束されたことの証でもある。その証、通過儀礼がないままに、大人になっている・・・二十歳の成人式はあるけれど、あれも形ばかりで「責任」という、体験がなかなかに見えてこない気がする。夜這いもまた「責任」だ。しかも個人ではなく、誰かとの責任であって、それを見て見ぬふりできる親たちの責任として見逃すあたりに、信頼関係と、度胸と、大人という別の人間になったことを、自分で理解、自覚する過程が生まれるんでしょう。SEXは、その役割をいつの時代も果たしているものなのかもですね。。。









膨大な資料や私自身の調査でわずかではあるが得ることのできた資料が教えてくれるのは、伝統的な日本人が、貧しい生活に実に「豊かな意味」を与えながら暮らす方法を発達させていたということである。得ることのできる食料や金が、どんなに頑張ってみたところでそれ以上は増やすことができなかった時、それを三六五日均等に消要するのではなく、「ハレ」と「ケ」という生活律を発達させ、節約と質素の「ケの日」と、浪費と贅波の「ハレの日」とを交互に混ぜ合わせ、しかもハレの日に様々な宿仰上の意味づけを与えていたことなどは、人々の生活を豊かにする最高の知恵であったと考えざるを得ない。

家族法の研究者である有地亭氏(九州大学教授)は、日記、自叙伝、新聞記事等々の多様な資料を用いて著わした『日本の親子二百年』(昭和六一年刊)の中で、父の子に対する権威などもともとなかったことを明らかにしている。元来ないものをあたかもあったかのように錯覚し、しかもそれを美化して考えていたのでは「過去に学ぶ」どころではなくなる。一時期、個人住宅の間取りの中に父親の「書斎」なるものがさかんに取り入れられていた時期があった。それは父親はたまにしか家には居ず、居れば寝そべってテレビを見ている。そのような姿を子供に見せているのでは父親の権威など生じるはずもないので、書斎でたまには勉強しなさいということであるらしかった。ブームの火付け役はどこであったかは知らないが、これなどは滑稽の一語に尽きる。

民俗学にしろ文化人類学にしろ、手っ取り早く使える手段など私たち現在に生きる者に与えてくれるはずもないのである。


父の子に対する権威はもともとなかった・・!驚きな言葉です。本当に過去に学ぶどころじゃないです。確かに書斎をもつことで、威厳が出る。そういうブームからか・・・。私たちは何をしているのでしょう。家族の父とは、そういうものではない。社会の在り方の中で、父のそういう姿が必要であったというわけだ。上司部下の関係からのストレスで、それが家庭でも上下関係として・・・とかになっていたらだいぶ嫌だなとも。会社の仕組みがなぜ、そうなったのかも気になります。。。

そして、どんなに頑張っても増やすことができなかった食糧やお金の名での「ハレ」と「ケ」の工夫。実はここは、安易に”豊かそうな暮らし"ができてしまうようになったからこそ、その表面的な豊かさの中で圧倒的に足りていないことが、その「ハレ」と「ケ」の感覚なんじゃないかと痛切に感じる。暖をとるだけでも、それはありがたいことで、「ケ」の生活の中でいかに小さなハレのような出来事に幸せを感じることができるかどうか。これが、今もよく言うような「置かれた場所で咲きなさい」や「小さな幸せ」「生きるヒント」みたいなことだと思うのです。生活に根ざした出来事で、旬の野菜であったり、もしくは誰かからのお裾分けとか、そういった自分ではどうにもならない偶然なことを日常のハレとして受け取る感覚は、便利さやスーパーの食べ物が半額になるよりも、温かな気持ちになることを、今の忙しい仕事の中ではとんと忘れてしまうのでしょう。









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