「春宵十話」 岡潔
なんて大切なことばかり書かれている本なんだろうと思いながらも、なんて、子どもから青年、さらに年寄りになると、こうなるのだろうかとも思った本。途中までですが、これは割とバイブル寄りな本ですね。
ずっと早く成育するから、成熟が早くなるということに対してもっと警戒せねばいけない。すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい。これが教育というものの根本原則だと思う。
戦後、義務教育は延長されたのに女性の初潮は平均して戦前より三年も早くなっているという。これは大変なことではあるまいか。人間性をおさえて動物性を伸ばした結果にほかならないという気がする。たとえば、牛や馬なら生まれ落ちてすぐ歩けるが、人の子は生まれて一年間ぐらいは歩けない。そしてその一年の間にこそ大切なことを準備している。
とすれば、成熟が三年も早くなったのは、人の人たるゆえんのところを育てるのをおろそかにしたからではあるまいか。ではその人たるゆえんはどこにあるのか。私は一にこれは人間の思いやりの感情にあると思う。人がけものから人間になったというのは、とりもなおさず人の感情がわかるようになったということだが、この、人の感情がわかるというのが実にむずかしい。赤ん坊の心の大きくなり方を観察しても、最く心配になって、とうてい話しかけずにはいられなくなったからである。その結果がこの小冊子となった。
なるほど…!と、思いつつすごい良き刺さる話があるのですが、もしやこれは歳を取ったって裏返しでもあるのかも…とも少々、自分自身をも煙たい存在として少しは、身の振る舞いに注意しなくてはとも思ったのです。読み進めての後々に。すごい大切なことばかりなのですが。
ずっと早く成育するから、成熟が早くなるということに対してもっと警戒せねばいけない。すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい。これが教育というものの根本原則だと思う。
戦後、義務教育は延長されたのに女性の初潮は平均して戦前より三年も早くなっているという。これは大変なことではあるまいか。人間性をおさえて動物性を伸ばした結果にほかならないという気がする。たとえば、牛や馬なら生まれ落ちてすぐ歩けるが、人の子は生まれて一年間ぐらいは歩けない。そしてその一年の間にこそ大切なことを準備している。
とすれば、成熟が三年も早くなったのは、人の人たるゆえんのところを育てるのをおろそかにしたからではあるまいか。ではその人たるゆえんはどこにあるのか。私は一にこれは人間の思いやりの感情にあると思う。人がけものから人間になったというのは、とりもなおさず人の感情がわかるようになったということだが、この、人の感情がわかるというのが実にむずかしい。
私も最近、最初の孫を持って、無慈悲を憎む心や思いやりの気持を持たせようと思い、感情がいつわかるようになるかと手ぐすねひいて待っているが、なかなかわからない。といって、いわゆるしつけは一種の条件反射で、害あって益のないものだからやりたくないが、あまり気ままの雑草が生い茂っても困るのでしつけをせねばならないのだろうかと悩んでいる。やはり心を育てる時期はあるに違いない。それは植物でも茎、枝、葉が一様に平均して育つのではないのと同じことである。ある時期は茎が、ある時期は葉が主に伸びるということぐらいは、戦時中みんなカボチャを作ったから知っているはずだが、人間というカボチャも同じだとは気がつかず、時間を細かく切ってのぞいて、いいとか悪いとか、この子は能力があるとかないとかいっている。
思って見ればすごい成長ですよね…!!人生最大の成長といっていいくらいに。そこから先の成長したことってのは、なんでしょう。言葉をしゃべる。確かに人の感情がわかるってのもすごい話です。わかりすぎるのも、大変生きづらいですが、すごい成長です。
頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は本当は情緒が中心になっているといいたい。人には交感神経系統と副交感神経系統とあり、正常な状態では両方が平衡を保っているが、交感神経系統が主に働いているときは、数学の研究でいえばじわじわと少しずつある目標に詰め寄っているときで、気分からいうと内臓が板にはりつけられているみたいで、胃腸の動きはおさえられている。副交感神経系統が主に働いているときは調子に乗ってどんどん書き進むことができる。そのかわり、胃腸の動きが早すぎて下痢をする。
生きることとはお腹を下すこと。。。それはやりすぎだ!っていう体のブレーキなんでしょうね。私も一時、色味の世界にずっといた時に味覚が一時的になくなりました。病院へ行っても原因不明でしたが、数日ちゃんと生活をしたら自然と治ったものです。コロナとかではないまったく昔の話です。
そのとき混乱を起さないためには、いまから年齢などにあまり重点をおかない習慣をつける方がいいだろう。年長者を大事にしろというしつけをしていると、将来困ることが起きるかもしれない。
え!そーなんですか!!
一年間高等小学校に通って、二度目に粉河中学に入り、中学二年のとき初めて代数を習ったが、この年の三学期の学年試験では五題のうち二題しかできなかった。私はいつも一番むずかしそうな問題からとりかかるのだが、この時も最初に最もむずかしいのに取り組んだところ、一学期に解法を習ったのに忘れてしまっていた。それであせった結果、他の問題まで間違えてしまったわけだ。三学期の試験が最も重視されていたため、結局この年の代数の平均点は六十八点というみじめなことになった。試験がすんで郷里へ帰ったが、この不成績が気にかかってくよくよしていた。ところが、ある朝、庭を見ていると、白っぼくなった土の上に早春の日が当たって春めいた気分があふれていた。これを見ているうちに、すんだことはどうだって構わないと思い直し、ひどくうれしくなったことを覚えている。
すごい良き話です!それくらい体に任せていいはずなんですよね。。。体がそう言って来るんだから。
いつも試験の始まる一週間前からしか勉強をしなかったので、家ではすることがなくて退屈で困った。しかも家にあった本は「西遊記」「真書太閤記」「近世美少年録」等々と手あたりしだいに高等小学校時代にみな読んでしまっていた。
そんなわけで法律書や漢文の歴史書以外は何も読み残してなかったが、一つだけ残っていたのが、十九世紀の英国の数学者、クリフォードのものを菊池態が訳した「数理釈義」だった。第一章の標題は「物の数はこれを数るの順序にかかわらず」第二章は「物の数はこれを加うるの順序にかかわらず」といった調子の大分変わった本だったが、わからないところがおもしろくて読みふけった。その中で一つだけ非常に印象的なものがあった。それは「クリフォードの定理」で、奇数個の直線は円を決定し、偶数個の直線は点を決定し、直線の数をいくらふやしてもそれは変わらないといった定理だったが、これがいかにも神秘的に思えた。その後も実にいろいろな定理や問題に出会い、そのたびに解ける限りは解いてしまったが、この定理だけは、いまだに証明しようと思ったことがない。証明してしまえば当り前のことになって神秘感がうすれるからである。
けれども当時は、しばらくあたためていたあとで、どうにも気になり、本当にそうなのかやってみようと図を描き始めた。すると実に大変な手間で、直線をだんだんふやして七本のところまで描くのがせいいっぱいだった。三学期の初めから期末試験が始まるまで描き続けていたので、二か月ほどクリフォードの図ばかり描いていたことになる。しかし、いま思うと、これが私に数学の下地を一番つけてくれたのに違いない。
すごいはなし!!試験勉強は1週間前だから、やることがないって笑 岡潔さんの世界ではそうなのでしょう。私で言うと… すべては中途半端に終わらせておく。そしてあっちやってたら、急に違うことをしたくなって、でもその気分じゃないと、あれ?さっきまであんなにやりたくなかったことが、なんだかやれるぞ!と、やりどきを逃さずに生きる…みたいなことでしょうか。それが下地となってるとしたら… 大きな人生の枠として、確かにバーーーって深くやったら、違う分野にいってますね。それは、もうそれでしかないのですが。なので続けていないわけじゃなくて、いつか続けるために、やめてるだけなんです。感覚として。。。
しかし、物理学科一年生のとき、講師の安田亮先生の講義を聞いたのが数学科へ移るきっかけになった。期末試験の先生の出題は二題とも応用問題だったが、私のくせで、むずかしい方から取り組み、一題に二時間のほとんどを使ってようやくわかった。あんまりうれしくて「わかった」と大声で叫んでしまい、前の席の学生はふりかえるし、監督に来ていた安田先生にも顔を見られるし、きまりの悪い思いをしながら大急ぎで鉛筆をとった。このあとも試験があったが、とても受ける気がしないので、放り出して、ぶらぶら円山公園に行き、ベンチに仰向けに寝て夕暮れまでじっとしていた。それまでずっと、変にうれしい気持が続いていた。これが私にとっての数学上の発見、むしろ証明法の発見の最初の経験だった。
エウレカ!ですね。これは…わかるような分からないような… でも、ワークショップをしていてこれだ!ってなった時は嬉しいですね。それは、言葉にもできないのと、時々にしか起きないのですが。心の中でニコニコで、しばらくニコニコになります。
何事によらず、力の強いのがよいといった考え方は文化とは何のかかわりもない。むしろ野蛮と呼ぶべきだろう
たしかにそうですね。。。でも、それで世界は回っているようにも感じてしまいます。
孔子の「論語」に、最初は学をつとめ、次に学を好み、最後に学を楽しむという境地の進み方を述べたことばがあるが、この「楽しむ」というのが学問の中心に住むことにほかならない。孔子自身は、自分を学を好むが楽しむところまではいっていないと述べており、弟子の顔回のことを、あるときは学を楽しむとほめているが、常に楽しむとまでほめてはいない。
楽しむ…深いところでですよね。。。知識を学びつつも…というところで…
理想はおそろしくひきつける力を持っており、見たことがないのに知っているような気持になる。それは、見たことのない母を探し求めている子が、他の人を見てもこれは違うとすぐ気がつくのに似ている。だから基調になっているのは「なつかしい」という情操だといえよう。これは違うとすぐ気がつくのは理想の目によって見るからよく見えるのである。そして理想の高さが気品の高さになるのである。
たしかに… うーむ。理想の高さが気品の高さ・・・、高すぎても鼻につかないかな・・?笑 でもその「なつかしさ」を基調にするのであれば、それは理想ではなく、元々の場所へと収まるというような"理想"なのでしょう。
真善美のうち最もわかりやすいのは美だが、たしかに美は実在する。私はこの実感を確かめるのがうれしくて、よく絵の展覧会を見に行く。数学のゼミナールの時間に学生たちをつれていくことも多い。それは数学の最もよい道連れは芸術であることを知ってもらいたいからである。見に行くと時々美の実在を感じさせてくれる絵にぶつかることがある。美はいま眼前にある。しかしどんなものかはいえない。「ことばではいえないが知っている」ともいえない。真善美は、求めれば求めるほどわからなくなるものだと思う。わからないものだということを一般の人たちがわかってくれれば、それだけでも文化の水準はかなり上るに違いない。
おー!!わからないものだということを、わかる。ほんといろいろなことがそうです。。。
私の生活のやり方は、一言でいえば自然に従うということである。私の研究時間は、おもに夜考える「夜型」の時と、おもに昼間考える「昼型」の時とあるが、季節によって、また日によって、どちらになるか別に決めているわけではない。ただ私自身の生理状態に従って夜型であったり昼型であったりするだけで、すべて自然にさからわないようにしている。夜ふとんに入ってからは考えるともなく考えており、おそいときは夜明けまでそのまま考えている。暗闇の中だが、心の中にあるものを心の目で見ているだけだから別にあかりの必要はない。
ありがたいお言葉です!私もそうします。
内側の垢、つまり妄智であるが、私が三高の一年生で林観一著の「不等式」の間題を解いたとき、その序言に「人の頭の利鈍を分つには不等式ほど適したものはない」とあった。ところが、私は大小関係があることまではすぐわかるのだが、その下の、ではどちらが大きいのかというところからはさっぱりわからない。方角も同様で、方角があるというところまではすぐわかるのに、どちらが西で、どちらが東かはさっぱりわからず、街を歩いていても、一度店へはいって出ると、すましてもと来たほうへ戻っている。思い切ってこの下の部分を切り捨ててしまって、上の部分だけにするくふうをしてみると、ふしぎに思索の足が軽々と運べて、たいていの問題には困難を感じない。変だなあ、自分は頭が半分だけ生まれつき鈍なのかなあと思っていたのだが、後に気づいてみると、この切り捨てた下の部分が妄智、分別智だったのである。
えっ!なんですかそれ。やれるかなぁ…切り捨て。。。
善行とは分別智のはいらない行為だといったが、私の祖父はこのことを十分よく知っていたと見えて、私の数えて五つの年から自分の死に至るまで、一貫して、「他を先にし自分を後にせよ」という道義教育を施した。また父は私を学者にするつもりだったから、私に中学の寄宿舎にはいるまで金銭に一切手をふれさせなかった。この効果はてきめんで、私は今日まで一度も金銭に関心を持った経験はない。このように、私たちより少し前の人たちは実によく善行の特質を知っていて、それが少しでもやりやすいようにいろいろくふうして家庭教育をしていたと思われる。このくにのありがたさは、ただそうしていればよいというところにあるので、哲学などいらないから、なかったのは当然であろう。そして絶えず善行を行なっていると、だんだん情緒が美しくなっていって、その結果他の情緒がよくわかるようになり、それでますます善行を行なわずにいられないようになるのである。
これが古くからのこのくにのくにがらである。こうして日本的情緒ができ上がったのであって、この色どりはちょっと動かせない。春の野にはレンゲやタンポポもあるが、スミレもあるというようなもので、スミレに急にレンゲになれといってもそれは無理というものであろう。
この日本的情緒がくにの中身である。これが決まっているのだから、箱に相当する教育や政治はこれに合わせて作るほかないのである。
たしかに、善行は癖になる。ただ、なにかでリセットされる。。。一気にゼロに。それは、やっぱ妄知がまだあるってことでしょうね。。。。
いまの教育では個人の幸福が目標になっている。人生の目的がこれだから、さあそれをやれといえば、道義というかんじんなものを教えないで手を抜いているのだから、まことに簡単にできる。いまの教育はまさにそれをやっている。それ以外には、大を仕込むように、主人にきらわれないための行儀と、食べていくための芸を仕込んでいるというだけである。しかし、個人の幸福は、つまるところは動物性の満足にほかならない。生まれて六十日目ぐらいの赤ん坊ですでに「見る目」と「見える目」の二つの目が備わるが、この「見る目」の主人公は本能である。そうして人は、えてしてこの本能を自分だと思い違いするのである。そこでこのくにでは、昔から多くの人たちが口々にこのことを戒めているのである。私はこのくにに新しく来た人たちに聞きたい。「あなた方は、このくにの国民の一人一人が取り去りかねて困っているこの本能に、基本的人権とやらを与えようというのですか」と。私にはいまの教育が心配でならないのである。
個人の幸福・・・の中には、相対性はないのでしょうね・・・。相対性のない世界には、、、本来の人が「誰かといたい」というなくならない欲求は答えられず、全てが簡易的な、それっぽい代用で。簡単で、お金になるから。
無差別智というのは、意志を働かせることによって働く智力ではない。個人の意志よりももっと大きいものの意志があるとすれば、その意志のまにまに向うから働いてくる。そういうふうなものだと思う。「おやっ」と思うのも決して自分からではないのである。
もっと大きなもの…!!それですよね。突き動かされるのは。
昔の高等学校は理想を作るのにまことによい時期だったが、それだけでなく、道義の仕上げもやってくれた。特に、道義のセンスのうちでも正義的衝動が、私たちの学生時代には大いに見られたように思う。たとえば、車中でおばあさんに席を譲る場合、気の毒だからというのではなく、ほかに立つ者がいないのはけしからんというので立つといった正義心である。この流儀で今でもやっている者は、私たちの世代には随分多い。
この正義心をやゆしたのは芥川龍之介で、彼はもう一歩踏み込まなければいけないと述べている。それはもっともなことであるが、芥川がこのように批判したということは、少なくともあのころに正義心が世の中にどの程度存在していたかを示す一つの証拠にはなるに違いない。社会に正義的衝動がなくなれば、その社会はいくらでも腐敗する。これがいちばん恐ろしいことである。
正義…私にあるだろうか。。。いやーあんまりないなぁー思う。逃げてしまうタイプだと思う。でも、ある特定の条件で発動することも知ってる。あからさまに誰かが蔑ろにされていたり、平等でない時とか。。。ほっとけないのを通り越して本人がほっといてほしい時に、意図的にほっとけたり。その合間を見て、ほっとかないぐらい、発動のクオリティの高さと誤作動は低い。それも経験からでしかないことなのですが。
浪人中の学生で、大学に入ったら月に一ぺん論文を書くから私に直してほしいというのもあった。いまの学生で目につくことは、非常におごりたかぶっているということである。
もう少し頭が低くならなければ人のいうことはわかるまいと思う。謙虚でなければ自分より高い水準のものは決してわからない。せいぜい同じ水準か、多分それより下のものしかわからない。それは教育の根本原理の一つである。だからそういう態度でいれば必ず下に落ちてゆくもので、まず上に行くことはない。三人来たが押しなべてそんなふうだった。
こういう感覚は、いつの時代も形を変え現れる。この学生たちも大人になれば、同じ体験をし、同じようなことをいう。天気や季節が回るのと同じ、代謝としての生理現象で。私も。だから、気をつけないとと思うのです。でも老害というのは、間違った比喩と私は思います。誰しも鼻くそはほじるんだから。
おもしろくないのを覚えなければならない。ゼミナールだ、講義だといって自分の勉強はちっともしていない。こうして本来のものからはずれたものになり、理性が理性として働かず、鉛のさびをかぶせたようになってしまう。こういう人たちが先生になり、その調子で教える。義務教育の子に遊ぶひまもないくらいいろんなことを教え込む。その結果、子供たちは、わかってもわからなくてもぼうっとしていることになり、いろいろなセンスがけて正義心、廉恥心も働かなくなるのだ。
近ごろは集団として考え、また行動するようしつけているらしいが、これこそ頭をだめにしてしまう近道だと思う。人の基本的なアビリティーである他人の感情がわかるということ、物を判断するということ、これは個人の持っているアビリティーであって、決して集団に与えられたアビリティーではない。学生たちに最初から集団について教え、集団的に行動する習慣をつけさせれば、数人寄ってディスカッションをしないと物を考えられなくなる。しかしそれでは少なくとも深いことは何一つわからないのだ。
ようやく、これも今の時代、揺り戻し(?) どっかからの振り子的に、戻ってきたんじゃないでしょうか。どこかからはわかりませんが、、、それでもまだまだ蔓延っているわけですが。でも、そこを心地よい、ちょうど良いという人種もいることは、よく分かります。
仏教で因果応報というのは、前の世の報いが次の世に来るということだが、いまの女性の顔の変化は因も果もすでに現世であらわれている。きょうやったその結果がきょう出ている。これは釈尊でも説いてないことである。まさに超スピードで進化を逆行し、人から動物に変りつつあるという感じだが、動物だけではすまないで、人造人間を作っているのかもしれない。いったいどこへ行くのだろう。決定的な瞬間が近づいているのかもしれない。すべてをーぺん清算してやり直したほうがいいのだろうか。理論物理がアインシュタイン以来二十余りで原爆を探りあてたというのは文化史における一つのドラマで、普通ならこんなに早く探りあてられるものではない。そこに異常な、何か宿命のようなものが感じられる。どうもいまの世相を見ていると、何だか原爆がある使命を帯びて出てきたのではないかとも思えるくらいである。それは日本だけのことではない。しかし、日本は昔から情緒の中心だけは健在だった。それが汚されたら、いったいどこを指して日本というのだろうか。差し当りこの女性の顔の変化をどうくいとめるか、まさに未曾有の国難といってよい。くり返すが動物性だけは入れてはならない。他のものと害悪の次元が違うのだ。男性の顔も変化しているのだが、女性ほどは情緒に影響されないだけに、半分ぐらいしか変っていないように見える。
「すべていっぺん清算してやり直したほうがいのだろうか。」なんとも、同じことを考えています。「それ(情緒の中心)が汚されたら、いったいどこを指して日本というのだろうか。」。「動物性だけは入れてはならない。」ものすごく響く言葉です。・・・もう、動物性ばかりですね。便利さに傾いてしまった、この反動は、どこにどんな形で、いつどう、私たちを戻してくれるのでしょうか。







