「芸術人類学」 中沢新一
人類は対称性を取り戻すことができるでしょうか?(坂本龍一)答え可能です。人類の心は、基体の部分ではいまもそして将来も、対称性の原理によって作動しています。現実の社会をつくっているのが非対称的なものであっても、すばらしいことに、それは心の基体の部分に影響をあたえることがありませんでした。その基体が生き残っているかぎり、対称性の取り戻しは可能です。
今日私たちが直面しているのは、かつて人類が体験してきたどのような社会革命よりも大胆でドラスティックな変化が生み出されない限り、あらゆる科学的データが予測しているようにして、地球上での人類の生存は不可能になっていくだろうという、絶望的な未来像です。国家出現以来もたらされた意識変革がっくりだしてきた人類の心に、根本的な変化を生み出す「複論理(バイロジック)」ないしは「対称性」を取り戻す必要があります。しかも、それを「具体的」に、社会の内部にセットできなければなりません。
「芸術人類学」なる新造語をつくってまで私たちが追求しようとしているのは、人類の直面する危機にたいして現実の最深部で作用する力をもった、思考の対処薬なのである。
ここで語られている芸術の可能性についての肩頼とそが、「芸術人類学」の企てを導いている不動の北極星である。「芸術」ということばは、ここではもろもろの思考の力が寄り集まる純粋な墓点を意味している。
「対象性」については、まだ中澤さんの本をこれ1冊からしか読んでいないので、言っている問いの意味は”とり戻す”ということと、坂本龍一さんの感情ではない音楽というところから、ぼんやり理解できます。そして「地球上での人類の生存は不可能になっていくだろうという、絶望的な未来像」も、頭ではなく生きている肌感として、終わりが近いようなそっちの方を感じています。それは、大林宣彦監督が生前に言っていた「戦前に近い」という危機感よりも、戦いがなくとも、すでに人間全体が敗北(自滅)にあるような、そんな危機感です。
どうやら私たち現生人類の心は、まったく仕組みのちがう、二つの思考のシステムの共存として働き続けているようなのです。ひとつは外の環境世界の構造に適応できるような論理(それがアリストテレス論理というものの本質にほかなりません)の仕組みをもって作動する言語のモジュールで、それにしたがって生きるときには、私たちは合理的な行動ができるようになります。ところが現生人類の心にはそれとはまったくちがら、対称性の仕組みで動く層あるいは領域があります。そとでは、言語の論理が分離しておこうとするものをくっつけてしまい、ちがう意味の領域を隔てている壁を突破して、時間の秩序からさえも自由になって、多次元的にさかんに流動していく知性の流れがみられます。つまり、人類の心は、合理的な言語のモジュールにしたがって組織されて非対称の論理で動く層と、現生人類の心を特徴づけている「流動的な心」の流れでできた対称性の論理で動いている層とがひとつに結合している、「複論理=バイロジック」としてつくられているのです。
二つの心の働きのうち、どちらが先につくられたかというと、おそらく言語モジュールで動く、合理的な非対称の論理のほうだと思います。なぜならば、現生人類以前の人類たち、宗教も芸術ももたないけれども、すでに完成した石器制作の技術をもち、みごと狩猟者であり、植物の利用にたけている博物学者であり、また立派な社会をつくっていた社会学者でもあった人類たちの思考を、厳しい自然環境の中でまちがいなく導いていけたのは、現実とみごとにフィットできる非対称の論理のほうでなければならないからです。
こうして、私たちの前に、人類学のまだ開発のされていない未知の沃野が開かれてきます。もしも私たちが、社会的な法や、社会的なものの考え方や、習慣づけられた感受性などに拘束されていると、現生人類の本質をなす「流動的な心」や対称性の論理で動いている「無意識」の働きは、なかなか見えてきません。
私たちの心の内部には、まだ「野生」の天野が残されています。どんなに合理的な社会管理や経済システムが世界を覆い尽す勢いを見せているとはいえ、私たちの心から現生人類への最初の飛躍を記念するあの偉大な徴は、消え去ってはいません。いや、人類が生き残ってあるかぎり、その徴は消えようがありません。芸術は私たちの心の奥底に眠っている、この記憶の領域、いまだに野生を生き続けているこの思考の領域を、表現の中に取り出してみたいという欲求を抑えることができません。どんなに社会の形態は変化してしまったとはいえ、どうやら現生人類としての私たちの心の本質は不変です。数万年もの間、人類の心の基本構造はいっこうに進化も変化もとげていないのです。私たちは同じ脳の構造をもち、同じ「バイロジック」を生き続けています。私たちの中にはいまだに野生の領域が生きています。それどころか、人間としての私たちの本質をつくっているものは、そとにしか存在していません。
「記憶の領域、いまだに野生を生き続けているこの思考の領域を、表現の中に取り出してみたいという欲求を抑えることができません。どんなに社会の形態は変化してしまったとはいえ、どうやら現生人類としての私たちの心の本質は不変です。」そうなんてす。その私の感じてる危機感?みたいなものも、そのどんなに止めても仕方がない欲求を、制度やルールで止めている世の中が、ごく当たり前に多数派に成り立ってしまってるところ。野生を忘れてしまってること。屋久島にいくと安心するのは、まだ私たち人間が動物であること、自然の中にいること、自然に勝つとか排除するとかではなく共存している「形」が、見えるから。それは、止めなければ自然と見えてくる形と空気で。それが、なかなかに生活していて見えなくなってしまってきていると感じるから。
岡潔という数学者の、人間の心は、科学や技術を発達させる論理的な知性の部分と、論理が矛盾だと考えてしりぞけてしまう直感的な全体性の思考をむしろ正面に据えておこなわれる情緒的知性の部分との、いわば二つの「部屋」でできているという考え方には、目から鱗が落ちたような気持ちでした。しかも、その二つの部屋に優劣の関係をつけることなどはできず、二つの部屋がつかさどる知性の働きをバランスよく発達させた文明こそが、人類が求めるべきものであるはずなのに、近代になって圧倒的な支配力を発揮してきた西欧型の文明にはその肝心のバランス感覚が久けていて、論理的知性ばかりを発達させてしまったために、人類全体がいまとても危険なところに踏み込もうとしている、日本文明はそういう道に踏み込んではいけない、という危機感がみちあふれていました。
科学が形成されるようになった。そして、今日私たちが問題としなければならないのは、「野生の思考」を否定して発達しはじめた世界が選んだ道、またそのために選ばれた目的や手段が、はたして疑問の余地なく正しいものであったかどうか、このことを問い直す必要がある。
人間の言語の最大特徴は、すべてが比喩の組み合わせとしてできているというところにあります。比喩には「意味のゆらぎ」が含まれていますから、人間の使っている自然言語を記号化して、あいまいなところのすこしもない完璧な論理言語をつくろうとしても(じっさい数学者たちは、そういう完璧な論理言語をつくろうとしてきましたが)、どこかに不完全さが生じてきてしまうのを、どうすることもできません。比喩はかならず「意味のゆらぎ」を生み出してしまいますが、この比喩性こそ、新人(ホモサピエンス・サピエンス)の用いてきた言語のもつもっとも重要な特徴であり、それまでのヒト(原人や日人たち)の言語にはなかったか、あったとしてもきわめて不完全な状態でしかなかった特徴と考えてよろしいかと思います。
言語の全てが比喩の組み合わせ!たしかに。具体例も載ってましたが、そういうゆらぎが本質なんですよね。ある時、本気で1や2という数字の示している数量は絶対ではないから私は、数学が苦手なんだって思ったことがあります。だって、あの人を数に入れて「7」とかだとしても8割方ドタキャンするならば、それは、限りなく6に近い7という言い方をしないとおかしい。だから7が欠けてる状態ってあるんではないかと。そのあたりが、2つの部屋を合わせた感覚とも近いことなんじゃないかなーとも思うわけですが、簡単に言えば右脳左脳の働きの合体…??岡潔さん、とてつもなく気になります。大事な親友を病気で若くてして発狂して、学生を襲って本を盗んで大学職を辞めさせられるとか。それくらいのことだったんですよ。普通にしてられないことが、生きていればあるのが普通ですよね。
物語の出発点でものごとは分離されている(たとえば、人間と熊はたがいにちがう存在として分離されているが、これはこわばった秩序をあらわしている)が、中程では矛盾を乗り越えた結びつきを実現し(人間は人のことばを理解できる熊と結婚する)、結末の部分ではじめの矛盾を一段階高いところに持ち上げた新しい秩序(二人の結婚から生まれた子供は、熊の心を理解できるすぐれた猟師となる)がつくりだされる。この中間の過程でねじれが発生して、はじめは表と裏のように論理的に分離されていたものが、メビウスの帯のようにひとつながりを実現して、現実の世界ではおこりえない結びつきの状態、「ああ、これこそが神話だ」と感じさせる統一の状態を、神話はしばしば生み出すのだ。
ここから「トリックスター」という神話の思考を理解するうえできわめて重要な概念にたいする、新しい理解が生まれてくることになる。トリックスターは通常の論理では分離されている対立的な項を、矛盾をおそれることなく結びあわせてしまうために、まことにトリッキーな行動をする神話の登場人物のことである。トリックスターは対立する論理項を媒介する機能を果たすと言われている。この機能を実現するために、トリックスターはしばしば死の領域に近い場所で活動する。たとえばアメリカ先住民の神話に頻繁に登場するコヨーテの場合、もともとが死肉や腐肉を食べる習性をもっているために、生と死という通常の生活の場では分離されている二つの領域を、自在に行ったり来たりできるのである。民話のシンデレラが、世間の常識ではとうてい越えられないと思われている社会的格差を乗り越えて、王子様と結婚して高い社会的地位に飛び込んでいけるのは、彼女が強のそばでいつも仕事をする低い地位しかあたえられておらず、そのおかげでいつも全身に籠の灰を浴びていたからである。フォークロアでは竈は死の領域への入り口であると考えられていた。シンデレラは知ってか知らずか、台所仕事をさせられることによって、生と死をつなぐトリックスターの資格を得ていたわけである。
ふつうの思考では、トリックスター的なものはなかなか表面に出てこないようにしている。生と死のように互いに分離された論理項を論理的な矛盾をおかさないように組み合わせることによって、「正常な思考」がおこなわれなければならないからである。ところが、トリックスターが登場してきたとたんに、事態は一変する。そのとき、それまで思考の表面にあらわれてこなかった対称性の知性が浮上して、人々は自分たちをとりまく世界の意味をバイロジックによって思考しはじめるからだ。
おもしろい。キレイと汚いがメビウスの輪であるように、そんな裏も表もない中で、トリックスターが…トリックスターってたしか、精神的なところでいえば、スケープゴートの犠牲になる側はなく、道化師。あ…!と。私もわりとその役割を無意識でやってしまうところがあります。違う何かと何かをつなげるためには”道化”を演じる必要があると。それがシンデレラでいう灰。ひみつのあっこちゃんのテクマクマヤコン。それがアーティストとしては、自分と世界を繋ぐためのアートであってもいいわけだ。なーるほど。”映画”という嘘の実もまたそうなのでしょう。ただおかしいのとか、発狂してしまうのは違くて、念密で用意周到に、さもありなんと何かと何かの間での目的達成のためにトリックスターという媒介になるということですよね。
広場では社会的な言語の活動がおこなわれる。ギリシャ人はこのことにひどく敏感だった。広場に集まってきた人々は、そこでは、私的な幻想やよこしまな考えをできるだけ抑制して、みんなに認められ得る社会的なことばを語らなくてはいけない、と考えられていた。他人からの同意が得られるたびに、そとに社会的な意味が発生することになる。その状況を「トーラス」が表現している。社会的な言語の用法をおこなうと、私的な幻想は否定され、宇宙的自然の真実は見えなくなるが、そのかわりにサステナブルな人間の社会がつくりだされてくる。「トーラス」の中心部にぽっかりと開いた空虚な穴が、そういう社会的言語の世界の堅固さや安定をあらわしている。中心に開いた空虚な穴の存在が、社会的なことばの用法の安定性を、支えているからである。ヨーロッパの広場には、そのために何も建てられない、何も置かれない、自由な、からっぽの空間が守られたのである。平らにされた広々とした広場で、人々は社会性を確認する儀式をおこなうように、行動していたのだと言うこともできる。この公共的な空間で、人々は共通のルールにしたがって、ゲームをおこなうように行為した。それをとおして個人の私的生活や自然の領域を越えた、人間の「社会性」というものがたしかに実在しているという確認をしたかったのだろう。だから、広場の真ん中にはいつも見えない穴が開いているのである。その空虚な穴に有意味なモニュメントが建ったりすると、それはたやすく社会的権力の象徴になってしまう。中心に彫像や教会を建ててはならない、とする伝統的な都市設計の考え方は、社会性にたいするそのようなギリシャ的な思考に裏づけられていた。
伝統の広場は無意識と同じ構造をもっている!この事実は、私たちに多くの教訓をあたえてくれる。教会の建てられる位置などから考えようとしている間は、問題は宗教や芸術にかかわることであって、公共性をめぐる科学的思考とはかかわりがないように扱うとともできただろう。しかし、ことは心の科学の問題につながっているのだ。広場というものが、公共性の概念を空間の仕組みとして表現したものであるとするならば、公共性の概念そのものが、無意識の構造と密接なつながりをもつ、と予想されるのである。もっと言えば、公共性とは一般に言われていることに反して、じつは無意識の働きを表現している。こういう考えに立つと、古代の広場が無意識と同じトポロジーをもっていたのにたいして、近代の広場が中心部に公的な建築物を建てたり、政治指導者の彫像や巨大な肖像画などを置くのを好んできたことには、「十字帽」のかたちをしたその無意識に加えられた、近代の歪みが表現されているのではないか、と思えてくる。トポロジー的な「ねじれ」を組み込まないかぎり、公共性をめぐる思考は、人の心の真実にはたどり着かない。
この広場の話は大変に興味深い。シンポジウムは、起きるべくして空間から作用していた・・?どっちが先なんだろうか。作品を置く台座の話とも似ている気がする。大きくて立派な台座さえあればどんなものでも、すごい作品に見えてしまう。その心理ってなんなんでしょうね。”中心に開いた空虚な穴の存在が、社会的なことばの用法の安定性を、支えている” 。社会は誰のものではないと同時に、容易に誰かのものになる準備をいつでも備えてい…る?私たちは無意識的にいつでも中心を必要としているということなんでしょうか。シンメトリー。。。それでの坂本龍一さんの「対称性」であれば、確かに失うどころか、その感覚を消すことはできないんじゃないかと。。。だって、電車ですらみんな等間隔に座っていて、なにか空いてるのに隣にいると、それを直そうとするもの。友達という範囲が規定されて2人並んで座っていれば、それは相対的なんだけど、他人同士の中では電車内が対象だから。
プラトンがおこなった名づけの行為には、よく考えてみるととても奇妙なところがあります。「イデア」という言葉には、もともと「理想」にかかわる意味などは希薄です。それよりもこの言葉が「エイドス」という言葉から出てきた、という語源のほうが重要です。「エイドス」という言葉は「かたち」や「形態」をあらわしています。「イデア」は私たちが日常の感覚や日常の思考を脱して、超越的な領域に入り込んでいったときに働き出す心の作用をあらわしていますが、そうしてみますと、そのことの本質に「かたち゠エイドス」が関わっている、とプラトンは考えていたことになります。もののかたちは視覚がとらえます。またかたちをもったものを想像することもできますが、想像の働きと視覚は深いところでつながりあっています。ですから「イデア」という概念は深いところで視覚の働きやイメージの創出作用と結びついていることになります。明治の翻訳者たちは、そこまで考え抜いて ideaに「観念」という訳語をあたえています。
わたしも子供のころは内部視野で、真っ暗闇に多くのプリズムな図形を毎晩のように見て楽しんでいました。また目を瞑って、目を強めに押したりすると、蛍光色の黄緑や赤や青の三角の連続みたいなのが見えて、ちょうどジェットコースターに乗ってるように、果てしなく続いていきます。それが「イデア」、かたちあるエイドスでならば……あれは単に形でしかありません。けれど確実に、私の心を掴み中毒性のあるもの… 。それは、今でも見ようと思えば見れるわけで、なにもわたしの希望を見ているわけでも空想ではありません。ただ、見えるんです。布団の中では、色とりどりの点がゆっくりと動いて、宇宙の星みたいなことが多いですね。
観念。”観る念”という訳語、なんというステキな訳でしょう。
“理想のかたち”が見えるならば、もう少し見えないもののような気もするのですが、、、極限状態に近い先にある光景が、浮かぶとしたら、記憶からなのかもしれませんし。。。見えない先には実は見える世界がある、という存在を自認してるか、それともしていないかってとこなんでしょうか。
脳は、深さの方向にむかって三層をなす構造と、そのうちのいちばん上層部にできた左右の対立構造との組み合わせとしてできている。これらの構造は進化のプロセスに対応している。深さの方向にむから三層とは、(1)もっとも古層の爬虫類脳、(2)古いタイプの哺乳類脳の特徴を示す大脳辺縁系、(3)人類に形成された新皮質、のことを言っている。脳のいちばん奥まった部分から表面にかけて、これら三つの層が積み重ねられるようにして、人間の脳はできている。さらに人間の脳の場合、新皮質は働きを異とする右脳と左脳に分かれて、いくつかの通路で連結されたような構造になっている。それらすべての部分の働きにエンドルフィンが大きな役割を果たしている。
最古層の爬虫類脳にこの物質が働くと、痛みを和らげる無痛効果を発揮する。それによって多少の衝撃にも持ちこたえることができるようになって、ストレスに耐え、危険に対処できるようになったと考えられている。古いタイプの哺乳類脳である大脳辺縁系に、エンドルフィンが作用すると、強い安心感がもたらされる。これは家族の形成と深い関係があるらしい。母親に抱かれていたり、兄弟とからだをくっつけ合っているときの幼い哺乳類の脳からは、通常よりもはるかに多い量のアヘン類似物質が見出されるのである。
こうした事実にも、宗教学は関心をしめす必要がある。イニシェーションの試練を体験しているオーストラリア・アボリジニーの若者は、極度の飢えや疲労に耐えているうちに、しだいに不思議な幸福感にみたされて、大地やそこに潜んでいる先祖霊との一体感に包まれて深い感動を味わっている、というアボリジニー自身の報告を読んでいると、この儀礼が人類のおこなってきたとてつもない古層の体験に触れようとしている、と感じるものである。そして、古層の体験に近づいていけばいくほど、そこにエンドルフィンという物質の存在が浮かび上がってくるのである。
しかし、それ以上に重要なのは、新皮質と呼ばれる脳のもっとも新しい層で観察されている現象である。この新皮質は現世人類の「心」が生み出されてくるのに、もっとも重要な働きをしている。ここで言語をしゃべり、視覚イメージを合成し、想像したり思考したりする能力がつくられている。興味深いことは、この新皮質が右脳と左脳という、あきらかにちがう二つの部分で構成されていることだ。左脳は言語的な構造にしたがって働く知性と関係があり、右脳は非言語的で情動的な知性の働きと結びつきをもっている。
現代人の「心」では、論理的思考をおこなうための左脳の機能が、直観的で情動的な右脳の機能を圧倒している。しかし、脳内にエンドルフィンが分泌されている状態では、あきらかに右脳の働きが活性化されることが、観察されている。新皮質の中でも進化のプロセスのもっとも遅い段階になって発達した、言語的思考をおこなう左脳の働きを抑制して、非言語的な働きをおこなう「知性」の働きを、表面に引き出してくるような作用を、この物質はおこなう。別の言い方をしてみると、エンドルフィンが脳内に出てくるのと、そこで言語的知性を抑えて非言語的知性の働きが活発化してくるのとは、まったく軌を一にしているのである。
宗教学にとってきわめて興味深い、ひとつの問題が浮上してくることになる。瞑想にせよ反復的な激しい身体運動をともなう行にせよ、修行の過程では、言語的な知性によって体験を統合したり分析したりする心の働きが後に引っ込んで、かわってそこに非言語的な直観知の働きが表面にあらわれてくるようになるが、その直観知によって世界を見通したとき、修行の体験者の多くは、深い陶酔感を味わったことを報告している。このとき、あきらかに右脳の働きのほうが優勢である。そしてそのとき、深い情動の中で悦楽がもたらされているのだ。
非言語的・直観知的・全体把握的・情動的な特徴をもつ無意識が、心の前面で大胆な活動をおこなうときに、同時に脳内でつくられるアヘン類似物質エンドルフィンが通常よりも大量に発生して、脳内の受容体にぴたりとおさまっていくとき、至福の快楽が体験される。チベット仏教の思想家が自分の瞑想体験を記述したつぎのような言葉は、「悟り」と呼ばれるものと、この至福の快楽との密接なつながりを語って、あますところがない。
“古層の体験に近づいていけばいくほど、そこにエンドルフィンという物質の存在が浮かび上がってくるのである”なーるほど。。。”修行の体験者の多くは、深い陶酔感を味わったことを報告している。このとき、あきらかに右脳の働きのほうが優勢である。そしてそのとき、深い情動の中で悦楽がもたらされているのだ”なーるほど。。”「悟り」と呼ばれるものと、この至福の快楽との密接なつながりを語って、あますところがない”なーるほど。。。すごくわかる。すごくわかる。そして、その到達の仕方は、人それぞれだから、それを体験したいからといって、出家するのは違くて、スポーツ選手になればイイ人もいたり、文字の世界だったり。それが”働き”という、ところへみんな戻れないものでしょうか。あっ、坂本龍一さん、そっちの話なんでしょうか・・・?
中心でいることに落ち着かないから、相対的にあろうとするならば、スマホが自然と相対性を生む存在になっているわけで・・・?相対性を保とうとすることが、コミュニケーションの根源なんだろうなぁ。。。と、思うと、偉い人たちや、リーダーになる人ってのは、どことの対称性をとろうと働きかけているなろうか。世界・・・?
そこに実現されている秩序を、華厳経はつぎのように表現する。すべてのものがバラバラになってしまうことなく、相互に溶け合っているのだが、それでいてひとつひとつのものはけっして個性を失うことがない、というやり方で荘厳されている。清らかな心で法界に立つものの像が、そとにあるひとつひとつのモノに映っている。しかもいくつかの特別な場所に映っているだけではなく、法界楼閣の全体にわたって、至る所でそうなっている。さまざまな像は、そのやり方で完全に相互映発している。
法界ではすべての個体が、おたがいに溶け合っているとも言えるのですが、しかもそれで個体性が失われるということはまったくおこりません。このことを世間界でおこなわれている数学とのアナロジーでとらえてみますと、個体としての量の間に加法(加えて和にする)や積分をおこなってひとつの量に「溶かし込んでしまう」計算が、法界では不可能にできていて、あくまでも総体の変化として、相互映発の影響はあらわれる、と考えることができます。つまり、多数の個体は「マトリックス」状に関係し合うようなかたちで、「融合」し合っていることになります。
それらの性質をそなえているために、法界は無礎である、と言われる。つまり、法界では、ありとあらゆる個体が、個体性につきものの分割性と相互抵抗性をもっているにもかかわらず、まったくの棚入・棚賊の状態にあります。ことから華厳経のもっとも独創的な考え方である「事事無磯」の思想が、あらわれてくることになります。
この「事事無礎」という状態が実現されている場としての法界では、それぞれの個体は個体のままで、ほかのひとつひとつの個体と相即の関係を実現しています。そのために個体=事とほかのすべての個体"事とは、いっさいの分離線をなくして(無)、自由につながりあうことができることになります。
まさに「思考を絶した」と言われる、このような法界のトポロジーや運動学を表現できる方法は、はたして人類の知性に可能なのでしょうか。私たちは二十世紀のもっともすぐれた知性たちが共同して創造してきた量子論の中に、そのような未知の方法の片鱗を見出してきたのでした。将来人間のおこなう学問がもっと進んで、華厳経が宗教的直観によってとらえ、描き出してみせたような、法界の構造や運動学に肉薄した表現が実現したとしても、そこにはいま私たちが知っている量子論の基本的な考え方が、萌芽の状態として保存されているのを、見つけることができるはずなのです。
精子と卵子が受精して、なぜ人間が生まれるのか、いまだに解明されていないというのを昔読んできっと今もそうなんでしようが、それがこの”マトリックス”という言葉なんだと思いました。日本語でいうところの、”ゆらぎ”のような。
確かに妊娠してから生まれるまでの間に、これだけ高度な脳を持って生まれてくる…なんてのは、必要な期間で。
個人でありながら溶け合ってる。。。それは確かに理想かもしれませんが、矛盾がはらむあたり、そこが人間であるようなことなんでしょうね。それを解いてしまえば、アートというものもこんなにたくさん作らずとも1つだけ、しかも押すだけでどんな人でもアートの面白さ、必要性に触れられるスイッチにすらなりそうです。しかし、それを否定するのもまたアーティストの役割でしょう。その対となる意見を弁証法で1つにすることは、ここでは全く違う話で、、、違う意見がパラレルに同時に存在して、そのパラレルを、別視点で見つめる誰かの存在に気づく…ようなことがマトリックスなんじゃないかと。その在り方の1つが宗教なり、自己表現であることは、かなり良くできた、小数点以下をさらに削って確保された場所のようにも思えたりも。。。かといって、全てを掬い取って表すことは「共生」なんかとは違う言葉で、その小数点以下については、歌ったり踊っている方が健全な訳な気がします。言葉は必ずしも”それ”を現してるわけじゃないという、そのこぼれ落ちた外側を、意識させるための作用というか…。マトリックスはそんなところの、ジャンルといった境界が生まれた場合には消えてしまうような。。。
二十一世紀の世界がどのようなかたちをとるのか、「マトリックス」という言葉がその鍵を握っているように、私には思われるのです。
丸石や双体道祖神の置かれている「道祖神場」は多くの問題をはらんでいる。ここは記紀神話などを典拠にして(死者の世界との間の境界に立つサェノカミやフナドノカミのことである)、これまで「境界性」をあらわす場所と言われることが多いが、空間的に見たとき、それは村の真ん中あたりにある道の分岐点や共同の広場に開かれているものではあっても、むしろ村の中央部にあって少しも「境界」には位置していない。道祖神場のもつ境界性は、もっと別のかたちであらわれている。あとでくわしく説明するように、道祖神場が村の空間全体においてそなえている境界性は、家屋の中でカマド(縮)がしめている境界性と、深い関係をもっている。カマドの位置はしだいに家屋の奥に引っ込んでいく傾向があるが、縄文時代の住居などにおいては、むしろ中心的な場所に据えられている。それでも、カマドは多くの点で、道祖神場とよく似た両義性や境界性をしめすのである。
丸石と男女像を彫り込んだ石とは、このような同じ道祖神としての扱いを受け、同じ道祖神場に祀られている。そして、そこでおこなわれてきた祭りの形態も、じつによく似通っているのだ。祀ってある道祖神が丸石であろうが男女像であろうがほとんど区別なく、小正月(一月十四・十五日)が近づけば、人々は石のカミの上に、大きな藁の小屋をかけ準備をする。この藁の小屋の入り口にやはり藁でつくった巨大な男根のかたちをかけたり、この男根の向かうあたりに藁製の女性のものをつくって、立てたりもする(そういう具体的な性的オブジェをつくりたがるのが、抽象的な丸石を祀っている地帯に多く、双体道祖神圏ではこの藁小屋はむしろ抽象的な山形をとることが多いのは、示唆的である)。
昔ある所に二人の兄妹があった。やがて年頃になったので兄は妻を捜しに、妹は亭主をさがしに二人は別れて求緑の旅に出た。何処へ行つてもこれと云思はしい人に出会はない。長い漂泊の旅が続けられた。或所まで来ると妹は始めて、これはと思ふ立派な若者に邂かうした。若者も女を気に入った。わしの尋ねてみたのはお前の様な優しい美しい女性であった。そこで二人は借老の契りを交した。男の云ふことにこれから生れた故郷へお前を連れて帰るからと、手を執り交しつノ楽しい帰郷の旅路に向つた。幾日か経て辿りついた若者の故郷は、女にとっても同じ故郷であった。何と驚いた事に若者の生家は女にとっても生れた家であった。語り合ってみれば昔別れた兄と妹とではないか。しかも其れがに心の如く固く夫婦を契ったのではないか。きいた二人は相抱いて谷川の淵瀬に身投げして果てた。村人は二人の死を哀れんで石像に刻み村の路傍に建てた。(「民俗落穂集」『山村』第二号昭和九年十二月)
このような説話の異文が、多少の変形をこうむりながら、双体道祖神の分布圏に広く伝承されているのである。
こうしてみると、なぜ道祖神に丸石を祀る地帯で、兄と妹の近親婚をめぐる説話がまったく語られていないのか、その理由が見えてくる。丸石そのものが、すでにして「媒介された状態」というものをあらわしているからである。
神話的思考は矛盾の解決を最大の主題としている。人間が自分を取り巻いている世界に目をやったときに、人間の置かれている状況を理解しようとしたときに神話は生まれるが、そこには生と死、自然と文化、大地への帰属とそこからの離脱、秩序あるものとカオスをはらんだもの、結婚と欲望など、ありとあらゆる現実が、解きがたい矛盾を抱えていることに、あらゆる神話がはっきりと気づいている。それを論理的に解決に導いたり、解決はできないまでも矛盾をはらんだ現実の深層をあきらかにしようとして、神話は語り出されるのだ。そのために神話の論理は、けっして「対称的な安定」をつくりだすことがない。不均衡や非対称性こそが、神話を突き動かす生命なのだ。そこで「語られるもの」の形態をとるときの神話的思考は、「物語」の構造をとることになる。物語にはこの不均衡や非対称性が、時間の進行にしたがって自然に展開していけるような能力があるからだ。ここから、私たちのよく知っている「語られるものとしての神話」が生まれることになる。
“神話の論理は、けっして「対称的な安定」をつくりだすことがない。不均衡や非対称性こそが、神話を突き動かす生命なのだ” このあとに出てくる、月と蛙の話しも私の理解としては同じことなんだなと。そんなに上手くいくもんじゃないという教訓は、すでに昔話や諺として、身体に染み付いてあるからなんとも思わないが、きっとその近親婚の物語が生まれた時には「え?!そんなことあり?」と、みんな同じ過ちを犯さないようにと生まれたんでしょうね。レヴィ=ストロースをまとめたyoutubeで、近親婚の禁止は、遺伝的異常とかではなく、家族内での性交渉を禁止することによって「交換する主体」としての家族が生み出される、コミュニケーションの一つみたいなのが根底にあるみたいに言っていて、あーそうなのかと思いましたが、丸石が媒介となってるということは、もうそれを見れば「あーあの話か」と認知が広まっていたんでしょうかね。七回目のベルと言えばもう宇多田だよねーっていうような。・・・?
縄文の蛙は、女性との深いつながりを表現している。背中を宝貝のような形に描いているものも多く、宝貝が日本の民俗の中でしばしば女性の性器の隠喩として扱われることを考えると、この表現によって蛙の背中を女性の性器に見立てていることは、ほぼ間違いがない(「蛙の肉のないやせた背中は女性器だ」という民俗が、北米インディアンの間にもある)。このことをもっともストレートに表現しているのが御所前遺跡から出土した有名な人面付土器である。ここでは蛙の背中がぱっくりと開かれて、そこから人間の新生児が顔を出している様子が、まことに力強く描き出されている。蛙は身体の前面ではぴったりとなにかに付着し、ぱっくりと割れた背中からは人間の子供が生まれるのだ。母親のからだと子供のからだとの接触において、これほどまで距離のない状態というのはほかにない。子供はこのとき母親のからだに完全に密着しながら、しかもすでに一個の分離しつつある個体である(母親のからだの中に入っている状態では、子供はまだ母親のからだの一部である)。
こまかく切り刻まれた材料は土器の中で、水気をたっぷり含んだ、どろどろの液体とひとつに溶け込んでいく。このように、土器を使った煮炊き料理は、火の使用に関してあきらかに両義的な性質をしめすことになる。「煮ること」を社会的コードに移して隠喩的に思考すると、Endogamy 的な行為につながっていく。これは、小さな家族関係の中に閉ざされた状態で食事やセックスをする傾向であり、家族関係や母子関係の外に広がる大きな社会関係に広がっていこうとするExogamy 的な行為と対立しあう。
「焼くこと」が Exogamy 的であるならば、「煮ること」はあきらかにEndogamy的なのだ。そこに、大地性への帰属やそこから離脱していくことの困難(社会的世界での歩行の困難)をあらわしていると思われる水界生物や蛙のイメージが結びついていくのは、神話的思考にとってはごく自然な成り行きなのである。縄文中期の勝坂式土器にあらわれた、多くの謎をはらむ蛙のイメージには、調理の用具としての土器に強い執着をしめして、煮炊きを料理の中心に据えてきた縄文文化の精神性が、もののみごとに写し出されている。これこそが、神話的思考であることを本質とする「物語性文様」の真骨頂だ。それだけではない。縄文土器はさらに興味深い問題をはらんでいる。この土器は生活に「周期性」を形成する力さえもっていたのだ。
この文章よりももっと前の話を読んでだったのでしょう・・・読み直さなくては。( …わたしの理解が追いつかないのですが、つまりは、土器で煮込む料理が基本となったことで、準備することが生活となり、その準備の中で周期というものに目が向き、月を見る。そうして、月には周期があることに気づく。しかし、そんなに生活というのは、周期としてうまいこと回るわけではない(料理が失敗したり、雨が降ったり、誰か死んだり) と、ただ焼いて食べていた時代には気づかなかったことにも目が向いていった。
そして、縄で均等になってる紋様を見ても「こんなに生活は上手くいくわけない!」と、手塚治虫の”ひようたんつぎ”のように”蛙”が登場した…?蛙は、ほとんど地上にはおらず飛び跳ねてるから、ちようどいいと。月が新月になれば、たとえ蛙がへばりついていても、落ちる(どんなことがあろうと繰り返す)だろうと。。。
そんなことだと、今のところの私なりの頭での理解です。土器を見てみたらかんじることがありそう。現地に行きたいなぁー )
網野さんはよく、学者というのは職人なんだ、天皇も職人なんだ、それでいったら農民だって職人だ、というような言い方をしていました。「職人」というのは、たいへんに広い意味の領域をカバーすることばであったわけです。歴史学者が職人だというのは、網野さんの研究ぶりを見ているとすどくよく納得できる話でした。彼が学んだ東大の史学科では、戦前以来の古文書解読の方法を、ひとつの技術として、徹底的に学生に習得させるという伝統が生き残っていました。どんなに革新的な「人民史観」を打ち立てようとする研究者も、まずはこの古文書解読の技術に熟達しないうちは、一人前の歴史研究家とは認められませんでした。
網野さんや石井進さんたちの世代のすぐれた歴史家たちは、みんなこの方法で厳しく鍛えられていました。彼らは大胆な史論の提出者となる以前に、まず古文書解読の職人でなければなりませんでしたが、このことがのちに豊かな実りを生むことになりました。古文書を読む職人技がなければ、彼らの仕事が壮年期にかかったときに、あれほどみごとな開花をみせることもなかったでしょう。豊かな実りを生むことのできる学問は、みんなそういう職人性をそなえているものです。ですから、その職人の伝統が正しく伝えられなくなったときに、その学問は危機を迎えることになります。しかも職人技の「奥義」というか「こつ」というか、とにかくその職人技の核心をなしているものは、たんなる知識や情報としては伝達できない性格をもっています。
幼い頃から網野さんの学間のやり方を見ていて、自分がのちに宗教学のようなきわめて歴史の浅い、伝統の厚みのない学問をやるようになって、私がおおいに悩んだのはまさにそのことでした。「私に伝統をくれ」、それが私の叫びでした。中世の職人歌合などを見ますと、学者と芸者が並べて描かれたりしています。その絵を見せられて、「ほうら、学者も芸者みたいに、正確にものごとを認識したり、表現したりできないとだめなんだぞ。芸者は正確な芸ができる。学者も正確に芸ができなくっちゃあいけない。天皇だってそうだ。天皇は儀式をおこなう職人だというのが、長い間の日本人の認識だったんだよ。その職人技を手放してしまうと、いったい天皇にはなにが残るのだろう。職人技の基礎のない学者は、いずれ政治家かジャーナリストになっていくしかないだろう。それと同じように、よい和歌を詠み、宮中の儀式を正しくおとなえる職人としての技量が、天皇にも必要だったわけさ。君も学問を志すならば、まず何かの職人にならなくちゃあいけない。そうでないと、なにも生み出せない」というような、まことに耳の痛い話をされたのを、よく憶えています。
職人…。多様性を重視してコミュニケーションを豊かにするよりも、職人になることがこれからは大事でしょと漠然と思っていたところに、この言葉は、すごく励みになるというか、、、心押されるというか惹かれるというか。ここでの”君も”は、この本を読む人、講義を聴いた全ての人へ宛てていて、キュンとなりました。と、自分を振り返ると、果たしてなんの職人なのか。なんの職人ならば、合っているのだろうか。壮年期に見事に花開く…。
この後に読んだ宮本常一さんの本の中にも「本当の仕事をするにはそれぞれ足場を持たねばならぬ。人はどこかで足を地につけていなければならない。農民の強さはしっかりと足を地につけているからである。よい仕事をしている者もまたちゃんとした足場を持っている。」という、渋沢先生の言葉が出てくるが、とても肝に染みりです・・・。
その自由都市をかたちづくる人間関係にも、同じような特徴が見られます。市場や寺社の門前町から発達した、堺をはじめとする中世の自由都市の多くは、「無縁」の原理にしたがってつくられていました。人間を結ぶ縁は、人間集団の中に構造層をつくりだす働きをします。しかもその構造層は、年齢や所持金の額といった抽象的な「数」の原理とちがって、一定の土地と結びついています。都市が形成されるときには、いったんそれまで人と人をつないでいた農村的な構造層が解体されて、みんなが無縁の存在となって、都市住民となるわけです。都市では、人間関係においても空間性よりもトポス性のほうが、大きな意味をもつことになります。
無縁の原理…!普通に考えて…平屋の街だったところにいきなりマンションどーんっと出来ちゃうのはそうですね、相手を目にする回数も減って、縁も気にしなくなっていきます…ね。トポス性ってのが、「お決まりの文句、主題」的なことであれば、それは人とひととが集まるための理由としてトポス的なこと(管理費についての話し合い??ルール??ゴミ出しのルール??とかが間接的にそうなるかもしれない?)が、必要というのは、もうそれでしかないですよね。それすら拒否した場合にも、新古典主義的なトポスが現れるんでしょう…か。何をしたとしても、人間は人と会うことが必要、何をしたって、進化する欲求はあるとしたら、、厄介ながらも、もしそれが災害や天災でリセットされたとて、一時的にみんなが”進化”の方向へ向いたベクトルも足踏みした時には”踊り場”となり、”科学的思考には二つの様式が区別される” その繰り返しなのかもしれない。それが今はあまりにも速く短いサイクルで起きてるから踊り場を感じない、感じさせないような。。。もしくはものすごく長い踊り場に実はいるというような。。その果ての世界は何に行き着くのでしょうか。。ね。ロボットが人の役割となっても、人はロボットの代わりに人を選ぶのでしょう。
近代を生み出したこうした諸テーマのすべてが、「人間的自由」の実現の試みとその致命的な挫折に深く関わっています。資本主義の発生は「人間的自由」の可能性を宿した人類の脳の構造の必然であるのに、なぜそれは私たちの世界から公正さやよろこびを奪うのか。都市の発生もまた必然であるのに、なぜそこに現実となっている「自由」は、こうも不公正ばかり生むのか。
自由は、奪われる宿命である。自由は、何かと引き換えにした感情。きっと人間の欲求から、ありえない状態を言葉の定義にしてしまったのでしょう。もしかしたら”幸せ”も、完全にはないかもしれません。そういう世界観の方が、なんか知っている気も(?)します。誰もしも、ある特定の言葉を使う時には頭が「?」となって理解できない場合がのあるのがたくさんあると思う。この世は、言葉だけでは言い切れないことばかりだと。当てはめすぎて、切り捨てた中にあるはずの言葉が、、、消えてしまって。
「自由よいいように搾取されないで安く売らないで終始貴様は誇り高くあって頼むよ自由フェイクじゃない元来の意味を見せて」
と、林檎さんの緑酒の歌でもあるように、本来の意味は、別に言い当てられるんじゃないかと。誰も探し出して”名前” を丁寧に植えていないだけで。その消えてくゆく大切だったことを、未来へ向けてアーティストのみなさんは、歌うなり作るなりしてるのでしょうね。なかなか私たちには分からないばかりですが、作品は違う形をした言葉なんでしょうね。辞書とはまた違う辞書の。







