「くうきのつくりかた」青木 淳





この本の存在を知ってから、読みたかった本。そんな中でも、特に心に残ったのは・・・
   

ぼくには、この描写もまた、「原っぱ」を思わせるのである。

ともかく、朝起きて、彼は物置小屋を出ると、食堂に向かい、日がな一日、歩いた。一義的には、脳卒中になるのを防ぐためである。しかし、その散歩はそれ以上のものだった。敗戦後も同じ筆法だった。あてもなく、ぶらぶらと、大空の下を、足の向くままに歩いて行く気持は、何か侘しげなような、心倫しいような、書いたり読んだりすることより、もっと自分にぴったりする感じのものだった。足代がままになると、箱根の山の中、伊豆の磯路あたり、よく遠歩きするようだった。日に一度は、早川の観音さまに出かけ、おまいりはせず、そこの茶店の縁台に腰をおろし、黄金色の茶をのみ、一文菓子をつまんだ。往復に、ざっと二時間、かけがえのない日課であり、その日その日の色どりだった。(川崎長太郎、「偽遺書」 ) 

唐突に「筆法」と置いて、書くことと歩き廻ることを、こともなく重ね合わせる。引用がついつい長くなるのは、彼の文章を書き写していると、歩行のリズムが感じられ、心地よく、なかなか止めるきっかけがつかめないからだ。川崎長太郎にあっては、筆法とはすなわち、歩くことだった。こうした場合、生の中心は歩き廻ることのなかにあるわけで、小屋はいきおい、生の周辺、「隅っこ」に追いやられる。というのが不正確なら、小屋、食堂、「町中、城址、海岸、近在の田圃」、そして妹香町と呼ばれた遊郭からなる、いくつもの地理的点をつなぎあわせた円環を巡る、歩行の反復が生であって、それぞれの点は、それがどれであっても「隅っこ」としての相を帯びざるをえない、と言い直したほうがよいかもしれない。どこにも中心がなく、どこもが片隅としてある。ここでも、「隅っこ」は、単なる物理的な意味での片隅ではない。

日常のルーティンがあるとうことがいかに、幸せであるか・・・。それは、なぜかっていうと、そのルーティンはその人にしかないルーティンだから。その人が生きた上で「自分にとっていい」ってもんを、付け足していって時間と、生活の帳尻を合わせて出来上がったものだから。やらなきゃいけないことと、やりたいことが、その人のちょうどいいバランスでなりたっているから。誰にも真似できるもんじゃないから。

川崎さんの略歴をばーーっと見てみたらなんと、50歳を過ぎてモテモテ(物置小屋に人妻、女給、未亡人、妾などさまざまなファンの女性が来訪するようになり関係)で30歳下の人と結婚をしたとか。惹かれる文体を、読んでみたいと思いました。その文体が、その人の生き方そのものなんでしょうね。
  



独立して自分の仕事を始めた頃、だからもう半世紀くらい前のことだ多木浩二さんを囲む座談会に加わったことがあった。話題の中心は「快適性」。多木さんが、これからの建築家は、身体的な意味での快適性というものとは別の、「実体のない快適性」というものを織り込んで考えなければならないのではないか、と言い放った記憶が残っていて、いまでもときに、その問いが刺さるのである。
実体のない快適性というのは、ややこしい言い回しになってしまうが、自分ではなく周りの人たちが、「こんな生活が快適」と思っている快適を、自分自身の快適にしてしまっている、そんな意味での快適性のことである。
根拠もなければ起源もない。にもかかわらず、お互いに付度に付度を重ねて、いつのまにか皆が内面化してしまっている、いわば共同幻想的な快適性のことだ。そして、これまで建築家は、そんな実体のない快適性を嫌って、それを否定するか、無視してきた。

たとえば「モダンリビング」という言葉があったし、今もある。これは、日本の、現実としての家族や住環境から、その課題を解決すべく内発的に生まれてきた住宅像あるいは生活像ではない。そうではなく、雑誌やテレビ番組を通して入ってきた、アメリカの、とくに西海岸のモダニズム住宅と、そこでのライフスタイルのイメージだ。バックグラウンドも違えば、日々の生活も、それを成立させている社会基盤もまったく違う。にもかかわらず、それらをいっきょに飛び越え、強烈な憧れとして入ってきた「快適」のイメージである。
 
「ま、モダンリビングだね」は、建築家がある住宅を見て、それがバックグラウンドにあるはずの社会に根づいておらず、虚構を無反省になぞっただけの浮ついたデザインである、と貶すときの常套句になりえたのだが、よくよく考えてみれば、ぼくたちが生きている社会そのものが、実のところ、「モダンリビング」をひとつの快適な空間像として無批判に受けとる社会なのであった。「ほしいものが、ほしいわ」は、糸井重里による1988年の西武百貨店のコピーだが、ぼくたちはいつの頃からか、そんなトートロジックな社会のなかで生きることになってしまっている。


ズコーーン、ツクターン!と、ささりました。実態のない快適性・・・・。これもまた、生活と直結していて、過ごさないとわからないもんなんですね。いかに汚い部屋があったとしても、それはその人にとっては快適なんだから、誰もなんともいうことはできない。逆に綺麗にしていても、その人は実は快適じゃないことも。。。私は、ほとんどを自分で買わない感じで貰い物ばかりの家具ですが、それでもやっぱり無意識に誰かの「モダンリビング」を目指していたのです。自分の感覚に合わせるならば・・・テーブルに座ってもいいし、心地よいソファーと心地良いタオルケットがどーんと部屋の真ん中にあって、そこで1日中暮らしていてもいいはずなのに。かなりこれは、これからの人生の肝に銘じないときけません。。。十分に道をハズれていたつもりが、全く外れていないことに気付かされました・・・ね。


 

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