「焼後のグラフィズム」 多川 精一 




長野重一さんの写真からサン・ニュースの存在が気になって読んでみました。すごく衝撃的なのはやっぱり名取洋之助さんの存在感でしょうか。前に記念館?を通り過ぎたことがありましたが、じっくり伺いたくなりました…と思ったらあれは、秋山庄太郎さんでした。ふんわり覚えの字面違い。全文は読んでいませんが、多川さん気骨ある面白い方ですね。
 


入社早々に驚いたことがあった。新館が出来て美術部の部屋に引越した頃、真新しい廊下の壁に左右1メートル以上の大きな戦艦の写真が貼り出されていた。当時は陸海軍とも軍事機密は極めてうるさく、兵器の写真は撮ることはもちろん、所持することも見せることも絶対に出来なかったのである。しかし貼り出されたそれは、開戦直前に豊後水道付近の大演習で、木村写真部長がライカで撮った戦艦『陸奥』の、修整される前の原画だった(これは機密部分を修整して「FRONT』海軍号に4ページ大のカンノン開きに使われている。噂だけは有名だった巨大戦艦「大和」『武蔵』は、この頃竣工したばかりでその存在すら公表されていなかった)。そればかりでなく、外国人に見せるという「FRONT』なのに、国内の一般雑誌などでは見られない新型航空機や兵器の写真がいっぱい載っているのだ。街をカメラを持って歩いていただけで、スパイの疑いで刑事に調べられるという時代に、いくら宣伝とはいえこんなことが出来る東方社という会社に僕は驚いた。その頃民間では以前から「カメラを持った見知らぬ人間を見たらスパイと思え」と散々教え込まれていて、外国人は日本軍の秘密を探っていると思い込まされていたのである。

すごいことだ。ホントに命をかけて表現している。でも、そういったことから、木村伊兵衛の、あの何気ない写真を撮りたい思いが来てるかと思うと、、、平和であることだけでなんと素晴らしいのかというか、、、何かの終わりを撮り続けていたのかもしれん。それは、人が人として生きる感情のような話なんだろう。





それは1920年代から、写真やデザインの世界で流行したモンタージュ(写真を貼り合わせる合成技術)の延長だった。だが<写真は真実を表現する>という素朴な考えを持っていた当時の一般人は、それを実際の場面と思い込んだかもしれない(だから写真は宣伝に威力を発揮したのだが)。
    
この写真は陸軍報道部提供のへお墨付きということもあって、本当の現場写真として独り歩きしたのであろう。だがベースになった写真を撮った浜谷さんにしてみれば、たとえそれを撮ったのが東方社在籍中の仕事だったとしても、釈然としなかったのだろう。しかし戦時という特異な状況の中では、著作権もその使い方のモラルも無視されたのである。

浜谷さんはそのことを書いた文章の最後に「・・・・・戦後、私は、そのことを発表して、向後の自戒とした」と、写真を撮影する立場の難しさと、それを発表する者の責任について書いている。

なるほど。写真に写っているものは"正しい事実"と思われがちなことがあるからこそ、扱いには気をつけなきゃいけない。だから、作者以外の人によってのトリミングなり加工っていうのを基本NGとされる点は、そういう意味でもっと大切にしなくてはと感じます。その何かを表現する以上に。責任として。さらに、そう誤解を受けた作家は、本当にそんな思いで写真を撮ってるわけじゃねぇってなるからこそ、そうそう、どこでどうその写真が使われているかみたいなことも、とてつもなく重要で。にしても、お墨付きで出されてしまったら、、、ね。浜谷 浩さんにもそんなことが。。。その体験から裏日本に繋がってるのでしょうか。





写真がコミュニケーションとして印刷物に使われる時、文字が付随することがほとんどである。写真を見れば分かることを文章で説明するのは無意味だが、付けられた文章によって(それが短い説明文や撮影場所であっても)、写真の意味を変えたり時には逆転させることも可能だ。それが編集や広告の面白さなのだが……… 
戦時の国家宣伝という異常な仕事の中で、写真の持つ力と同時に、それを左右出来る編集レイアウトの面白さを知ってしまった僕は、それから60年、多くの写真作品をレイアウトして本や雑誌を作ってきた。その時いつもこの空中戦写真のことを思い出し、真実を写真で伝えようとする時の、さまざまな配慮の必要を考えさせられたのであった。

そうやって新聞もできてると思うと、その読み手や作り手にとっての面白さはやっぱり事実とはまた違う方向になることも多いんだろう、、、ね?ライフ誌のストーリー性を作るために、必要な写真を撮っていくだけでは、それは記号としての写真で、写真を読むようにして編集されて出てきた言葉、、、が、リアルかもしれないけど、それもまた、その写真を説明する文字さえあれば、その写真は、全くそのように見えてしまうから不思議、、、。サンニュースでは木村伊兵衛の写真を「切れ!」って、鬼の名取さんから言われて、でも切らなかった多川さん、、、素晴らしき方だなぁ。そして、「切れねーだろ?」っていう名取さんも。。。なんか、よく分からんけど ”写真” として、なんだかスポコン的に
泣けてくる。




  
19年初めに、岡田前理事長や木村部長や原部長とは、日本工房時代から旧知の仲だった野島康三氏の所有する、高級アパートで有名だった九段下の野々宮ビルの、地下と1、2階が借りられることが決まった。野島氏が経営する野々宮写真館は、日本でも指折りの近代的な施設を持った写真館だった。戦争の逼迫とともに営業を閉鎖されていたが、そこの写場や地下にある暗室設備は広く、東方社の仕事場としてはうってつけだったのだ。だがそこへの引越しは大変だった。戦争が激しくなってからは、どこも召集や徴用で男手の不足で、力仕事の出来る若い男は、すべて軍隊と軍需工場に動員されてしまい、民間に残ったのは老人と女、それと子どもと病人だけだった。

膨大なフィルムをかかえてやっと東京に戻った。しかしこんな命がけの撮影だったが、日本側が原爆被災地を撮影したことを知った占領軍司令部は、その年の暮れに日映に対して撮影フィルムの接収命令を出し、苦労した映画フィルムはすべて没収されてしまった。

やがて日映を調査してスチール写真も撮っていたことを知り、文化社にも提出命令が来た。しかしこの時折衝に当たった木村伊兵衛さんはGHQの担当官に対して「私たちは今はフリーランスの写真家で、撮影したネガフィルムは自分たちが命をかけた私たちの糧であり、それはいわば私たちの財産であり武器でもあるから、オリジナルフィルムは渡せない。あなた方がこの写真が見たいというのなら、何枚でもプリントして上げよう。だが残念なことに戦争に負けた我々には印画紙も現像液もないからすぐには不可能だ」と、恐れることなく言ったという(「原爆を撮った男たち』草の根出版会)。

この木村伊兵衛の行動はすごい。そのアサヒカメラの所属作家になった時の「木村伊兵衛は、ケツを叩かないと…」みたいな話と、これが同じ人と思えないというか、1番大切なことだけを常に見つめて行動していた人なんでしょうね。。。その他はどうでもいいっていう。





数日してからプリントするのに必要な資材の数量を出せと言ってきた。そしてさらに二、三日後にはトラック三台に満載したコダックの印画紙や薬品、それに大型のドラム乾燥機までを運び込んできた。米軍のこうした実利的な素早い行動力と、豊富な資材調達能力を目の当たりにして、これでは日本が負けたのは当然だったと、文化社の写真部一同は慨嘆したという。

そうですよね。。。受け止めきれなかったんじゃないだろうか。




  
B5判、64ページ、全ページグラビア印刷で、中綴じカバー掛けの写真集は、原師匠が編集レイアウトを担当し、中島健蔵さんが文章を書いた。紙もインキも『FRONT』の残りが使えたので、戦後すぐ造られた写真の本としては破格の出来上がりだった。しかし完成して書店で発売してみると、その頃の市民はみじめな自分たちの姿など見たくもないのか、売れ行きは芳しくなかった。本よりも食い物と住宅の確保が何よりも優先だったのである。

そうだよね。。。確かに、そんな惨めな敗戦後の姿を自分で見たいわけがないよね。。。確かに生きるのに必死な中で写真をやっていたってことが、、、どれだけなことか。
   




たが、この苦境の救い手は思い掛けないところから来た。PX(占領軍の購買部)でG1の東京土産に売りたいという話が、占領軍の通訳をしている人から来たのである。早速英文の解説文を付けて納入した結果、やっと採算が取れる部数が売れた。

観光で敗戦の東京の姿ってのは、確かに、写したことのニーズとしては、そこだったのかもしれん。。原爆ドームへの観光も含めた慰霊というのは今も同じ。原爆ドームを写した絵葉書も売ってますもんね。 
       



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