「アフガンの息子たち」エーリン・ペーション
“子どものときは、親が写真を撮って、記録を残してくれる。自分の歴史がそこにある。どんな子どもだったか、なにをしていたか。ここには、なにもない。アフメドはよく言うー
写真撮ってくれ、おれが走ってるところ撮ってよ、海も入れておれの写真撮ってくれよ、おれとケーキの写真頼むよ。そのあと、写真を印刷してほしいと頼んでくる。職員室には、ここにいる子たちのうち、だれの写真を撮っていいか、だれの写真を撮ってはいけないかが掲示してある。ザーヘルもハーミドも写真に写りたくないという。わたしは頼まれたとおりに写真をカラー印刷するけれど、ほかに写っている人を切り取らなければならないこともある。アフメドは写真を、自室の壁に粘着ラバーで貼りつけている。”
生活の中での写真の在り方は、こんな感じなんだろうと思ったり。
“ここではろうそくに火をつけてはいけないことになっているけれど、きょうはいいことにしましょ、と所長が言う。ほら、レベッカ、あなたがケーキを持って。わたしはケーキを持って廊下を進む。みんな後ろからついてくる。”
“ザーヘルがおそるおそる両腕をまわしてきて、わたしはザーヘルをしっかりと抱きしめる。この子は泣いたほうがいい、とわたしは思う。泣くのはいいことだ、と。わたしは苦しげな息遣いが聞こえてこないか耳をそばだてる。けれど、聞こえるのは自分の呼吸だけだ。”
きっと、決まりが破られることは決してないだろうけれども、実体験からのフィクションなリアル。そして、他にも手を繋いだり、ハグしたりという場面からも、こうあって欲しいという想いがチラホラと、フィクションとしてストーリーが進むのは、絶対にあり得ないけど、あり得そうなドラマを感じる。
淡々と、事実だけが残されていくような内容の中で、冒頭のクエスチョンが効いてきます。開けた部屋で首吊りしていたらどうする?”わたしはどうしたら良いのでしょうか?”と。
転移、投影しないように、自分を守り、相手も守るために、システマティックに過ごすことは、逆に精神をきたしてしまいそうな気もするものの、普通ではない状況から、難民とも認定されないで、肉親も行く宛もない。人には、やはり帰る場所が必要なんだと感じました。