「平成写真小史」鳥原 学
当時において、写真はすでにメディアとしてのピークを過ぎていた。というそれは、今の時代も同じと感じるとなると、写真ってのはなんて面白いメディアなんでしょうか。
終焉と近未来の中で、宮本隆二さんや雑賀雄二さんが出てくる時には、ブレードランナーであり、AKIRAが、出てきて。
で、シノラマ。篠山さんは、アラーキーの写真を批判してたんだね。それくらいに、私写真がなかったってことからも、センチメンタルの序文はかなり、すっぼりと時代とマッチング繋がってて。
で、同時代にナンゴールディン、古屋さん。そして、ナンゴールディントークに「なぜ、セックス中の人を普通にとれたの?」と質問してざわつかせたのがパンキッシュな長島有里枝さんで。
そこからの牛腸茂雄さんが、現れて消える。
なんてヒリヒリする時代なんだ。明らかに、産みの大変さと、変化でしかない時代なんだろうと、単純に思い浮かべる写真から視覚的にそう感じる。
久留幸子さん、織作峰子さん、古沢めぐみ さんは、誰もが知らなかった…。勉強しなくては。そして、サラムーンがモデルから転身していることも…!
1990年代に篠山紀信、アラーキーがヌードに火をつけた。違うもの同士なのに、偶然にも違う形でヌードが流行ったんでしょう。
「きれいな裸」が、承認欲求なら、今インスタでたくさんの人が、勝手に脱いでるのと、何にも変わらない。。。繰り返している。それでも、やっぱりアラーキーのヌードは、明らかに違うと感じる。あんなヌードは、インスタで自分であげれる類のような話じゃないよなぁーと。
からの企業メセナ。で、ピークを過ぎたと感じた写真が女子によって復活!? 男性中心な写真の世界だったからこそ、目立って出てきたガーリー。それは、今までにない面白い表現だったんだろうけれども、あまりにも、ガーリーという枠で、女性を軽視していた?んでしょう。そして、言葉がなかったのと、世間がブームにしたかったんでしょうか。
笠原さんって、セルフポートレート撮っていたんですね。アメリカから帰国してすぐに写真美術館に呼ばれて。そして、ジェンダーな企画を立て続けに。
女性、セルフポートレートの位置付けが、なんとなく当たり前と感じてしまう時点で不平等であり、男性セルフポートレートが少ないこともまた、なにか、違う。それを声を張っていうのも違うんだけど、生きてりゃそりゃ、誰かと衝突するわけだから、生きてる証拠なのかも。。。となると、これもまた承認欲求の類にも見えてきて。コンプレックスって軽い言葉じゃないんだけど、責めると、責められてる側を擁護しなきゃいけないのが、擁護されることに腹を立てて、さらに責めたくなるみたいな、それを、笑ってみている擁護側みたいな。エンドレス。
森村さん、受賞できなかったことへの猜疑心のような不満。澤田さんが受賞するまで(評価できるまで) に、10年かかったと、篠山さん。
“ツァイト・フォト・サロンのオーナー石原悦郎
「今回の美術館で最低五十万人入るだろうと思っています。そしてそれを資金に、ヨーロッパに若い写真家が集まって自由に仕事ができるスタジオをつくるのが私の夢です」
歴史に“if"はありえないが、この予測が当たっていれば、平成期の日本の写真芸術はまた違ったものになっていただろう。”
ふむふむ。本当にそうなのかもしれませんね。
“「芸術として」あるいは「芸術の仲間として」という方向を持ったものであったことに無自覚であったこと。そこを拠り所として、砂上の楼閣を築いていたのだということに気づかなかったこと。」
このように無自覚な地点から、つくば写真美術館での経験を経て、彼らは美術館運営にかかわるさまざまなことがら、企画、教育普及、コレクションの選定と収集などに重要な役割を果たしていくことになる。”
“金子と横江は東京都写真美術館の、平木は川崎市市民ミュージアムの学芸部門に属し、飯沢、伊藤、谷口らはそれを外部関係者としてアシストしたり、ときに共同でキュレーションするような立場でかかわっていったのである。もちろん、平成時代に誕生する公的な写真美術館の道のりは、彼らが想像した以上に紆余曲折したものではあった。”
“つまり東京都写真美術館は7万円、川崎市市民ミュージアムは5万円、横浜美術館は3万円に固定されていた。日本に写真作品の市場がないため、適正価格かどうかを判定する客観的基準がないことが大きな理由だった。オ
1995年まで。それで増えた。”
ほえーーっ、美術館の写真購入金額が、同一だったなんて!
“中でも一番の問題は、この美術館を「写真」美術館と名付けたことに起因している。ここでも日本の特殊な事情が祟っている。「写真」美術館としたことで、あらゆる「写真」の関係者が、それぞれまったく異なった期待と利害をもって、ひとつの美術館に集中してしまった。「写真」美術館としたことで、「美術館」という含意を読み取らず、写真であれば何でも対象にするような誤解を与えてしまった」
笠原はまた、本来は研究機関である大学の写真学科が技術の指導に偏重し、シリアスな作品とコマーシャルの境界が曖昧なままだったことにも言及している。加えて言えば、もともと日本では1980年代後半に至るまで、近現代美術を扱う美術館でも、写真作品の位置付けは曖昧だった。東京国立近代美術館には、アルフレッド・スティーグリッツなど著名写真家の写真の収蔵はあったけれども、作品ではなく資料として扱われていた時代が長い。それらを作品として扱うように求めたのも、写真家たちだったのだ。”
たしかに…そーなのかも。。。写真美術館が、たとえば現代写真美術館?とか、んーーー、フィルム館とか?んーー、写真表現美術館とか?ん。でも、その越境する感じが、写真の多様性な面白さだから、、、個人視点共有館!?共通するのは、個人の視点が見えてくるところだから…でもそれだけじゃ美術館にはならないからねぇ。。。写真博物館的な方がまだしっくるくるかも。。。
さらにそこから、石原慎太郎が都知事となり、借金漬けの財政にNO という、都政で、1999-2006までが収集なし…!!驚愕です。そこで、徳間書店の徳間さんが写美館長に新任するも、5ヶ月で急逝。1Fがホールになってるのは、徳間さんのお仕事だったわけなんですね。ちょっとジブリコラボとか、見てみたかった。。。けど、んー。そのあとの福原さんで確かに、写真になれた、守られた気が。
東川写真フェスティバルでも同じように、新町長になってからは、廃止する声が…。でも、写真甲子園で、注目度が格段にアップ!!わかりやすく、市民に伝わることは、とても大切ですね。
倉谷 拓朴さんも、遺影をとることで、つながりを持てた。が、写真界で評価対象にされることは限りなく少ない。。確かに。。。
個人の写真家しての活動が盛んになり、東松照明さんも写研(出版社) を。海外へも紹介された日本写真家の復刻版写真集、集。そこから一気に注目度があがり、高騰することに。写真集ブームはここがきっかけなんですね。
とんで、、
“三島由紀夫をテーマにした作品「なにものかへのレクイエム」(2006年)の制作意図について、次のように述べている。
「私が出品した38年のアベルトは、現代美術が商品になった先駆けで、日本美術の元年でもある。けれども私はその功罪両面を感じているんです。というのはグローパル化もそれ以降「売れる作品が良い作品である」と考える人が出てきた。芸術は本来そんなものじゃない。最近、お金儲けのために子どもにサッカーやゴルフをさせる親御さんがあるそうですが、じゃあ1億円欲しいからサッカーするのか(笑)。おカネは結果であって本来の目的じゃない。私は三島に扮した映像作品で、こんな演説を叫びました。「芸術もまたマスコミに踊らされ、流行現象の片棒をかつき、世界戦略とやらにうつつをぬかし、コマーシャリズムと売名行為、経済効果が価値とばかり精神的にからっぽに陥っている。静聴せよ、静聴せよ、静せよと言っているんだ。静聴せよと言っているのがわからんのか」、とね。その背景にはこうした思いがあるわけです」”
“アイドルを撮るのと同じスタンスでもあり、つまり「社会的非難を浴びてもかまわない。写真とはそういうものだ」という覚悟が表れているからである。”
森村さんのその言葉は、とっても響く。椿昇さんが、自然と教育者でもあるようなそんなイメージで、森村さんもそう見えた。あまりにも、売れることばかり気にしたら、そんなもんじゃないものが、そんなもんじゃくなってしまいますよね。
そうして、東日本大地震。
“「重度の被災者である我われが毎日現場に赴き、涙を流しながら撮影した写真には、悲しいことに、その感情も思考も映し出されてはいなかった。これは活動を始めて気付いたことだった。写真は光学的な光の羅列であり、われが体感した現実と同一のものではなかった」”
これは、写真表現そのもののように思います。
“当事者に変えられてしまうカメラの機能には従わざるを得なかったのだ。解説の最後には、このような写真の限界を、創作者たちがユニークな発想で乗り越えてほしいという期待が示されている。
「美術館が震災資料を常設展示することで、それらの資料が美術関係者、アーティストの目に触れる機会が生まれる。そして一見すると単なる自然災害としか思えない津波災害というものが、実は歴史的背景や文化的背景に起因する人災的側面を多分に持っていることに気付けば、アーティストは必ずそれを表現の課題とするはずである」美術館のメッセージほど明確ではないにしても、他の被災当事者の写真にも、当事者と非当事者とを分ける一線を超えて「我々が体感した現実と同一のもの」がいつか表現されることを願う声が潜在していた。”
なるほど。。。それでも、単純に表現へと繋げられる(つまりは自分の世界にできる) 写真家( でないにしろ、表現者 ) は、そうそうにいない気がする。と思っていたが、篠山さんが、”面白い”とはちがう中で、でも写真としては今しか撮れないものをと撮りに行っていたのは、大変に興味深いです。。。チンポムであったり。村越さんや、本城直季さんのように、もっともっと時間が経ってから発表する、できるようになる作家が、世の中として、出てくる気がします。リメンバーパールハーバーとして白菊の花火を打ち上げるように。
そうして、古い家族アルバム。地域史を語る遺産として扱うプロジェクト。それは、広がるよねー。
”フィルム時代の写真がいまだ手元に残っていたからこそ家族アルバムは救済され得たのだ。”
とは、まさしく。ネガやフィルムはモノなんですよね。細江さんがデジタルは、あった形跡も、無くなったという空気感も跡形もなくなってしまう、と書いてあるように、フィルムなら、それは像が消えても何かがある。まさしく、その志賀さんの、写真が娘になったり、なんだか分からなくなったりな、呪術的な写真の要素で。
で、畠山さん。
“「見渡す限りの瓦礫の中で、自分や家族や知り合いのことを思うとき、そしてそれが写真にはもう写せないと覚悟をするとき、「いい写真」は、空疎な響きしか持たない言葉のように思えてくるのです。目に見えるもの、写真に写せるものの少なさに比べて、目に見えないもの、写真に写せないもの、いくら歩いても、いくらシャッターを切っても、何かを行っている気分にさえならないのです」”
“畠山もやがてこれまで個人的な記憶のために撮影していた実家周囲のスナップ写真の見え方が、まるで変わったと感じるようになる。写真の原点にあるのは、個人にとってしか意味のない写真ではないかという、これまで持たなかった思いがそこで生じた。”
“美術関係者を戸惑わせ、作品としては評価不能とされることもあったという。だが、それでもこうした写真を続けていくという覚悟を「陸前高田201112014』で明確に示している。
「だがそのような考え、感じ方があるとしても、それはいずれにしろ、いまの僕にとっては、どこかですでに見聞きし知っている「単純な物言い」のひとつでしかなく、それよりは、良い悪い、正しい正しくないすら「わからない」ような、自分にとって未知の方角へと、たとえ何かに引っ張られるようにしてでも、このまま進んでゆくしかないだろうと感じられる。(正直に言えば、それを邪魔する「単純な物言い」の権化は呪われるがいい、と思うことすらある)」”
分からないけど、撮ってしまう。ひかれてしまう。それは、震災や写真に限らずも、人間が何かをするときの動きの不思議さ…。よく分からないけど、急になにかしたくなるみたいな、そんな理由のない単純な衝動。困ったら海に行くとか、お腹減ってないのに食べちゃうとか。好きでもないのに、一緒にいるとか。もちろん、畠山さんには理由はありますが、それは、人が生きていることなんだと思うので、大坂なおみが、テニスよりも大切なことがあると、言ってたように、私たちには、もっと根本的な動きがあるはずだろうなー。それが、歪んでるとき、それは、自ずとやるんですよね。。。
コロナになって、加速してみれば、平成は昭和からの地続きだった。
ほんとに時代は移り変わりゆくので、きっと出るであろう”令和写真小史”もめちゃ楽しみです…!!!その前に、2025年7月5日の予言が…笑