「人新世の「資本論」」 斎藤 幸広
おもしろい。お頭が弱いので中盤から難しいなぁーと思いつつも、最後まで面白かった。
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下記引用的にツラツラと…
犠牲が増えるほど、大企業の収益は上がる。それが資本の理論であるのは、それだけではなく地球環境全体をも、そうしてしまっていて。
エコバッグすらも、新しいデザインのものが次々と発売されたり、電気自動車やテレビの省エネがあっても結局、大画面とか2台持ちってのは、ホント本末転倒。
リチウムイオンとかの採掘には、インフォーマルで危険な仕事を子供達が請け負ってる。1日1ドルとか。そうすることで安価にもなつてる。んだけど、それなのにSDGSって。。。
気温が3度あがることのほうが危機。そしたらワインも永遠に飲めなくなる日が来る。だから生活の規模を1970年代後半に落とす。。。そしたらボジョレーは解禁の日には飲めない暮らしになるけど、ワインは飲み続けることができるよー。
温室効果ガス排出ゼロ、電力の100%再生可能エネルギー化とかのグリーン・ニューディールは、そもそもがもう諦めてる政策 (?)
脱成長!
利潤を増やすための経済成長をけっしてやめないのが資本主義。ふむふむ。
資本主義が地球の表面を徹底的に変えてしまい、人類が生きられない環境になってしまう。それが人新世という時代の終着点である。
高度経済成長の恩恵を受けてあとは逃げ切るだけの団塊世代の人々が、脱成長という「綺麗事」を吹聴しているというイメージが強い。…そうなのか、逃げ切り。
アメリカのz世代の半分以上が資本主義よりも社会主義に肯定的な見方を抱いている。削除すべきはSUVや牛肉、ファスト・ファッションであり、教育や社会保障、芸術ではない。
ドーナツ経済の実現のための鍵を握るのは、「人口、分配、物欲、テクノロジー、ガバナンス」だと、ラワースはいう。
ある一定の水準を超えると、むしろ否定的影響の方が大きくなっていく。資本はできるだけ短期的に、より多くの価値を獲得しようとする。そのせいで、資本は人間と自然の物質代謝を大きく攪乱してしまうのだ。
マルクスはインドの共同体が定常型経済であることを理由に、受動的で、静的で「まったく歴史をもたない」と切り捨てていた。ところが、共同体社会の定常性こそが、資本の力を打ち破って、コミュニズムを打ち立てることさえも可能にすると、最晩年のマルクスは主張していた。要するに、マルクスが最晩年に目指したコミュニズムとは、平等で持続可能な脱成長型経済なのだ。
マルクス的には、資本に包摂されて、無力になってる、スタバでネトフリで。。。ほー、宇多田の歌詞だなぁー。
作業の効率化によって、社会としての生産力は著しく上昇する。だが、個々人の生産能力は低下していく。かつての職人のように、ひとりで完成品を作ることはできない。
うん。確かに。
公冨と私財の違いは、希少性の有無である。
水は潤沢に存在していることが、人々にとっては望ましいし、必要でもある。そして、そのような状態では、水は無償である。それこれは公冨の望ましいあり方である。
資本主義に生きる労働者のあり方を、マルクスはしばしば「奴隷制」と、呼んでいた。絶対的希少性が、貧困を生み出す原因である。
住宅ローンを組んで、食べたいものをローンで我慢して、、、もはや、なんのための生活なのかわからなくなるような人生を送る羽目になる。
相対的希少性は終わりなき競争を生む。
満たされないという希少性の感覚こそが、資本主義の原動力なのである。だが、それでは、人々は一向に幸せになれない。
だから、資本主義の人工的希少性に抗する、潤沢な社会を創造する必要がある。それがマルクスの脱成長コミュズムなのだ。
潤沢…!!
ラディカルな潤沢さを。21世紀に実現するのは、コモンなのだ。
地産地消で、回す。
希少性を本質にする資本主義の枠内で、豊かになることを目指しても、全員が豊かになることは不可能である。
自己抑制を自発的に選択すれば、それは資本主義に抗う革命的な行為になるのだ。
資本論に秘められた真の構想
●使用方経済への転換
●労働時間の短縮
●画一的な分業の禁止
●生産過程の民主化
●エッセンシャルワークの重視
エクアドルの先住民の言葉を、スペイン語に。ブエン・ビビール=よく、生きる。国民総幸福量。
バルセロナ、アン・クムー。地域密着型の市民プラットフォーム。
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奮い立つのは、誰かでも一緒にみんなで、ったわけでもなく、ただ一人の自分ってことなんだなーと、節々で思いました。友達とかじゃなくても、なにか一人でもいいから、働きかけをすることで、返ってくる何かの感覚を持ててるか、持ててないかで、すごく変わる。。。流れされてることに気づかないままに、その中を泳いでるだけで、えっすぐ横に陸地とかあるけど行ってないの?っていう。案外、泳ぐをやめる選択をしている人もたくさんいるのに、放たれたここしかないと思うのはやめましょう的な。
きっと、赤ちゃんも初めて産まれた時には、こんな場所、知らないところで怖かったはずなように、なんか働かないと死んじゃうかもってのもやめて見たりして、自分価値観に合う生活を見つけることとか、
またしてもありきたりだけど、もうちょっと、もっと、この社会の仕組みから外れた生活は、それは別に外れてるわけじゃないっていう。積極的に、脱するのは楽しいことだなーと思いました。つまりは、それが新しい未来を作ることだっていうような。
そのへんはすごく、この本を読まなくても感じていたことなので、より一層背中を押されたというか、そんなふうに生きたいなってか、生きちゃえばいいんだなって思っていたけど、そこで声をあげるのが、たとえそれが私一人でも、声があがっていること事実には変わりはないってところには今まで気づきませんでした。