「自由が丘画廊物語」金丸 裕子


「(二科展)九室に出品していた作家を中心に九室会ができて、吉原治良、斎藤義重、伊藤久三郎、山口長男ら多くの前衛作家が名を連ねていました。東郷青児と藤田嗣治が顧問をつとめていたはずです」


「…戦後に日本を占領したGHQが、日本の非軍事化と民主化を進めた影響もあって、日本の戦後美術界はものすごい勢いで動き出していきました。官展の流れをくむ日展、院展以外の在野団体も、一水会、二科会、春陽会、二紀会、国画会、美術文化協会、独立美術協会、行動美術協会、自由美術協会などがありました。なかでも当時、民間最大の公募団体として力を持っていたのは二科会でした。もともと二科会は、文展で冷遇されたやや前衛的な画家たちが結成した反・文展、反・帝展の在野の公募団体として大正時代に結成された経緯があるのですが、戦争が終わっていざ再開という段になって、とりわけ二科会の内部が崩れてく。戦後、民主主義の時代になっても、日展や二科といった従来の公募展はヒエラルキーが残っていたんです。党派が違えば落選するし、若い前衛志向の美術家たちは評価されない。これじゃ戦前と変わらないじゃないかという不満が吹き出すなかで読売アンパンが開催された。そんな経緯があるんです」


といったところのアンデパンダン展開催の契機や、ガレリアグラフィカでのカタログをバラバラにして額装をしたデュシャン展を見て「それではいけない」からの、デュシャンの大ガラス東京ヴァージョン完成の話、駒井展でさらっと購入していたことや贋作話での岡 鹿之助先生の粋な図らい。ほんの上澄だけを知っているだけだったようなことが、読んでいると体験として再生されるような、そんな物語でした。ツァイトスタッフ的にも、この遺伝子は面白い、これからも大切にしていかないといけないなと感じました。


下記、印象に残ったところを。。。


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「画商にも目がいい人、鼻が利く人、耳がいい人というのがいるんだよね。洲之内徹さんはとても鼻が利く人だった。恐ろしく勘がいい。耳がよかったのは窪島誠一郎さん。情報を自分のものにして生かすことができる。窪島さんも天折した画家や戦死した画学生を追いかけるということで洲之内さんと重なるね。窪島さんは長野の上田に『無言館』をつくる以前の若い頃、画廊を経営していてよくうちに来ていたんです。ぼく? ぼくはたまたま目がよかったのかな」


画商のタイプ。なんかすごく良くわかる気がしました。


「画商はペテン師なんだから、正直でいるべきなんですよ」実川が言った「画商はペテン師なんだから、正直でいるべき」という言葉がとても気になり、どういう意味なのか聞いてみた。「だって、絵の価値って絶対的なものかどうかは、誰にも保証できないでしょう。にもかかわらず、ぼくら画商は作品の値段を決めていく。虚の世界を生きる画商はペテン師なんですよ。ペテン師は正直でいるべきというのがぼくの考え。おもしろがって他人を騙すと、自分に返ってくるし、一度嘘をつくと嘘の上塗りをしなくてはならなくなる。それに、虚にはいろいろなものが渦巻いているから、大きな金が入ってくる時こそ要注意なんです」


火の鳥のような話のような。


(ボイスを見て)ジーンズをコンクリートで固めた作品だったり、ラードでドロドロにしたものがあったり。「コレが芸術か?」と葛藤するほど衝撃を受けた。「ぼくは、その瞬間にはわからなくても、心や感覚に引っかかる作品と出会ったときには、それが手持ちの金で買えるものならば買ってしまう。ボイスの作品も買ってきたし、それからけっこう集めました。来る日も来る日も飽きもせずに眺めているんですよ。最初は、わからなくても、だんだん謎が解けていくのが好き。だから画商になったということもあるんですね。」


心や感覚にひっかかる。とても分かります。なんな気になる。でも、そこで買うという行動に移すのが、すごい。見習うべきか、、、自制すべきか…!


現代美術は凝り固まった自分の考えや感性を変えるきっかけを与えてくれるものなのだ。最初はわからなかったり、嫌な感じがしたり、違和感を覚えたりするけれど、それを見なかったことにするのではなくて、見続けたり、記憶のどこかにしまっておいて時々出しては反鍋する。そうすることでそれまではわからなかったり、見えなかったりしたものが、ある日すとんと腑に落ちて、自分の新しい一部になってくれる。人によっては、そのことが未来を大きく変えることになる。その不可思議な出会いをつくることも画商の仕事なのだろう。


ふむふむ。


「最初のパリでは、ぼくはスーツを着ていました。でも画商たちを見て、もっとカジュアルでいいのだと感じたんです。とりわけ現代美術を扱う画商はジーンズが多かった。画商の着こなしも扱う作品のイメージとかけ離れないほうがいいんですね。パリの永さんの着こなしは、オーソドックスにカジュアルがほどよくブレンドされ、ヨーロッパの名匠を扱うのにふさわしい品がありました」


なるほど…!!僕がアートフェアなどで海外の人を見た時に受けた印象と同じで、言葉にするとさらに、そう強く思えました。


「眞理ちゃんは、偉い画家や評論家が何を言おうが、どこ吹く風といった感じで飄々としているでしょう。そして、いつも何時に出勤するかわからない。でも良いキャラだったんだよね」と実川が言うと、「そう、わたしは午後四時からの女なの。……

 

あははは!


自由が丘画廊は商売を営むところであるのに、大らかで、澄んだ空気が流れていた。もちろん、知的で鋭い感性の持ち主たちが集まっていただけに、互いを研磨する張り詰めたものも漂っていただろう。ともあれ、美術に惹かれる20代30代の人たちが、これから自分をどう活かし表現するかをゆっくりと考えるには最適な場所だった。訪れた人にすれば、社会がつくったレールから外れても、こんなに愉快に生きられるんだと感じさせる所だったかもしれない。そうした空気もまた自由が丘画廊の魅力のひとつだったに違いない。


すっごい居心地が良さそうです。サードプレイスなんてかっこ良さを求めることじゃなく、外れた人が自然と集まる場だったのですね。。。


「またまた交番のお巡りさんの出動となりました。主宰者である尾崎さんの人柄と話術は、そのお巡りさんまで仲間にしてしまうのです。その時も会の終わりに尾崎さんは、『ご苦労様でした。これを交番の壁へでもかけて楽しんでください』とお巡りさんに版画を差し上げました。「どういう絵なんですか?」『今世界で話題になっている、日本を代表する絵描きのオノサト・トシノブのものですよ』「困りますよ、そんなに偉い人の絵を』「いいんですよ、同じ絵がたくさんあるでしょう。これは版画といって、同じものを何枚か刷るんですよ。ぼくはこうした絵が日本中に広がるようにオークションを開いているんです』『はあ、それでは遠慮なくいただきます』 次のオークションでは、そのお巡りさんも参加して版画を買っていくのです。尾崎さんには人を魅惑する力があふれていました」


すごい愛情です。そして、どストレート & 嘘がない。版画の存在…こう考えると大変な役割をもった存在です。


「常識では、画廊は銀座の目抜き通りでかっこよくやるのが最適なのでしょうが、ぼくの考えは違っていました。画廊は趣味人のための場所なので、隠れ家的な要素があって、吹き溜まりのように人が集まるところがいいんじゃないかと思っていました。あの場所は自由が丘駅正面口のロータリーから4本目の路地にあって、駅から2、3分という近さなのに秘密基地みたいに落ち着けた。…


なるほど。。。。そういう理由なのですね。


山龍泉堂の初代繭山松太郎は天才的な目利きだった。22歳で北京に渡り、ホテルのボーイの仕事をしながら中国骨董の仕入れの術を覚えて当地で古美術商を始めている。


そういった人生もありですよね。。。


「油絵だけで生きていくのは難しいから、版画をやるよう」久保は勧めた。そして彼らの作品を購入するのみにとどまらず、自身が版元となって、作家たちに制作を依頼して数多くの版画集を出版していった。この作家に版画をつくらせたいとなったら、プレス機をはじめ道具一切をその作家のアトリエに送りつけ、作家がつくらずにはいられないようにしたのだという。


ほほ!すごいなぁ。。。


「ぼくが参加した頃の小コレクターの会は、久保先生は会の顧問となり、尾崎正教さんが主字をしていました。尾崎さんは小学校の先生で、久保先生に共感して版画を普及する活動をされていました。南画廊での会は年に数回開催され、幼稚園や小中学校の図画の先生たちが熱心に通ってきていました。…


先生が、参加しちゃうあたりの巻き込み度がすごいなぁ。。。久保貞次郎先生をちょっと調べて見たら、臨画というお手本のままに書く時間ではなく、チィゼックが提唱していた創造画(自由画)を取り入れるところから、自由に描くことにはその人の想いが入る、だから絵は大切なんだという。確かに、真似てるだけでは、なんだか国語の漢字の練習と同じ感じですもんね。昔の美術の授業がそんな感じだったとは…。もっともっと私、勉強しなくては。 


「久保先生の話では、版画が主体だけれど十五万点の作品を所蔵しているということでした。一つの蔵には額縁を作るおじさんが常駐し、一日中作業をしていました。『実川くん、ここまで来たなら絵を一点買っていきなさい』と久保先生に言われて、木村茂の版画ともう一点選びました。絵に関わっているところで少しでも世話になったら、買うことでお返しをしなさいというのが久保さんの教えでした」


なんとも粋…!!こうやって、世界は回ってほしい。


「しょっちゅう画集を見ていたし、国会図書館に行きっぱなしのことも多かったですよ。ぼくが南画廊で一番勉強させてもらったのは、財閥から出てきた南画ですね。与謝蕪村、池大雅、田能村竹田、浦上玉堂なんかが出てくるんです。池大雅は月に10本は出てくるけれど、そのうち9本は偽物。盤定家はいないから、自分の眼で真質を見抜くんですね。物をつかめばもろに損をするから、資料を漁りながら厳しく見るようになる。おかげで池大雅はわかるようになったけれど、玉堂はわからない」


なるほど。。。ネットにある情報だけが便利で、見つけたら、やったー!とか叫んでる今ですが、こうやって少ない情報の中での審美を自ら磨いていくのは、知識を得るというのことが、一体どんなことなのかを、改めて考えさせらます。。。そこまでの熱意がある人しか続けられない。それは、不自由なようで実は幸せなことです…ね!





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