ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ「柔らかな舞台」東京都現代美術館




対話とはなんぞや。効果覿面で、意義のある対話とはなんぞや。


と、ふと見ていて感じた。対話って、どんな人とも出来る、成り立つものと思ってましたが、映像作品を見ていると、その人の立場、バックグラウンドによって発言の言葉の重み、そして話しているみなさんの理解が5倍くらい先になっているのを感じて、何に関心があって、どんな人が集まっているのか。それが対話、というか集まる場の大原則なんだと思い知らされました。


どの会話も、日本の日曜討論のテレビや、コメンテーターの発言で見聞きするような見えないマウンティングや拒絶や否定が全くなく、もう聞いていて音感として心地よいものばかり。どの言語を聞いていても、人が人へと語りかける耳触りがいい空気が出てる。だから、聞いてしまう、そんでもってウトウト




 

話している内容も、私にとっては遠いことなのに、こどもが寝静まったあとにこっそり聞いてる親の話のように、すごく近い存在として興味深く感じる。それは、集まってる人がそのことにしっかりと関心があって、自分のこととして話しているから。学校の平和学習のような何かを習う、知るための場とは全く違う、自分の人生のこととして語っていることがよくわかる。


おもしろいのが、入ってすぐのオランダ、マウリッツハイス美術館での公開イベントとして撮影された映像。普通に美術館を見に訪れた人が「なんだこれ?」と、見ている姿と、まじめに語り合ってる姿。でも、その「なんだ?」と見つめている視点には「アートを見ている」という気持ちなんてのは1mmもなさそう。けれども、その光景が作品となって私たちは、現代アートとして見ている。しかも、撮影者であり作家であるウェンデリン・ファン・オルデンボルフも、普通にカメラとかでも撮影しながらその話に入ってる。そんな中で交わされている植民地入植者のこと、国籍が変わっても私はブラジル人だと。島国の日本人としてはなかなか経験や体験としてアイデンティティのことは理解しづらいというのは絶対的にある。ハーフやクォーターの友達なんかが、国籍を選ぶ時に悩んでるを見ていても、同じ気持ちには絶対になれない。だとしたら、有意義に対話するにある意味で値しないというか、ただの答えを求めてるわけでもない相談になる。


答えを求めてるわけでもない相談


彼と彼女の関係でよく見ますよね。「どっちの服がいい?」って聞いても結局自分で決める。それは、習慣とか繋がりの確認のようかもしれません。そして、服もそこまで真剣に話したい話題でもないかもしれない。


じゃあ本当に、話したいことは?性のこと、女性が表現すること。に直面してる人たちが映像で話している。


どんな話題であれ、深く考えている互いであれば、掛け算となって増えていく理解がある。ただ人が集まって深いことを話していても、それは話してることに変わりはないけど、話してないと同じ、ずっと0へと戻ってる時間かもしれない。そんなことが、よくわかる映像でした。

  

 

 

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