「 第一章 妻 1978.2-1981.11 」古屋 誠一
古屋さんの写真は、「(奥さんの)クリスティーネは病を患った末に東ベルリンのアパートの上階から身を投げます。」と、ギャラリーのステイトメントにもあるように、最愛の人との時間を写真集にしたMémoires(メモワール)が、なんといっても印象に強く、私が習った写真の授業でも紹介されたのですが "自殺した直後も撮影をした" という言葉だけが、今までもずっと頭の中で独り歩きしていて、どうしても展示を見に行けずにおりました。
写真を見ていると、彼女の中に何人かの人がいるかのように感じる時がありました。特に1980年頃の写真。少し”こう撮られたらあなたは嬉しいかしら?”というような古屋さんへ向けた愛を、被写体としてフォトジェニックに変えた愛になっているなぁと感じました。
それと、真っ直ぐに人を撮るというのは、本当にその人のことが好きじゃないとしない行為だと思っていて、古屋さんはすごく素直なのだなぁとも思いました。同時に、私は個人的に撮られるのことが大の苦手、ストレスに感じる方なので、カメラが持っている暴力性みたいなものも感じました。
藤代 冥砂さんの「もう、家に帰ろう」は、私はけっこう好きなんです。どちらも共通しているのは、ある意味で、こんなに色々な自分を見せれる関係性 = 恋人・家族・・・だろうとは思っていますが、それを見ている私たち鑑賞者は、一体誰なんでしょうね?本来であれば、見ることができないその人の表情を見ている私は、時には恋人感覚に近い視点になったり「これ2人だけのことなのに見ていいのかな?」と、恥ずかしくもなったり。
それが赤裸々になればなるほど、写真は「良い」「どんどんいけ」みたいな風潮があるようにも思いますが、時に私たちが、追いつけない時があるとしたら、浅田家のような安心感は、やっぱり見る側としては「あっ、見ていいんだ」と。年賀状のように公表されている写真だと、どこかドキドキがおさまるような気がします。そのドキドキが収まっている感じが、家族の空気と距離感に似ているなぁとも、今改めて思いました。