「アートをはじめる前にやっておくべきこと」 椿 昇 x 後藤 繁雄

 





すごい面白くて、一気に読んでしまった。


たくさん刺さる言葉がありまくりでしたが、強く印象的だったことを総括的に取り上げてみると「根源的なことって過激なんだよ。キリスト教だってそうだけど、根源的なことを言われたら、権力とか政治は困るわけです。だからそれを抑圧、隠蔽しようとする。」というところ。


椿さんの他のインタビューを読んでいても「不幸?なアーティストという生き物は、単純に生の反逆者となります。」というのが、なるほど、アーティストやアートの中で良いなと根源的に感じるものは、社会の大きな流れからしたら「気づかせんな!」というようなことでもあって、教育としても、本質的に良い教育ってのは「おい、それ知っちゃったら崩壊するし、教師の面目丸潰れやろ」という、社会とは別なところにあるようで。


日曜討論を聞いていても、なんでみんな日本を良くしようって思ってるところで一致して一緒にやれないものかと、私の大雑把な頭で思ったのですが、椿さんの「YES BUT」は、ここでも使われてほしいなと。でも、そうなると社会(テレビ的に?)としては何か困るようなことがあるのようです?さんまさん的に言えば、お笑いを殺してるようなもんでしょうか。(  さんまさんのことは"恋から"の時から大好きです )


じゃあアートってなんなのさってなると、けっこう真っ向勝負なんだなぁと。そういう駆け引きなしなのが、そこが反逆的だなぁと。だからこそ"イタズラ心"や"ユーモア"ってのは、確かに大切だなと思いました。


時々、アート作品ってもしかしたらいらないんじゃないかなって思うのですが。というのは、概念とかその発想とか発明とか、考え方とか、それに直に触れて面白い!って、もしなれるのであれば、証拠のような視覚的な作品ってのは、本来はそんなに大切じゃないんじゃないかと。浮気してません!という身の潔白を証明するために、着信履歴とか物的証拠を、見せれば見せるほど疑いが増すように、それは鑑賞者的へは潔く、はい、わかった。と、パッと直感的で伝えることが1番いいんじゃないかと。そういう意味でも、アートをやる前に、こういうことなんだってのが分かるのと分からないとでは、ものすごい差だとも感じました。( と、書きながらも、本当にはまだわかっていない部分も。)


今になって思うと、アートドキュメンタリストの安齊重男さんからも、そんなことをずっと近くでお話ししてくれていたんだと、はたと思いました。あの頃の私にとっては、アルテ・ポーヴェラも、もの派も、へぇーほぉーっと、そんな人もいるだと、視覚的な作品の面白さや、個性的な人の面白さばかりでしたが、なぜそうなったのかということを、時代を含めてあまり見てませんでした。となると、もしかしたら国民性1つをとったって、他国から見えたそれはアートって呼べるものといってもいいんじゃないかな(?)とも。


でも、知らないなりにパラパラと展覧会カタログをめくってちょっと見えた作品を見て「これってコスースみたいな人だったよね?」と、なんとなく覚えてる知識とキャプションを照らし合わせて「あっ、やっぱコスースだ!」ってなって自分に赤ペンで丸をつけてみるのは、ある一定の嬉しさがあって。でもそこにはなんにも本質はなく。シャベルを覚えて「はい、コスース正解。じゃ次は」と、考えさせないで「キャンベルスープ」を見せられて「ウォーホール!」「はい、正解!」を続けていた方が、私たちが、社会で生きてくる上ではよっぽど必要とされてる(させられている)スキルなようなのを、真っ向から、ぶち壊すのがアートでもあるんだろうなと。。。?

 

にしても、この本から考えさせられたことそのものが、とてもおもしろかったです。






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