「明るい部屋」ロラン・バルト




「あまりにもよく整理したものの例にもれず。」

バルトはプンクトゥムのことを、小さい穴と言っている。
その言葉自体がカメラオブスキュラのようで、
しかも、そのプンクトゥムは細部によくあるとバルトは言っている。
なにやら、それは私がずっとプンクトゥムって、あのことなのかな?
と使ってきたイメージとは、だいぶかけ離れてるものでした。

あたり前に多くあるストゥディウムの良さではなく、一際、自分個人の興味関心を唆される物体、空気感。
それを見つけることが、なにやらプンクトゥムのようで、
印象的なのは、本の中に使用されているケルテスなどの写真に添えてある言葉達。
その言葉は、意外にも対話型鑑賞的だと感じました。

“…母親が泣きながら手にかかえているシーツ(いったいなぜ、こんなシーツをかかえているのか?)”

“ベルト付きの靴である。なぜ、このように時代遅れの古めかしい靴が、私の心を打つのか?
言いかえれば、それは過去のいかなる時期に私を送り返すのか?
このプンクトゥムは、私の心のうちに非常な好意、いとおしさと言ってもよい感情を引き起こす。”


…それは、果たしてプンクトゥムなのであろうか…?
と、なんだか定義してるバルトにあれなんだけども、思ってしまった。
バルトの感じてるそれは、かなり冷静にその写真を、知ろうと探ろうとしてる状態のことではないかと。

私を今まで貫いて、突き刺さっていたものというのは、
探ろうとも、知ろうとも、なんともしない。ただ、打ちのめされる。
FF8のセルフィのスロット「ジ・エンド」みたいな(古い)
こんな風に死ねたらというくらいに、
なにかを超えて来てしまってる感覚がある。
(私にとっては、長澤英俊「オーロラの彼方へ」、川内倫子「うたたね」、長岡花火、大林宣彦監督の映画と、ジャンル問わずあるもんだ)

もちろん、そこまでこない時もある。
その時に、僕は「なんでこれが好きなんだろう?」と、初めてバルトのように考える。
フランクブラングインとか、どこかの美術館で見る常設の中のある1点とか。

そんな中での「温室の写真」の話は、趣味がいいように感じる私は、
そこでバルトが、その写真を誰にも見せないことで、言いたいことを感じる。
ここが、すごいいい。
プンクトゥムの共有なんて、ほぼ誰ともできない。
だからこそ、同じものや作品、感覚に惹かれる人と出会えることは素晴らしいことだとも感じる。
温室の写真のような家族写真は、私にもある。
祖母が野球をしてる6x6のすごく小さな写真。
もしくは車で実家へと乗りつけた後の父の背中である。
映り込んでいるのは明確な歴史でありながらも、私個人の勝手な歴史を想像する。
ただそれは、比率的に写真がそうさせている可能性が高いのか、家族がそうさせているのかというのは、あんまり僕は判断ができない。

「あまりにもよく整理したものの例にもれず。」
 
バルトのその言葉の方が、なにか写真に近い…
というより、この本の中での一番、所在なき宝箱のような。
 

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