「野生の少年」フランソワ・トリュフォー




実話を元にトリュフォー自身が博士を演じた「野生の少年」。

人って生まれた時から人なわけじゃなくて、
育てられて人に”させられてる”んだと、初めてリアルに感じた。

日頃、頭パンパンでもう無理!と躍起になった時にリフレッシュしようと思って
散歩したり、森や水を求め出かけたりするのも、
それは人という作られた枠に切り取られた世界って狭い!
還ろう!というような気持ちなんでしょう。
満月をつい眺めに外へ出ちゃう少年ヴィクトールに、
どちらかと言えば私は旗を振って一緒に眺めたくなる気持ちでいっぱいなのですが、
ここで嬉しいのが博士もまた、それに理解を示した表情で見つめてる温かさがあるところです。

私たちも昔、外で暮らしてたし狩りもしてたはず。
今、家に住んでるのはそうした方が生き延びやすかったという、
3匹の子豚のような先人の蓄積があってのこと。
しゃぶしゃぶとかすき焼きの肉を平気で射殺場での現場を通り越して
美味しく食べている現代では、
過程を考える必要なく、軽々と使いこなせてしまえている光景ばかりです。

博士のやってる教育は道徳観があり、
間違ってなくて素晴らしいと思えてしまう自分がいます。
(それは研究として、理由をしっかりと述べているから)
ただ、徹底的に無欠すぎるところが、それは実際の人よりも人らしい、
嘘の人を生み出そうとしていて、
逆にそのまま草原を楽しく走って生きている方が、
より人らしいんじゃないかと、さえ思えてきてしまう。
彼を助けながら、殺しているような。
でも、愛情が生まれたヴィクトールを見ると、
それは良いことなんだなぁとじんまりと思うのです。
「人はこうあるべき」と良きものを同じ人から教わり
吸収してヴィクトールなのですが、ヴィクトールの最後の「どうしてくれんだ?」と
いわんばかりな眼差しが全てを物語ってますね。

人の良きこと、マナーや礼儀ってそもそも、
どうして見につけなきゃいけないのでしょう?
その人らしい最もな言葉というのは、さぞ便利なのでしょうね。
こうやって思っていることを伝えて、伝わると、それは幸せなんでしょうね。
それを知った人は、けっこうあざといんじゃないかな。
言葉ってそのものが、わりとあざとんじゃないかな。










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