平成最後「キンコサンチ」



















2019年1月より、大仏とカッパのいる干し芋の美味しい町にて、
ただいまと帰れる家「キンコサンチ」の懐かしい1年間が始まります。    

のんびりと過ごせるだけではなく、 町内会イベントへの参加など、
地元ご近所さんとの繋がりを感じられたり
集まった人同士のやりたいことをみんなで応援し合あえる場として、
合宿的にも泊まれるみんなのおばあちゃん家的サードプレイス。


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なんで、こんな場所を作りたいのか? 日記風にしてみました。

















《 日記 》

東京の実家は、今年2月には取り壊され10月にはマンションへと建て変わります。
それは新しくなることの素晴らしさよりも、
大切な何かが無くなってしまうパーセンテージの方が多い気がしてなりません。  
それは個人的な思いプラス、
これからAIがもっと当たり前に生活の中へ、身体の中へ組み込まれる時代に、
人にとって何が大切なのか?という問われる時代が来た時の
1つの答えの感覚でもあるような気がしているからです。

住まうことは、人になにを残すのでしょう?    

例えば、専門店が集まる大型ショッピングセンターは、なんでも揃ってて便利です。
そんな便利なショッピングセンターはコンビニのように全国に増えています。
もっと言えばショッピングならネットで全て済んでしまうくらいです。
人と過ごすある種の煩わしさを感じずに、必用なものが手に入る便利さがあります。
けれど私は、対局にある個人商店や商店街を見つけると
別に欲しいものがなくとも、用がなくとも通ってみたくなります。
ただ聞こえてくる声や、歩いているだけで感じられる人の暮らし。
その空気に、どこかホッとする自分がいたりもします。  
それには単なる消費だけでは得られない空気が確実にあり
それを求めている自分がいたりするからです。

例えば、町並みも。多くの人に良いと認められた場所や町並みは残されます。
残されるということは、ある意味、観光地化されることともいえます。
多くの観光客で賑ってくると、そこはまた「新しく」作(こわ)されていき、
訪れる観光客からの収入が入ってくると、町は消費に目がゆきます。
そして、観光地は大型ショッピングセンターと同じような
どこか、似ている消費的観光地になっていきます。

家にしても、新しくなることは、
もう作ることのでにないものを壊すことでもあります。 
なにか、時代と共になくなってしまうのは、当たり前かとも思いますが、
それは「消費」に関してのことなのでしょう。

今は何も大切さを感じないものは、
無くなった途端に必要性を感じるようになります。
酸素が無くなったのならば「酸素」を大切に思うように、
海が無くなったエヴァの世界では、「青い海」が保管されているような。
「ひそひそ星」の住人にとって大切な「お届け」もののような。

空き家が溢(すてら)れている分、実家的な空気は、
いつか大切に思われる場所なのだと感じています。
だから家の帰るような温かみの在り方を「新しい形」で残せるんじゃないかと。

昔のアルバムを開くような空気を体験できるような、
普遍的な懐かしさをこれからは、自然ではなく敢えて場として作るような、
そんなことって人にとって大切じゃないかなと。
















縁側から猫も見守る中、
そんなことを考え、形にできる1年になればと思います。      







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