「ブータンと幸福論 -宗教文化と儀礼-」 本林靖久
ブータンの人々は、「風は宇宙の息である」という。ヒマラヤから吹き下ろす強い風によって、死者の魂は「この世」と「あの世」を往来するという。したがって、死者を回向する旗であるダルシンも、また遺骨を粘土と混ぜて作ったツァツァ(高さ五センチほどの塔)も、広大な自然に死者の魂が解き放たれるという考え方に基づいたものである。こうした宗教世界観が今日に生きているのは、ブータンの自然環境が大きく影響しているようだ。
死者を回向する旗…広大な自然に死者の魂が解き放たれる…私の理想的なあの世への行き方な気がしてなりません。この世とあの世を往来する。沖縄が好きなのも、その障子を隔てて死がある感覚…という言葉を三線の先生から聞いた時にも「あっ」と思ったわけです。特別なことというよりも、それが日常だよなという感覚を。
各国がGNP神話を信じて、近代化を推し進めた時代に、ブータンは国家(国民)に影響を与えてきた三つの要素である伝統文化の継続、自然環境の保全、仏教世界観の継承を根底に置きながら、GNH(Gross National Happiness=国民総幸福)を国の施策の基本としたのである。
文化の継承と、自然と、仏教の継承。どの3つも、お金儲けの世界では後回しにされてしまいそうなもの。たとえば日本ならば、国民に影響与えてるものはなんなんだろうか。世間(大衆)、村・組合、神事・祭。。。世間ってのも、日本人の性質だろうから、もう1つ目を向けるなら季節だろうか。
ブータンでは、客人を歓待する時に、松は重要な木となっている。例えば、客人を迎えるために、松の若木を休憩所や道路の両側に立てる風習がある。また、青松葉を敷き詰めた特別な場所を設けて客人を歓待することがある。このような客人を迎えるための囲いは「シリゴウ」と呼ばれ、それ以外にも、弓の競技(ブータンの国技)の時、的の周辺を若木で囲む場合の「シリカチュ」、また、病人が出た場合に門前に立てる「ツァムシン」などいろいろな場面で利用され、いずれも悪霊を防ぐために用いられるといわれている。また、子どもが生まれると玄関先に松の若木を立てる風習がある。この松が立っている間は訪問を控えなければならない。そのほかブータンでは、各地の山々に住む山の神を大事に祀っており、子どもが生まれたら何日目かには必ず山の神に捧げものをし、旅に出る前にも山の神にお参りをするという。このような大切な行事や物事を行う前には、土で作った香炉(ブンパ)に、香り高い松葉や杉の葉を燃やし、その白い煙を天に捧げるという。こうした香(サン)を焚いて、身を清めることを「ハプサン」(「ハ」は「天」の意味)という。このように松の木は宗教儀礼や民俗において重要な意味をもって利用されている。
日本でも松は、門松で縁起物で馴染みがありますが、松竹梅で松は上のグレード。松葉杖ってのも、木がしっかりしてるから頼れるってことなんでしょうか?そして、サン。(バルサンを思い出してしまいましたが、由来は全く違うみたいですね) 毎日の始まりが、ブンパの松の香りといった、上へと捧げる行為からからはじまる習慣を、長年夢見てるのですが…その習慣は、日本であれば故人に対して仏壇に手を合わせる「死」となるわけですよね。私はもう少し大きなもの、それこそ自然そのものの畏敬の念に対して焚きたいわけで、それって日本でいうと…あるんでしようかね。神棚へ向けての柏手、榊や御神酒なのでしょうか。拍手…
少しの切れ目もない密林、材木はまるで電柱のようにまっすぐに上に延び、冠に青黒い硬い葉を原間もなくつけている。全部常緑講楽樹だ。(中略)樹木の大部分は常緑性のカシの木だ。(中略)そうだ、これは全く日本と近い親類の森林だ。植物の種類でも、森林の成り立ちかたでも、日本と全く共通する。日本の国でも中部以南の地域に残った原生林を見ると、このブータンの山地の森林にそっくりだ。これは照薬樹林と呼ばれる形の森林で、東南アジアの温帯の南部にだけ見出される特別な森林である。たとえば奈良の春日山の森林は、そのままブータンの照薬樹林そっくりともいえよう。日本では今は残り少なくなった照葉材林が、ブータンの国ではインドとの境の山地を隙間もなく埋めているわけである。(中略)日本の太古、石器時代には日本の南半分はこの照葉樹林に一面におおわれていたことであろう。われわれ日本人の先祖はこの照葉林の中に入り込み、鹿やイノシシ狩りをしたり、水辺に小さな水田を開いて国づくりを始めたに相違ない。われわれ日本人が先祖から受け継ぎ、発達させてきたいろいろな生活のおくりかた、慣習などは、われわれをつつんできた照葉樹林と深い関係があるにちがいない。私は南ブータンの果てしなく続く照葉林の中を進みながら、心の中では数千年前の日本の光景を追っていた。
今枝由郎氏によれば、東ブータン人の日常生活・生産様式のなかには、照葉樹林帯の人々に共通した要素が多く見られ、日本人がブータンに非常な親しみを感じる理由の一つがここにあるという。
照葉樹林の文化・・・!すごく気になります。”東南アジアの温帯の南部”というのも、私が心地よく、そしてここで衣食住を過ごしたいと思えるエリアに近い気がします。屋久島、沖縄、宮崎、インド・・・。一体どんな文化なのか調べたいと思ったら、宮崎の山奥に照葉樹林文化館なるものが…!これはいかないとですね。東京都の御蔵島といった島々にもあるのだとか、東京の島々は全くの未開拓です。
…ブータン政府は母国語回復のためにゾンカ語促進委員会を組織し、英語をゾンカ語に翻訳する作業を行っている。例えば、air pollution (大気汚染)という言葉は、そのまま英語で表現されてきた。そもそもブータンには大気汚染がなかったこともあり、ゾンカ語にはない言葉であった。ゾンカ語に訳すために、仏教的な穢れた空気(ディクルン)とするか、日常的な清れた空気(ツォクルン)とするかを委員会で議論し、ツォクルンとして新たなゾンカ語を公示していた。ゾンカ語促進委員会の事務局長サンゲー・ドルジ氏は、「今、ゾンカ語を回復しなければ、ブータン民族は亡びます。ブータン人の自主独立のためにそれは非常な脅威なのです。」
これはすごい取組。でもこれは、日本では福澤諭吉や森鷗外などの翻訳家たちが、ソサエティー →社会、リバティー → 自由、コピーライト→版権、バンク→銀行などと、明治維新後の近代化が進む日本で、自国の文化が土足で荒らされないよう必死で食い止めていた ( という表現で良いのかどうか )のを考えると、1万円札になっているのも本当にありがとうという気持ちでしかないです。「ヴ」を作ったのもの福澤諭吉だとはすごいですね。日本で作られた漢字「峠」も、きっと日本にはアップダウンのある山が多かったから生まれた漢字なんでしょう。いかに言葉で私たちは世界を認識して”しまっている”と、思うと、ほとほと嫌にもなります。
子供が生まれると、生後一ヶ月くらいして名前を決める。これは僧侶によって命名してもらうのが一般的であり、仏教的な意味をもつ名前が多い。例えば、私が出会った男性には、ソナム(功徳)、ツェリン(長寿)、ドルジ(金剛)、キンレ(すべてに優れた)、テンジン(仏法を保持する者)、サンゲー(仏)などの名前があり、また女性には、ラモ(女神)、サンモ(善良な)、ワンモ(強い女)、ドルマ(ターラ尊)などの名前がある。語尾にモ(mo)の字が付く名前は、女性と考えてもよいそうであるが、名前には男性用、女性用の区別がないという。一人で二つの名前をもらったり、改名したりすることもある。これは病気になったり、悪いことがあったりすると別の名前をつけてもらうせいである。また、成人になっても、[年などに一時的に別の名前に変えることもあるという。プータン人の名前で理解しにくいのは、名前がすべて一人一人の全く個人的なものであり、姓がないということである。つまり、一家族が同じ姓を名乗る習慣がなく、名前から親族関係を判断することはできないのである。したがって、結婚しても名前が変わることない。そのため、パスポートを発行する場合は、ドゥックパを姓のかわりに付け足して、二語の名前にするという。ドゥックパは「ブータン人」という意味である。
前項にピックアップした部分とも通じる話。“ブータン人”という性。パスポートの表記例の山田太郎的な、個人とは真反対な。そして、誕生日もない(みんな1/1らしい)というのも、なぜ、個人をそこまでお祝いしないといけないんだろう?って思っていた私としては楽な感覚です。誰かと会っても、そこまで名前を気にしなかったりもします。みんな人と、お互いに分かっていれば良いかなという。
ブータンでは男根のことをポーという。新築祝には近所の人々を招いて振る舞いをするが、その時に、木で作った男根を女性が担ぎ、新居の周囲をまわり、最後に軒先に吊すという。軒先に吊されるポーには、木製の剣が十文字に括られている。また、村の入口、民家の門口、田畑には、カラムシンと呼ばれる上部が逆三角形の形をした木が立てられている。そこにもポーが取り付けられている。ブータンの人々はこれらの行為の意味を、魔除け、豊穣や幸福をもたらすものとして受け止めている。
ブータンのみなさんにとっては、卑猥とか、猥雑みたいな言葉ってないのかもしれませんね。なんで、そういう性行為がどこか秘め事のようになったんでしょうね。夜這いがまだ村々の習慣として当たり前だった時代から…電気が生まれて、暗くすることが意図的にコントロールできるようになってからなのでしょうか。その夜の街みたいなイメージが生まれてきたのは。普通に考えてみても、輪廻転生するのは物理的に、男女の交りからなので、、、自然と暮らしていれば人は増加するもの…のようにも思いますが、近代化、経済が回る仕組みそのものが、出生率を下げる?要因にもなってるような…感覚としてですが。
六道輪廻図の外縁部には十二縁起を象徴的に表す十二の場面が描かれ、この世の人生における定められた運命が説かれている。外縁部の上部から右まわりに、①盲目の老人(人のおろかさ=無明)、②糖戦をまわす姿(人生は輪廻を繰り返す=行)、③物を取ろうとするサル(欲望をもつ人の心=識、@波間の船に乗る姿(人生のはかなさ=名色)、⑤誰もいない家屋(人生のむなしさ=六処)、⑥男女の愛し合う姿(男女の東の間の愛)、⑦目を矢で射られる姿(人生の苦しみ=愛)、⑧師に教えを乞う姿(人生の湯愛=愛)、⑨木から果実を採る姿(尽きることのない数着=取)、⑩床を同じくする男女の姿(人生の愛飲=有)、⑪出産の姿(人は生まれ成長する=生)、⑫旅をする姿(人はやがて老いて死に至る=老死)が描かれている。このような縁起を通して、人々はこの世のはかなさと苦しみを知り、そこから解放されることを願うのである。このように六道輪廻図は、三匹の動物が車輪をまわし続け、円環する時間を象徴し、この世における誕生から死に至るまでの「苦」と、その後の死から再生に向かう「魂」の行き着く場所を具象化している。それは単に「この世」から「あの世」へといった一回限りのものではなく、六道の世界を絶えずまわり続ける構図のなかで、人が「永遠性」のなかで生きているということを説いている。ブータンの人々はこの輪廻図を日々目にすることによって、善因善果、悪因悪果の理を学ぶとともに、人として生まれた以上避けることのできない道行きへの準備を生前からしているのである。
このような世の儚さと苦しみ…!人として生まれた以上避けることのできない…。六道の1つの世界として生きたことはない私ですが、そう人はどうしようもなく、おろかで欲があり、むなしく愛にも溺れ、置いて死んでゆく。そういう今生だと、決意ではなく見えない何かしらの宇宙的に外因からの、ある意味の達観をしてみれば、ほんに、やることなど、悩むことなど、そんなにないかもしれません。ただ、日々を過ごす。いかにそれが難しい・・・でも、そういった向き合える課題があるというのは、この人間界の苦しみであり、唯一の助けでもあるのでしょう。
…チャムの演目は、三十分ほどのものから、三時間近くも続くものまであり、それらがツエチュの期間中は朝から夕方まで演じられている。そうしたなかで大人も子どもも飽きることなく見物できるのは、ひとえにアツァラ(道化)たちの果たす役割が大きいといえる。アツァラたちは祭りの司会進行役を果たしながらも、演目と演目の合間やさまざまなチャムの踊りのなかで、ひょうきんな仕草で人々を笑わせ、祭りを大いに盛り上げる。パロ・ツェチェでは、三人のアツァラを村人の青年が演じている。彼らは祭りの式次第やそれぞれのチャムの踊り方までも習得しており、祭りを円滑に進める役割を担っている。その一方で、男根型の木の棒(ポー)と腹部がくびれたデンテン太鼓をもって若い女の子を追いまわしたり、観客の弁当でその年の吉兆を占ったりしながら、観客と舞台を結ぶ役割も果たしている。アツァラがポーを女性の頭に載せると子宝に恵まれるといわれているが、このような一見、卑猥な行動で観客を楽しませるアツァラは、ツェチュにおいて重要な役割を果たす司会進行役である。ブータンのどのツェチュにおいても、聖職である僧侶ではなく、村人の青年が演じている。したがって、この祭礼の成立過程において民俗の仏教化を読み取れなくもない。
このようなツェチュの祭礼には、見物人たちは精一杯着飾って出かけている。なかには人から借りてまで、立派な着物や装身具をつけて見物に行く人もいる。特に若い男女にとっては、ツェチュはお見合い大会といった様相を呈しており、ツェチュ以外には村や地域の年中行事の少ない村人にとって、男女の恋愛の場として大きな役割を果たしている。
…こうしたチャムには、もともと土着の宗教があったところに、新しく入ってきた仏教が、土着の要素すべてに仏教的な意味づけをし、仏教のなかに取り込んで体系化した姿が見てとれる。
そう、ムラの中のクミアイの若者組のような若い男女が集まれるシステムは、どんな地域であれ、祭や習慣として、生活に楽しく必ず組み込まれているんじゃないかと今のところ思う。それは動物的な本能から生まれた効率的な生存戦略のようでもあり、人としての本領なんではないでしょうか。子どもという枠組も大人という枠組も、社会の制度として必要とされない曖昧な世界がもし元来ならば、男根型の木の棒で若い女の子を追い回したりするのは、大人だからといって、子どもだからといってということもなく、おじいちゃんも雪合戦に夢中になることと同じで、きっとお互いに楽しいし、嬉しいですよね。
元々、土着していた宗教とも融合しているあたり、仏教は、世界的な流行りだったんだと感じました。流行ってる簡単なものも、大きく心を動かし、うねりとなって何百年にも渡って人々を魅了していけば、それは宗教になる。その強靭な外圧を恐れて、徳川の江戸幕府はキリシタンを徹底的に弾圧した訳だし、北条時宗も元寇からの使者さえ殺してしまった。私たちの文化はその多様な深度のある流行りの中を泳いでいると考えると、この世界は見えない伝染で成り立っているのではないかなぁー。
ブータンの葬制は基本的に火葬による弔いである。しかし、疫病や不慮の死の場合は火葬にはせず、土葬となる。これは悪い煙を出させると天の神によくないからだという。また、乳児は箱に入れ、おもしをつけて水葬にし、魚にたべてもらうという。子どもは鳥葬にすることもある。
臨終後はすぐに家族が身体を清め、僧侶によって、遺体から魂を抜くポアの行を執り行う。遺体は魂を抜いてしまえば、あとはボロ同様の扱いとなり、悪霊が入らないように近所の人たちが布で体を縛って部屋の隅に置いたり、両膝の間に頭を入れて木箱のなかに入れ、戸外に置いたりする。家によってはすぐにポアが行われ、死体を屈膝の座形にして入棺し火葬の準備に入る。
何よりもブータンでは、亡くなった人は絶えず輪廻し生まれ変わっているので、亡くなった人をずっと供養することは意味のないことなのである。
これは日本人からすれば、非常にあっさりとした物足りない葬制かもしれない。しかし、前述してきたような輪廻の考えに立脚した仏教の葬制としては、この方が道理にかなっているように思われる。人は、死後四十九日のうちになんらかの形で、次なる世界で新しい生を始めるわけである。今しがた終えた生だけが、ことさら大切なわけではなく、この世での出来事は長い輪廻という時間のなかの一コマにすぎないのであり、その一コマにのみことさら執着する必要はないのである。人の死に際して、遺族が唯一できることは、故人にかわって、できるだけ多くの善業を積み、それを故人に回向することによって、故人が少しでもよりよい境遇に生まれ変われることを願うのみである。
遺体から魂を抜けばボロ同様。。。如何に日頃、私たちが外見に価値を見出すことを常識として、振り回されて生きているかを感じます。けれど、ここと同じ感覚は、日本人ならば ”燃えて骨になってしまった時”でしょうか。「焼けてる!」と、言いながら時折、荼毘に伏しナウの近親者を覗き込み (火葬場の人が見せてくれた記憶が) ながら、火葬中に食べるお弁当には、もう悲しみは軽減された味がして、それでも冷たいお弁当は、その時の感情をとても上手く表現していたりも。「あっもういないのね」と、けれど、いない時にも「ある」ものへ手を合わせるのは、墓石があって、位牌があって、神社という形を生きている私たちが残させているから。ツァツァのように風化することで消えていく様、水葬や鳥葬で自然と輪廻転生して生きてゆく様は、今生のみにおいての心の拠り所を求める者には、耐えられないトラウマな風景としても映ることでしょう。私たちが鳥であり水であり巡っていくことが、世界の姿の1つであることは、男がいて女がいて、生があって死があると相対的に見てみても、直線的ではなく循環的と捉えること割と腑に落ちる部分があります。
そのなかで柳田は、日本人の「生者」と「死者」の関係を次のように捉えていた。人は死んでのち、遺族の行う死者儀礼によって「ホトケ」から「カミ」になる。「カミ」になるのは、三十三年とか五十年たったトムライアゲののちであり、その頃には死者についての「個人」としての記憶が浦え「先祖」として集団化される。
そして、先祖の霊は、村落の近くの山の頂きにあって、そこから子孫の暮らしぶりを見守っている。その霊はまた、村落の守護神である「氏神」とも同一視される。しかし、先祖の霊はまた、家の仏壇や神棚、寺院の位牌所や墓地にも存在して、正月、彼岸、盆などの行事の折には、子孫による祭祀行為を受けていたのである。「集団化」された死者の霊は、したがって、誰が誰に生まれ変わるというような個別のものではなく、家を単位とし村落を単位とした、集団から集団への「再生」だと考えられる。それは、家の墓をもちながらも村落の共同墓地のなかに個々の家の墓が定められることや、新しく生まれた子は、生後三十日前後に「氏神様に見せて、氏子入りをさせてもらう」という初宮参りの習慣からも見てとれる。
こうした背景にはわれわれが現在生きていられるのは、すでに死んだ先祖たちの有形無形の力によるものだと考え、先祖たちは、彼らが生きている間は耕地を開き、灌漑用水路を築き、山に木を植え、井戸を掘り、営々と働いて生存の手段をわれわれに残し、死後は、「ホトケ」あるいは「カミ」として、さまざまな災厄からわれわれを守護してくれると言じてきたからである。そのことによって生きている者は、すでに死んだ者の存在を忘れず、「カミ」となった先祖に対しては正月や氏神の例祭で、また、未だに「ホトケ」としてとどまるものに対しては盆や彼岸、そして年忌法要を執り行ってその霊を慰めてきたのである。
柳田の指摘する「カミ」観念は、村落共同体を構成する「家」を基盤として成立するものであり、「家」を守り続けていくこと、柳田流にいえば「家永続の願い」が存在しなければ、子孫に引き継がれてはいかないのである。そこには柳田が『明治大正史ー世相編ー」において、「我々の祖霊が血すじの子孫からの供養を期待していたように、以前は活きた我々もその事を当然の権利と思っていた。死んで自分の血を分けた者から祭られねば、死後の幸福は得られないという考え方が、いつの昔からともなく我々の親達に抱かれていた。家の永続を希う心も、いつかは行かねばならぬあの世の平和のために、これが何よりも必要であったからである」と述べているように、日本人の死後観としては、子孫によって祭祀されることによって死後の安定した世界が獲得されるという観念が存在しているのである。
ホトケからカミになるまで、33年、50年。これは私たちがそうしたいと願った、こちら側の都合もあるようにも思えてしまうわけですが、ここもまた、ブータンとも同じく日本独自の元々土着にあった宗教とのミックスされた宗教世界の数字なのでしょうか。長い方が、故人を忘れないでいられる。そのことが生きている私たちにとって都合の良い文化である。と、私は至極直感的ですが、そう思うわけです。
大勢の親類と一堂にする機会って案外、冠婚葬祭しかない。縁が切れて、それっきりになってしまわないようにと、33年と50年に根付かせていたというか。。。そして、襖を取っ払えば広く使える和室。いつでも迎え入れることのできるお膳一式 ( 組合単位での貸し借りもあったそうですが) 。家父長制を援護する形で、慰霊と家の暮らし方までもがセットになった仕組みなのかと。
ある意味で、生まれた時からそういう宿命というのは、ブータンもまた違った宿命ですが、日本もブータンと同じようにゴやキラの着用義務、建築物の規制を厳しく守り続けることが出来ていたら、本来のお宮参りの意味と、お食い初めの意味も、形骸化することはなかったのでしょう・・・ね?SNSというのは、形骸化のプロかもしれません。そのSNSにもまたSNSなりな文化があるわけなので、そこを否定する気もなく「いいね」を押しまくってますが。
しかしながら、ここ数年のブータン人の生活を一歩引いて抽象的に論じると、「籠のなかに暮らす鳥」のように感じてしまうこともある。以前は、籠の四方はヒマラヤの山河に囲まれ、籠のなかで幕らすブータン人にとって、遠景であるヒマラヤの山河に、籠の柵(国の伝統政策)となるゴーやキラといった民族衣装やブータン建築、ゾンカ語の使用や伝統的礼儀作法といったものは、違和感もなく調和し、柵が他の社会の文化や価値観を遮っていることを意識せずに生活していた。そして、ブータン人の生き方を支える基盤(精神世界)は、宗教文化であり伝統文化であり言語文化であった。特に宗教文化に支えられている部分は大きく、その宗教文化とともに、遠景でヒマラヤの高峰が神々の座として、自然と宗教が渾然一体となった宗教世界観を作り上げ、自然と共生する生き方に豊かさを見出してきた。ところが、その籠のなかに、ヒマラヤを越えて西欧の価値観を伝える小さな受像機(テレビ)が入り込んできた。この受像機によって、ブータン人は籠の外の世界の出来事を知り、外の世界に関心をもつようになった。また、この受像機は情緒性への強い訴求力があり、外の世界のモノに憧れを抱かせるようになった。この受像機の導入に際して、飼い主(国王を中心とする政府)は、ブータン人の伝統的で平和な生活が乱れてしまうという理由から、最初は禁止した。しかし、他の社会では当り前となっている受像機の導入を抑えることはできなかった。そこで、国王もブータン人を支える精神世界の再教育に力を入れ、伝統に支えられた精神的な豊かさの大切さを訴えた。さて、近景にある受像機を必死に見ていたブータン人は、ヒマラヤを越えた外の世界に関心をもち、改めて遠景を見ると、今まであまり意識しなかった柵(国の伝統的政策)が自分たちの目前に立ちはだかり、自分たちが籠のなかで生活していることに気づいてしまった。ブータン人は、今、伝統文化が重く伸し掛かっている状態にある。そんな風に私には思えてしまう。伝統には、それをなお続けたいという漠然とした価値判断が含まれ、その人間の行動を規制する意味合いをもつ。そこには、われわれは「ブータン人である」というアイデンティティを根拠付けるために伝統が用いられているように思われる。ブータンでは、特に開国以降に伝統文化を重んじる政策が推し進められている。近代化に向き合った時に、そのアンチテーゼ(対立する意見)として伝統が発見され、伝統を守ることが、近代化にブレーキをかける方策となっているように見える。しかし、実は、伝統は近代化と共存可能なだけではなく、近代化の所産と捉えることが可能である。ブータン人にとって、伝統的生活に幸せの基盤を置くことは一つの選択ではあるが、近代化と無関係に伝統を固守するのではなく、ブータン人としての精神世界(宗教世界観)の継承を見据えながら、いかに「伝統の創造」を成し得るかが、今後、重要な問題となっていくのではないだろうか。
“伝統を守ることが、近代化にブレーキをかける方策となっているように見える” 。文化を守るその”文化”という理解、関わり方が、石のように頑固として動かない過去の存在を指すとするのならば、確かにブレーキとなってしまいそうです。着物を着なきゃいけない、茅を葺かなきゃいけない・・・というような、ブータンではすでに義務化されていることの日本版なんて施行してしまった日には。その点、日本はもしかしたら、きっと昔から、すごく巧みに文化を変化させて経済を回しているのかもしれません。流行の中の大流行中の大流行が定番として文化になるのであれば、どんどん流行りを作っているような、、、、。七福神の宝船にハロウィンのかぼちゃの乗せて八福神なんていうポスターになっても、そもそもインドも中国も混ぜこぜに同舟しているから、あんまりなにも言われないでしょう、きっと。
また、前述してきたように、この数年間でテレビを通して大量の情報がブータン人に流れ込んでいるが、国王はかつて「欲望は人間が受け取る情報量と比例して増大する」と語ったといわれている。確かに西欧の近代化の産物である大量の工業製品、物質的な豊かさをシャワーのごとく浴びた時、ブータン人の欲望は増大せざるをえないであろう。欲望と幸福の関係を論じた井上信一氏は、幸福の定義を、上記のように表しだ。それによれば、西欧では増大する欲望を財を増やすことで満たし、幸福を得ようとする。一方、東洋では、あるいは仏教の考えでは、欲望を抑えて、僅かな財で幸せに暮らそうとする。ブータンでは、近年、仏教による「宗教復興(仏教ファンダメンタリズム)」の運動も見られるようになったという。国家を一つの僧院と見なし、より禁欲的な行動を求めていくとともに、国民の幸福に繋がることを国家が援助しようとする動きである。これは寺院における社会福祉政策といった発想である。個人や国家による慈善事業や精神論はもちろんすばらしいことであるが、人が幸福になるには、まず自らが願うことが大切であり、幸福は人から与えられるものではないと思う。かつての福祉の発想は、貧しい人を金銭的に援助し、病の人に薬を与えるものであった。しかし、現代の社会福祉は、貧しい人はなぜ貧しいのか、個人の問題としてではなく、社会問題として捉え直し、仕事に就けるようにするなど、その人を取り巻く社会環境を整えていくことを考える。あくまでも、幸福に向けて「自らの手足で」立ち上がろうとする人に対して、環境を整備するという方法で社会が援助していくことが社会福祉の発想となっている。ブータンでは、国家を挙げて幸福であるための環境を整備している。その環境のなかで、いかに国民が幸福を見出していけるのか。その考察がもっとも重要な点であったが、まだ先は見えていない。
この書物の序章でも述べた文化人類学者のレヴィ=ストロースは、「西欧文明至上主義の終焉|人類学の役割」という講演の最後において、「人類学の第一の教訓として、私たちは次のことを教えられるのです。すなわち、私たち自身のものに比べて、どれほど衝撃的で非合理に見えるものであっても、それぞれの社会の慣習や言仰は、ある体系を成していること、そしてその内的均衡は、数世紀をかけて達成されたものであり、たったひとつの要素を除くだけでも、全体を解体させる危険がある、ということです。たとえこれが人類学のもたらす唯一の教訓であるとしても、それだけで人間についての諸科学、そして社会のなかで、人類学がますます重要な位置を与えられることの充分な理由となることでしょう」と語っている。何よりもブータンのすばらしい文化が損なわれることなく、豊かな自然と調和のとれた未来が築かれることを願わずにはいられない。タシ・デレー吉祥あれかし。
“たったひとつの要素を取り除くだけでも、全体を解体させる危険がある”というのは、同書の中で出てくる、それぞれの物質を1つの素材として寄せ集めて適宜使用する代替可能なブリコラージュ的ではなく、絶対的に必須な資材を全て完璧に取り寄せて構築していくエンジニアリング的ですが、私は文明や文化、習慣は案外、長い歳月をかけて滴り落り落ちた鍾乳洞の石筍のような形成の仕方とは異なり、飲み物や食べ物で細胞が変わり、やがて外面も変わっていくような人間そのもののような築かれ方なんじゃないかなと・・・( って、レヴィストロースさんに言えるわけもないですが ) 。だからこそ、変容していくことが前提でありつつも、その変容の進み具合、内容を私たちがどう方向づけをしていくかというところで ” 国家を一つの僧院と見なし、より禁欲的な行動を求めていくとともに、国民の幸福に繋がることを国家が援助しようとする動き”は、オーストラリアへと若者が出稼ぎに流入していく2026年現状の今では、ゲレフに一国二制度のマインドフルネスシティーという、世界中の大手企業を誘致して、経済成長と雇用の創出を目指す特別行政区を作っている最中だとか。。。これを聞いたときに、私はブータンからこれからを生きるためのヒントを・・・と思っていたところ、ブータンもこういった成長をさせていく方向なのかと思うと、ちょっと残念な気持ちがしたのでした。






