「日本若者史」 中山 太郎
長野北佐久郡の各町村では、江戸期から明治初期まで若ィ栗仲間一定の年齢を以て入退する例證といふ國體があつて、男子は十五歳になるとその仲間に入り、三十歳位まではこれに馬する定めであつたが、明治二十年頃から若々楽なるものが崩解して来て、同三十年頃に現在の青年會となり、それと同時に年齢の慣習は改められてしまつた。同豚下高井郡でも、昔は満十五歳から三十炭までを若者連と称し、機族者で無い限りは、長男も次男も皆これによつて入退したものである。山形豚南村山郡東澤町大宇妙見寺は、古く氏神が妙見社なので村名にまでなつたのであるが、毎年、大晦日には若者講とて若者が村中から寄附を集め、清酒と甘酒とを大桶に用意し炭取の祭を行ふ。此の時十五蔵になつた村内の男子は、各々も酒一升を持参して此の講中に加入し、その後は少年を一人前の男として待遇する。福島石川郡地方でも、昔は男子十五歳になると前髪を剃り。髪を揚け、同時に若々栗の仲間に加はるのを常とした。そして此の二つには脱退の年齢が明記してないが、恐らく或る定められた期限が来ると、脱退したものと見て差支ないやうである。
石川際鳳至郡には古くから若連中、又は『連判』と稱した圏があつて、男子は十五歳でこれに加入し、四十二歳で脱退するのを各町村の提としてみた。若し此の連判に加入せぬ者があると、交際を絶つのを習ひとした。富山縣下新川郡地方にも。昔から若衆仲間のがあり、男子は十五蔵になると必ずその仲間に加はり、仲間酒を出して土地における社交園の一員となることを不文律としてみた。就中、才覚ある者を推して若者頭とした。愛知西春日井郡の各町村では、同じく男子十五歳で若ィ衆の艦に入るが、その時は披露として酒食費を支出することになつてみた。群馬群馬郡惣社町でも男子十五歳に達すると、春季の若菜の合合の節に、酒一升を持参してその仲間に加入した。面して以上の三例には共に加入の年齢だけを記して、脱退の年齢に就いては明確を練いてあるが、これにも定年があつたものと考へられる。三重名賀郡地方では、男子は十七八になると、俗に大人ズと移して、玄米五を村内に出して加盟し、二十五歳になると中老となり、若者團の正員たることを許された。徳島熊三好郡山城谷村では、昔は男子十五歳になると、一人前の人間として二歩役といふのを課せられた。そしてこれと同時に若イ紫役を負ふことになつてるた。見島の種ヶ島では毎年正月七日に、十五炭に達した男子は、=サイ入とて若菜イ組に加入する。祝ひ酒として一升を出すと、ニサイ栗の先輩から木綿の六尺鼻補一本をる(中山日。成年の標識として鼻棚を用あることは、相富に意義の深い土俗なのである。
我園に古く男子の成人式が行はれたことは、前に引用した「最行紀」及び「紫峻紀」の記事によって、や明白に知ることが出来るのであるが、然らば出の標識として並名を改め、結髪を愛へたいけに過ぎなかつたか、それとも割禮(男子の性器に施術する土俗)といふことが基調となつてゐたか、それに就いて考へて見たいと思ふ。面して私は顔る速断ではあるが、古く我國にも割識の土俗が存し、これが成人式の原始の機であって、然も最も手重き儀式になつてゐたものと借じてるる。先年、留県博士足立文太郎氏は、東京人類興合雑誌(第一六一歳)において「本邦人陰茎の包被に就いて」と題し、大要左の如き意見を愛表されたこのとがある。
過去にあったことのある知人の数名は、祝いの席に、一升瓶を持ってきていたのだけれども、その一升瓶の役割というのは、やっぱりあるもんなのですね。そして、割禮。宗教的に見てもイスラムでも、ユダヤ教でも、生後間もない8日目か、年少期に、今でも儀式ししてやっているようで。そういう話を聞くと「ケジメ」というか、果たして私たちはいつから大人になったのか?大人とさせられたのか?が、ぼんやりしている今とは違う、明確にこの日から、というのを自認ができるなら、自ずと振る舞いは変わるだろう。今では「成人式」という形式だけが、より幼く残されていて、あれは単にここから公然とお酒を飲めるという、ある意味で大人の仲間入りなのだけど、通過綺麗としてせめて泥酔すればいいんだろうか。
先に伴はれて同国の感染である金北山に登り祭州を拝し、山中の石楠木の枝を折り取り、協途には、英こへ出て自緒の草履を求め、この二品を家となし又親族へも配るが、これで元服が済んだのだと云ふてある。猫は明治初期までは、此の際に若者は夷港で遊女を買ふことが大切な行事となつてみた。元服の夜に女子に接することが、條件となつてみた例置は、古くから魔く存してあた習俗である。平安朝に書かれた「源氏物語」や「大鏡」などを見ると、貴族の方方が元服の夜に、必ず『副臥』とて婦人を近づけたのはその一番で更に山形西田川郡袖浦村大字黒森では、男子は十五蔵で大人となるが、それには女子を知ることが要件となつてるて、その折は父兄または雇主が本人を連れて妓に赴き遊ばせる。これを俗『お位受け』と云ふてみる。即ちかくて一人前の男となり得たといふ意味である。沖縄那覇市でもつい近年までお態の間には、男の子が十三歳になると完服式を基けたが、その夜は父親が子供を伴ふて里に出かけ、超越を買はせるのが習俗となつていた。奈良県の名山である大峯怒りは、その昔は御嶽精進とて千日の精進潔齋を要すると云はれたほどの神聖のものであつたが、後には上市町で精進あけとて、殊に男子十六歳となりて初めて参加した者は、これを運行した先輩が女郎買をも教えたものである。
我國の名神・大社の悪くが、殆ど言び合せたやうにその附近に遊廓を有してゐる一理由は元服が社前で行はれ、又は元服後に社参した折に、遊廓を利用すべき必要があつたので、かく神社中心に花の花が咲き誇つたのではないかと考へるのである。
私の生れた栃木際足利郡地方では、村々の若者連の加入の儀式は、極めて簡單なものであって、僅に商正月二日(北の日を議初めと稱し、村の初寄合ひであつた)に、清酒一升と豆腐一槽とを身祝ひとして持参すれば、それでその日から若者の資格を得たものだとへられてるた。然るに此の簡単に引きかへて、相應に面倒な手織きを要する所もある。富山下新川郡地方では、男子十五六歳になると、必ず立山に鎮座する雄山神社に参詣しなければ、若菜仲間へ加入するを得さる復習となつてゐる。それ故に此の年輩になると競ふて登山するが、その途に就くや、父母たる者は朝夕にこれが成功を祈り、歸へるにあたりては、盛装せる乗馬を仕立て、我が子を迎へ家に着けば親族故善を招ぎ、餅を揚き宴を設けて脱意を表し、それより若イ衆仲間に加はるのである。而して此の土俗は、前に載せた佐渡の若者の習禮と、全く共通の思想から來てみることが知られるが、更にこれに類似した土俗は、遠く離れた奥州にも存してみる。即ち青森駅津軽地方では、男子が十五六歳に達すると、その年の八月期日から十五日までの間に、お山詣と稱して岩木山に登り。神社を拝することになつてゐる。初参りの者は七日間斎戒し、水垢離をとりて身心を淨め、略品を持し淨衣をまとひ、一斉に敬虔の間に登山する。途には烏帽子と優面とを被りて、異装をなし、口々に「よい出かけた」と数露しつ~家に戻る。郷聞の人々は酒着を選し、笛太でこれをするのを例としてみる。此の記事には登山参社が、元服の意味とも若者入の準備とも明記してないが、俳しながら揚の富山や佐渡の土俗から類推し、更に防途に烏帽子を被るのは、服を烏帽子着と稱したことから考察するも、直接間接に若者連加盟に交渉あるものと見て差支ないやうである。
意味もわからずとも、こういったことを真剣に、しかも大人側が真剣にやること、続けていくことは、とても大切だと感じる。わからないけれど、目に見えないもの、、、そのわからないものに向き合っているくらいが、ちょうどいいと思う。人生の中での、割り切れないものをそのままに生きていく上で、そして恋愛をする上でも。
全置、現今でもさうであるが、昔時はそれにも増して、外來者を「御處の馬の骨だか知れた者ではない」と、白い眼で見るのが習はしとなつてるた。交通が後達し文化が暢茂した現時でこそ、村落と村落との感情も融和し、共存共栄といふ思想も抱されてるるが、つい百年ばかり前までは、各村落とも殆ど利害を異にしてるて、敵同士でないまでも決して味方同士では無かつたのである。神が他村の者を忘むと同じやうに、人も他村の者を嫌つたものである。田畑の悪島害をふ鳥追ひ駆けも、自村の境から他村へ送り込むのが常であり、時疫の流行とあれば俄に躍りを催ふし(今に限りの事を石和賀といふのは、此の遺風だと聞いてるる)、薬で排へた人形に疫神を封じ込め、鐘や太鼓で囃しながら、自村の境から他村へ流してやるのを営然とした。此の外に端千の石合戦、田植時の水事ひ、洪水の折に行はれた出の崩し合ひ、秋季に要けられた他村と手間して、一年の豊因を占ふ網現祭や喧嘩祭などの種々なる神事は、村々の開係を決して固満に導くものではなかつた。他園人または他村人に接した~めに、奇病に罹つたと云例は、全く迷信の沙汰ばかりでなく、史上の事質として明されるところである。大きく言へば梅毒もコレラもベストも、他園人に接したために起つた病で、小さく言へば流行寒冒も流行も、他村人に接した~めに起つた病気である。それでも眼に見えるものなら、悪島にせよ害識にせよ、追ひ携ふことも出来るが、これ等の眼に映らぬ時疫その他の災を継ふには、神や佛の力にたねばならぬので、村々の入口には塞が意味の鶏の触が祭られたり、悪魔除けの質竹が建てられたりするのである。
住んでは家柄と金が第一であり、村の歴史と共に古い者が算ばれたのである。同じ理由から他村から来た養子や嫁は、村内の養子や嫁とは違つて見られ勝ちで、例へば養子に来て若イ楽の仲間に入れて貰っても、いくら利口な男でも大口をきくは愚か、散々に苛められるのが常であつた。昔の事であるが、安曇の一日市場では、養子は初めての銀守の祭には、大きな提灯を背負されて、楽人環視の中を守まで歩いて行く、村の者は口々に「養子」だの「養子の馬鹿」だのと云つて悪態をつく。その揚句守の歸りには、若イ衆から水をかけられ、泥を投けつけられなどして、散々の目に合はされた(中略)。また安の氷室の御大師講には、他村から来た新しい準や嫁が、御馳走攻めにされるのである。これは「おしえ/(お温ひ)と云はれてるる通り、新翠新嫁に食べきれぬほどの御馳走を強ひて、若し食べ過ぎて死ぬものがあれば、その年は豊年だと云ふのである。これを「しえ殺し」と云つた。だから他村から来た新や新嫁のある家では、その時期になると何とか理由をつけて、翠や嫁の里へ歸したので、後には旅の者を拉へて、御馳走を混ひたものであり、更に後には乞食を捉へて来て、さうしたものであると云ふが、最後に乞食が殺されたのは、明治の初年のことであると聞いた。これなどは供機の観念が含まれてゐるのか、或は更に他の意味もあるらしいが、犠牲となるものは、自分達の村の者ではなく、他所者なのである云々(以上。民族、第三第二號)。
「神が他村の者を忘むと同じやうに、人も他村の者を嫌つたものである。」
「大きく言へば梅毒もコレラもベストも、他園人に接したために起つた病で、小さく言へば流行寒冒も流行も、他村人に接した~めに起つた病気である。」
「例へば養子に来て若イ楽の仲間に入れて貰っても、いくら利口な男でも大口をきくは愚か、散々に苛められるのが常であつた。」
これは今での時代でも「新参者」「新入社員」「新メンバー」なんかが、のほほんと和気藹々、楽しそうにみんなと早くから打ち解けているのを見ている中での一定数に「なにあいつ」「こらしめようぜ」と、いった感情が働く場面を多く体験してきたことともつながる。それは、生存本能に他ならないのだろう。「もしかしたら、あいつは破滅ももたらすんじゃないか・・・」といった。私はいつも、この本を読む前から同じようにそれは「免疫」の働きのせいだと思っていた。病気に対してというよりも、お互いのテリトリーが中和されて、免疫ができるまでの段階として現れる拒否反応。お互いの免疫ができていないんだから、それは対等に向き合えるはずがない。。。それでも何十年過ごしても、合わない人というのは絶対に存在するのだから、とにもかくにも人間という生存本能は、いかに卑しく、どうにかしてでも生き残ろうとしている意地らしい存在かと、感じるばかりです。
由良の寝宿。と云つでは分り難いか知らぬが、兵庫豚津名郡由良町の家々(中略)、洲本町から東南一里、由良の漁夫町の男女の合宿がそれだ。髪宿と云っても、文字からの感じのやうに、城の宿でも、待合でも何でもない。然たる社交道徳を保つた青年男女の、町の認めた自由の交際上のクラブである。いつごろ、何うして出来たか判明せぬが、地理的に一小天地をされた港の街の人々は、主に紀淡海峡で魚を釣る位が開の山で(中略)、締ろ因に近い習慣が、親の代詛父の代から、ちやんと出来てるたもので、悪くいふ程の延代的のものではなく、自然と試練による海法が、理想に近いものを、つくりあけてゐるのだ。姫十七八、男十八九になると、趣味とか製薬に恵まれぬ土地だけに、海の単調な仕事に飽いた若人連が、夜になると家を出て、なるべく遠慮のないの人らぬ家に集る。男の珍しい海の話に、娘達が聞入る。帳達は盛られた駄菓子にして、男の肌の色のやうな番茶を汲む(中略)、逆頃では題達は鹿糸の内臓もするし、蓋は新績用のクレーや野部工場などで働くが、夜は認められた自由の天地で、斯うして日に灼けた海の若人等と、語り合ひ慰めとする。
かくて笑野に満ち夜を更し、さんざめきの内に、男女一緒に寝るのだ。ダンスも美酒もなく、たり話と唄ぐらるで、男女雑魚寝をすると云つても、ある種階級のそれのやうに、安協も拔断けも空響もなく、氣質の合た男女が、お互ひの全くの人間性にかへつて、十数名一園となって、書の疲れで他愛もなくて、眠り込んでしまふのは事質であつて、識者や道學者が、一部の世相を以て同一に断じようとしても、彼等とは親念がひ、趣きを異にしてるる若人たちである。また例へ野心を有してある者が、りに一時の野望を達しようとしても、紫人の眠りの監親と、眼をしてからの攻華排斥、相手からの嫌悪を考へると、うつかりしたことは出來ない。で男女間に戀愛が生じた場合「どうしても結婚せねばならぬ」の不文律が、よく此の寝宿の目的精神を支配し、そしてお互ひに理解しあふことによつて、戀愛から結婚への路が、如質に運ばれるのである。かうして結婚するとなると、相手同士の人間人物を、よく理解することが出来る。誠に以て便利重資な自由戀愛の結婚市場であり、結構な見合と理解の機である。
この本を読むきっかけというのも 「暮らしの中の文化人類学」波平恵美子の夜這いの話の中で、この本が出てきたから。「寝宿」という、風習?は、今も「行動する」という点では、手段や方法は変わったにせよ、同じかと思う。若者は恋愛するわけで、どうやっても男女お互いが気になりだす年頃に、ただその思い素直に場所があったというだけな話だ。今では、その場所はSNSとLINEとなっているが、それでも身体的に「会いたい」という、本能?は、ヒトという動物として生まれたからには、全てとは言わないが、大多数の人が持ち合わせているはずである。この寝宿の、私が思う良き点は、やっぱり地域で起きているということ。この地域内で完結する話ということ。ここで良き人と会えれば、それでこの村で引き続き暮らしていくのだ。そういった循環が、今はめっぽう足りずに、外へ外へと消え掛かって、もう消えてしまっている感覚だと、思う。
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廣島縣安藝郡倉橋島宇尾立浦の寝宿
これは「今を距る十年ほど前まで行はれた若者間の慣習であつて、現在では「に改革されてしまつて、もうかる事は在るまいと思ふ』と断り書きがしてあるが、永遠性を有してある慣習なるものは、非常の變革のない限り、十年位で排拭されるとも考へられぬので、左に要領だけを抄録すること、した。男女の寝宿と男女間の交際此の島では男も女も十四五歳になると、それぞれ若イ染宿、晩宿といる或る定められた家に泊りに出かける。そしてその家を軍に宿と云ひ、主人を宿麗とエふてるる。一軒の宿には四五人ぐら心の合つた者が一緒に泊る。宿親1部ち宿頭に醤しては自ら「宿子』と云ひ、お互ひには『宿完弟」と呼んでるる。かくて男の宿兄弟は打連れて夜遊びに出かける。娘宿では夜の八九時ごろまで、娘達は夜業をしてゐる。その娘達を宿から宿へと歴訪するのである。宿親が居ても別に遠慮もせず、また大抵別室に居るので、若者等は質に仕たい放題のことをする。そして仕たい放題とは、第一には娘の僕へ手を入れて、乳房を掴むことである。村の娘である以上は、これが白造に行はれても、誰も咎める者はない。第二は男女一緒に寝ることである。他の人には借じにくい事かも知れぬが、娘達は一種の貞操観念が中々湿固であって、斯うして同宿までは許容しながら、最後の唯一つのみは死を以て固守することになつてるる。それ故によくよくの嫌はれ者でない限り、普通の作法を守る青年には同宿が許されるので、稀には相愛した二人が、一年も二年も一緒に寝ながら清酢であつたといふ例さへある。男は女を多く得るほど、一般の人望信用も多くなるのに反して、女は一人位は男を持つてゐる方が肩身がしいとは云ふもの~、子供を生むと非常に爪弾きされる。殊に子が出来て男にてられ、その子が私生児にでもならうものなら、全く世間から排斥されてしまふのである。青年男女の結婚と若者の勢力結婚の媒的人には、男女双方の宿親がある。
若イ衆仲間の會は酒一升代の五十であった。初めて組に入つた年だけは『牛銀』と云つて二十五袋を納める。その次の年の九月の祭識の折に、始めて一人前の若著となる。半銀の間は表向きは『夜這ひ』(中山日。此の事は後段の若者の有せる股の権利の條に詳述する)には歩かれぬ定めで、宿兄弟の先輩たちに階行するばかりであつた。
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A 島根縣簸川郡西濱村の寝宿の慣習
杵築の稲佐の置から、一里ばかり南の西演といふ漁村では、今でもまだ他村とは線組せず、血線の近い者ばかりで、誠に平和な社を造つてある。宿で働く収入が婚資村の男女は年頃になると、定めてある若イ衆宿規宿へ集つて、躾るのを習ひとしてゐる。宿は必ず村内でも好人物との評判を取つた、そして用すべき老人の宅に限られ、未婚の娘の親達は頼んで此の家に寝泊りだけさせる。毎日夕方に用事が終ると若い女達は、三人五人と連だって集り来り、夜更けまで手仕事をして働きついける。その収入は各自の小にもなれば嫁入の支度金にもなるのである。若イ衆宿の方では格別夜業はせず、たり集つて来て共に話したり唄つたりして、泊るだけである。盆踊などの職楽の後に、男女親しくなるのは普通であるが、それかと言ふて交際は決して不仕舞ではない。婚約から結婚への過程 男に思ふ女があれば、必ず娘宿の主人に希望を打明けて、斡旋をしてもらふ。話がまとまると「しょや』(中山日初夜の意か)と名づけて、姫宿では一同の娘赤飯を鑑態する。男の方からは娘に、何か固めの贈り物をする。その晩は仲間の女達が集って、歌を唄つたりなどして、面白く遊び更かす。そして此の『しょや』の行事が終ると、その娘は『けんさい』(中山日。權妻の意か)と云ふ名稱を奥へられる。『けんさい』になれば、もう娘宿には来て泊らず、家にみて男の通つて来るのを待つのである。併し『けんさい』が本物の花嫁になるまでには、相富の年月を経るのが通例で、その間は男の方から女を訪ねて来るのである。かくて雨家の都合のよい時期に、改めて仲人を頼み吉日を下し、結婚式を楽け初めて若夫婦が、同居することになるのである(以上。民族、第二巻第三號所裁摘要。此の記事も亦た男女の交際が主要のものとなつてゐるだけで、別段に取り立て、言ふべきほどの特色もないけれども、それで婚姻史の立場から見ると、よく我國の古俗である招婚婚の面影を残してるるのである。即ち我國の大昔にあつては、婚姻は上下を通じ悉く婚取式であつで、嫁入式と云ふものは無かつたのである。
換言すれば若者連に加はることが、適婚者たることを部落から公認される係件となつてるて、然若者連なるものが選生した営時にあつては、此の一事を最も重大親してるたものと考へられるのである。猫この機合において二三の蛇足を添へれば、山梨豚では古俗として、昔は薔五月端午の節句から八月十五夜まで、嫁入頃の娘を持てる民家では、戸締りをしてることを禁じられてるた。こは土地の若者が求婚のため、自由に出入の出来るやうにして置いたので、元は此の慣習に反し戸締りしてある場合は、若者はそれを破つて出入しても罪にはならなかつた。これは武田倍立の遺法だと称してるた。そして後世になると、八月十五夜から九月重陽の節句までを、更に「もらひ』と云ふて絞けた。和歌山縣西牟婁郡川添村の各部落でも、十年ほど前までは若い男女の性生活は顔る自由であつた。年頃の娘に男の無いのを不具者か何かのやうに、雨親が心配したと云ふ話は今に多く残つてるろ。従つて家々の門戸は年中決して戸締りをせめ。もし娘のある家で戸締りしてみると、若イ案が意地にか~つて壊してしまふ。結婚しようと云ふほどの心の深い中ならば、必ず男が毎夜ふて娘を守護せねばならぬ。さうすると彼は誰の定宿だからとて、他の若イ染は手をさぬことになる、さも無ければ色々の男が遣つて来る。私生見は非常に嫌ふが、稀には父なし子が生れる。マッチを探って顔を見てやらうとする間に歸ってしまったので、誰だか分らぬなどと云ふ例も少くない。富山縣下新川郡の村々には、『夜業宿』又は『糸挽宿』と雑し、年若き女子が三五人或は七八人打寄り夜業をする。それを若イ染が話ひ歩いて五ひに知り合ひ婚姻の下地をつくる。これを俚俗「膝し』と云ふてゐる。また男女が會食することもあるが、これを『車破り』と稱してゐる。長崎野馬島佐須奈村では娘が年頃になると、親は必ず分室に寝させてヒヤヒャ(情郎)の有無を探り、もしヒヤヒャが毎夜来訪するやうなれば、親は却つて安心するさうである。沖縄の伊江島地方でも娘は年頃になるを、一番座(同地では表に面した座敷を一番座二番座と群し、その後ろを一番裏座二番裏座と云ふてる)に満りで寝る権利を有してるて、ことで野馬のそれと同じやうに、夫定めの準備をするのが古俗であつた。仲村節の俗に『仲村すべ戸最簾はさけて、あにやらわんとまば(それで宜しければの意)忍でいもれ」と云ふのがあるが、此のずべ戸は娘が寝てるる部屋への通路に立て>あつて、その開閉権は全く娘の手に存してるた而して斯かる事は國に互り数第一•若者入に由つて獲得する糀限限りなく存してゐるので、際限がないので大概にして他は省くが、兎に角に若者連に加入することが、適婚者であると公認されたのは、各地を通じての不文律であつた。若者連に加入すれば、一人前の男子として、社から待遇されるのであるから、此の前後により労働賃金に差別のあるのは、元より営然のことである。群馬縣惣社町では、昔は若者加入前は牛人分しか賃銀が得られぬので、貧困者は年を隠して早目に若者入りをしたと云ふことである。
「兎に角に若者連に加入することが、適婚者であると公認されたのは、各地を通じての不文律であつた。若者連に加入すれば、一人前の男子として、社から待遇されるのであるから、此の前後により労働賃金に差別のあるのは、元より営然のことである。」
今では、こんな式たりは堅苦しくてやってられないと、町内会からもPTAからも抜け、個人で働き、結婚もせず、一人を謳歌するライフスタイルもある。私も結果的に、そんな感じだと思う。けれども、ここでいう「公認」という一体感というのを、人というのはガムシャラに動きなら、どこかに求めているもんではないだろうか・・・?生まれた時から、一人では生きれないヒトなのだから、どこかで、その受けた何かを潜在的に、どこかへ返そうとしていて、それは他ならぬ誰かというヒトに返そうとしているんじゃないでしょうか。そんな遠回りをせず、有無を言わせず若者連に入るということは、すでに生まれた時に触れた誰かの手に、ありがとうという言える関係性・・・のような。うまく言えませんが、だからこそ、どこの馬の骨かもわからない人には、その生まれた時のことを知らない誰かに、何かを返される / 返す恩もないって話ではないでしょうか。。。
若者連の愛生の第一因が、性的の訓練にあるとまで考へられるだけあつて、これに関する問題は歴史も古く、且つ相富に複雑を極めてゐるのである。若者制度もその退化期である江戸時代の未葉にあつては、殆ど此の問題が若者連の中心となつてるて、極言すれば此の特権があるために、辛うじて残端を保ってるたのでは無いかと思はれるほどなのである。私はこれに就いて少しく長文に渉る嫌ひもあるが、詳述したいと思ふのである。前に果けた長崎川上村の理に『ボーフナ(南瓜の方言)と娘は若もん決第』とあるが、かとる質例は聞く各地に互り、然も近年まで存してるたのである。青森下北郡東通村大字尻屋は、津軽海峡に突出し有名なる尻屋の所在地であるが、明治初年までは村の娘と、出戻りの婦人とは、若者の共有物であつた。村の姫達は甲乙の差別なく十五歳になると、メラシ(處女の方言)宿とて定められた家に泊りに往き、そして村の若者(同地方ではワカゼと稱してみた)達の要求には絶割に従はねばならなかつた。もし此の要求を故なく非絶すれば、彼女には此の上もない迫害と制裁とが加へられる。即ち拒絶された男子は、直ちに此の事を娘の父兄に知らせると同時に村中へ報告する。娘の父兄は村の掟を説き、その不心得?を論すに種々なる方法を講ずるが、それでも娘が照せぬときは、断然居村を放逐しなければならぬのであつた。女この反響に娘達は、外来者に割しては絶野に真操を固守せねばならぬ義務が負はされてゐて、これに背くと同じく居村を放逐されるのである。斯うした則は娘達の間に、幾多の悲劇を導き起させたのであるが、此の規約を読めば、一部の疑ふ除地も無き處女共有である。而して更に驚くべき事賞は、蝶酌人が新婦に封して股の権利を有してみて、結婚省夜にその権利を質行したことである(二」。青森駅に書き上げたら書類のうちに左の如きものがああ。肥事がめらし省にも及んでるるので今文を掲載する。
ー、家族は一切娘そのものには、何も構えもせず、一切若者連中に預け、若者の自由に任せること
ー、夜間は戸緒、鍵等を掛けたる節は、罰金を徴せらる」のみならず、時には除名せらろ1時あり(以上。昭和四年一月一日護新聞所載)。
「明治初年までは村の娘と、出戻りの婦人とは、若者の共有物であつた。」
「村の若者(同地方ではワカゼと稱してみた)達の要求には絶割に従はねばならなかつた。」
こんな、非人道的な話になってしまうなんて・・・それは、もしかしたらその時点で人口的にも少ない地域でのことだったんじゃないかと。少ないところで、優越をつけていたら ( あの人はかっこいいからOK、あいつは不細工だからやだ! ) 争いが起きてしまう、町が荒んでしまう、そういった思いからなのではないでしょうか。それにしても、ありえない話です。








