「旅の民俗学」宮本常一




私が民俗学という学問に興味を持つようになったのは私の育った環境によるものであると思う。幼少のときから十六歳まで、百姓として生きてゆく技術と心得のようなものを祖父母や父母から、日常生活の中で教えられた。そしてその後の私の生活は幼少のときの親身の人たちから教えられたことの延長として存在しているように思う。民俗学という学問は体験の学問であり、実践の学問であると思っているが、それは幼少時の生活のあり方にかかわるところが多いのではなかろうか。私は幼年期から少年期にかけて土を耕し種子をまき、草をとり草を刈り木を伐り、落葉をかき、稲や麦を刈り、いろいろの穀物の脱穀をはじめにおこない、米を掲き、臼をひき、草履を作り、菰をあみ、牛を追い、また船を漕ぎ、網をひいた。そして何故それをしなければならないかを父祖に教えられた。きびしい教訓としてではなく、百姓の子としておこなわねばならぬこととして、また一つの物語りとして身につけさせられたのである。そしてその延長の上に今も生きつづけている。自分でなぜこんなことを考えるようになったのか、なぜこんな生き方をしなければならなかったのかと思うことが多いが、それらのもとになっているものは幼少時の家族と共にすごした生活体験である。それは強烈であり深く身内に沈澱していった。その多くが今も記憶の中に生きていることによって反省させられるのである。しかもその体験が、私が民俗学徒の一人として世間から評価されるようになった素因になっていると思う。私は柳田国男、渋沢敬三の二人のすぐれた先生によって目をひらかれまたその指導と庇護によって今日にいたったのであるが、二人の学者が私に目をとめて下さったのは幼少時における祖父母や父母や郷党たちから得た教訓や体験に対してであると思う。二人の先生はともに私の中に古い農民の姿を見たに違いない。私もまたその姿勢をくずさないで今日にいたった。くずすまいと努力したのではなく、そこからぬけ出せないほど幼少時の体験が深く身にしみたのであった。そして私は私の眼で世間や文化を批判するまえに、私自身が実験台になって批判の対象になるべきだと思っている。

抜け出せないほどの幼少期の体験。。。民俗学は体験の学問…。なんとも知っている話で、わたしもその道なのかな…と、惹かれるというより、そうでしかないという思いになるわけです。自然と体が。





旅する者は誰でも来てとまっていったが、宿銭は決してとらなかったという。いわゆる善根宿といわれるもので、あらゆる人が来てとまっていった。そしてこの善根宿は私の家が没落した後も続けられ、大正四、五年頃まで人をとめていた。そのことについては後にふれることにする。

そういう言葉と風習があったんですね。。。なんとも宿をやりたいわけでもなく、儲けたいわけでもなく、というわたしに響くスタイルです。よく酔った勢いで電車を降りそびれて戻ろうとしている人が「えっないじゃん!やば!」と、なっている時に、「よかったら泊まります?」と、自然と声をかけたくなるものです。家も、自分だけの場所という感覚が私にはあんまりないからでしょう。




大工として働きにいっていた末子の乙五郎が赤痢にかかって戻って来た。乙五郎は死ななかったが、その病気が親の善兵衛にうつり、善兵衛は死んだ。それだけではない。善兵衛の小屋の下の方の小屋にもたくさん人がかくれ住んでおり、みな谷川の水を利用していたので、たちまち赤痢は下流の小屋住いの者にも伝染して十三人の者が死んだ。善兵衛の家は悪い病気のもとになったということで周囲からは冷い眼で見られるようになった。善兵衛には男の子が三人と、女の子が二人いた。

家は次男の市五郎がついだが、近所の子供の火あそびがもとで火事になり、自分の家ばかりでなく、隣家二軒を焼いた。昔は火事を出すと火元になったものは村の中では一段低く待遇されることになり、公の席に出るとき羽織を着ることをゆるされず、足袋をはくことをゆるされなかった。このようにして僅かの間に村の最下層まで落ちていったのである。

放火の罪は江戸でも火あぶりの極刑で、今も放火失火は大罪ですが、灰皿が鈍器になるほど厚くて重たい理由も、頷ける世間からの遠ざけられ方です。





声がよかっただけでなく、女たちの心をしっかりとつかんでいたのではなかっただろうか。女たちにとっては、どんなに貧しくても忙しいときでも、女を奴隷のように使わない人、女を大事にする人として理想の人に見えたのかもわからない。子供の頃祖父につれられて畑へいく。そして帰りはたいてい暗くなる。

私はこの祖父に十歳になる頃まで育てられたといっていい。夜になると祖父に抱かれてねた。そしてこの祖父から童謡や民謡や昔話を数かぎりなく聞いたのである。それが私の心をはぐくんでくれた。

長い道を一人の幼児をたのしませながら歩かせた祖父を今思って見て全くすばらしい人だったと思う。行く道の途中、トウゴンタオの東に白石という村があって、そこの農家で水をのませてもらったのをおぼえている。幻性寺で昼弁当をたべた記憶があるが、それ以外に菓子も土産も買ってはもらえなかった。長い道をただ祖父と二人であるいた。よく歩かせたものだと思う。祖父はその長い道のりの中でおこったこともなければ暗い顔をしたこともなかった。

しかし私の生きていくための方向をきめさせてしまったのは父だったようだ。父は私にとってはもっとも尊敬する人物の一人である。子供の頃いつも母をはげしく叱りつけている父を見て恐怖をおぼえたこともあったが、その父がまた母を深く愛していたことを知って父を尊敬するようになった。とくに十歳をすぎて、私の教育が祖父から父の手に移ってからいろいろのことを教えられた。

幼い頃の体験は、その人の根本的ななにかが形成されてしまう。おそろしいことでもあり、そうでしかないとも思う、自分にはどうしようもできないところなんだろう。私にとっての祖母というのもそういう存在だったかもしれない。優しく甘やかされつつも、厳しくて、その厳しさには愛情があった。




父はその娘に猛烈な恋をしたという。母の話によると、出刃砲丁を持っていって、娘をくれねば殺すといって、畳に俺丁をつきたてて、その両親にせまった。両親もその見幕におそれてゆるさざるを得なかった。その娘が私の母である。

母を愛していた若者は何人もいた。母もそうした男の中の一人に心を寄せていたようであるが、結局父の暴風のような愛情に圧倒されたのではなかったか。結婚したのは明治三十二年で母が十九、父は二十六歳であった。

恋と愛とはやっぱりおかしなことである。まともになんて、やるもんでもないからまずは「おかしい二人」にならないと、夫婦になんてならないでしょう。それくらいな自分でも分からないことが人生にあるなら、そこまでそんなにまともに暮らせるもんじゃないのでしょう、そもそも。


  


私の父は海外出稼ぎには失敗したが、そこで多くのものを学んだ。人間一人一人の持つ時間はみんなおなじであるが、それをどう使うかでその人の一生がきまって来る。その持ち時間を自分にとってもっとも価値あるように使うことが大切である。しかし四六時中働くのがよいのではない。一日は二十四時間で、これを三つにわけて、睡眠と労働と休息にそれぞれ三等分してつかうのが理想的な生活である。そして休息中にいろいろのことを反省し、また計画もたててゆかねばならぬ。大切なことは合理的な生活を工夫することで、たとえば日常はまずいものをたべ、祭や祝い事のあるとき御馳走を鱈腹たべ、腹をこわす者が多いが、休日は普通のものをたべて暴飲暴食にならないようにし、むしろはげしく働いているときにこそ、栄養のあるうまいものをたべるべきである、という条をもっていた。

もし生きて帰ることができたらはだし参りをしますからと誓ったのであるが、船が神戸へつくと仲間の者はそれぞれ郷里へ帰ってしまった。しかし父は神への約束をはたすために船で神戸から多度津へわたり、衰弱しきっているので人力車で琴平までいって琴平宮の石段の下でおろしてもらい、高い石段を這ってのぼっていったという。それほど苦しかったことはなかったと私に時折話してくれたが、それでも不思議に生きつづけることができた。神にたのむということは、同時にそれほどの義務を負うことになる。だから神には物を頼むものではない、できるだけ自分の力にたよるべきであるというのが父の僧念であった。だから神社や寺のまえを通るときには頭をさげたが、神に祈願することは生涯しなかった。

24時間を三分割した考え方は、ロバート・オーウェンそのものですね。そして神への誓いは、おもしろいですね。頭を下げるが、頼みはしない。わたしも、具体的に頼むこともありません。どっちかというと、感謝や他でもない存在を感じたり、見えないものへと向かう気持ちを忘れたくない感覚だったり。そして、言霊というか自分で決めたことへは裏切ることはしない。安易に言葉を使うことは呪いにもなるから、だからこそ、やらねばならぬことは口にする。そうやって生きるようなったのは、いつ頃からなんでしょうね。。。そして誰が教えてくれたのでしょう。

   



父からいろいろのことを言われた。そしてそれを書いておいて忘れぬようにせよとて私は父のことばを書きとめていった。国汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何がうえられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。駅へついたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。回村でも町でもあたらしくたずねていったところはかならず高いところへ上って見よ、そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへはかならずいって見ることだ。高い所でよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない。金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。

それを自然と叩き込まれたのであれば、それはやらないと気がスッキリしないもんでしょうね。そうなるとわたしでいうのは何かというと…反面教師が多いけれど、それはコンプレックスともなって、返って同じような道を辿ってしまいそうな怖さもあり、それをまず無視したところに見えてくるのが、二人の祖母であったと思う。知らぬ間に、二人の祖母の姿が、わたしの道標になっていると感じるばかりである。




時間のゆとりがあったらできるだけ歩いて見ることだ。いろいろのことを教えられる。金というものはもうけるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない。すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十すぎたら親のあることを思い出せ。ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻って来い、親はいつでも待っている。これからさきは子が親に幸行する時代ではない。親が子に素行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。

1.  自分でよいと思ったことはやって見よ、それで失敗したからと言って親は責めはしない。

2.   人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかりあるいていくことだ。

大体以上のようなことであったと思う。私はこのことばにしたがって今日まで歩きつづけることになる。

今一つ父の影響を大きくうけたものがある。それは旅である。

旅。。。わたしは、旅は思えばそういう志す体験はなく、憧れと自由と居場所としてのような、少々逃げの姿勢に感じる。よっぼどに旅というのは移動しなくとも成り立つものだと知ってからは、そういう逃げはしないようにしたいと思ったものだ(いつでも旅することは楽しいけれど)。「三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。」とは素晴らしき感覚である。そして、自分では解決できない時には、本当に頼りたいと思う。それはある意味で神社で手を合わせる関係にも似ている気がする。変にお願いはしない。だって、ここぞって時のお願いに、1番力を貸してほしいですもんね。

  

   


このような行事は昭和の初まではつづいていた。それが大正の終頃からおそって来た不況で、冗費を省くように政府から言われて生活の簡素化が問題になっていった。その事から当然旧暦による行事はおこなわないようにとの達しがあり、昭和五年に病気のために郷里へ療養にかえった頃には大正時代の行事は半分も残っていなかった。旧暦の行事は新暦でおこなってもどうも気分が出なかった。ということは祭の多くは午後から夜へかけておこなわれ、日がくれると月がのぼって来るというのが旧暦の行事の特色であったが、新暦では行事と月夜との関係がまるでなくなったためであろう。

「月」の周期って、本当大事だと思う。(  と、ここら辺で「正夢」が起きました ) 正夢は私にとっては「合っている道だよ」という、自分のとっての目印の役割があって、通過点というか、そのスノーモービルだったら、あのビヨーーンって立っているポールみたいな、そういうコース取りなので、なるべく正夢は起きていないと、と思うわけです。





それでは教育のことなどどうでもよいのかというとそうではなくて、子供はできるだけのびのびと育てるのがよいとして日課表などにこだわらずに教育するようにと言った。そして大阪府の学務部から来る文春には大してこだわらなかった。のびのびと育てた子供はやらねばならぬときには集中して仕事ができる。そして少々の苦労にもたえてゆけるものだというのが持論であった。私は体操や図画や唱歌の時間を利用して子供たちを連れてよく校外へ出た。そして丘の上であそんだ。私の生の中でこんなにのびのびとたのしかったことはなかった。同時に私は私の力不足を痛感した。もう一、二年みっちり勉強する必要を痛感した。

私は有真香小学校へ勤めるようになってもその付近をあるきまわった。あるいていると、そのあたりの川の橋の下にも莚掛けの小屋のあることを発見した。川も小さく、したがって河原も狭いから、小屋の数は大てい二つ三つであったが、その小屋に住む乞食と仲よくなった。そして乞食の生活について教えられた。乞食にはそれぞれ領域があった。乞食のもらいは葬式のときであり、そのほか法事があればかならずもらいにいった。また墓に供えたものもみなもらってあるいた。そうしたものだけで一年中食いつなぐことのできる範囲をそれぞれの領域とし、領域のいくつか集った上に頭の乞食がいる。その領域は、世襲されてゆくものでもあった。乞食たちは自分の領域の墓地の掃除はひきうけていた。

乞食の生活・・・。またしてもこれも名称の印象がよくありませんよね。"インフォーマルセクター" = ISなんて言い切ってしまえば、それはもう世間の見られ方が変わりそうです。引きこもり、ニート、不登校っていったところも、その名称から本人も、本人に対しての誤解を生んでいる可能性もありそうです。「のびのびと育てた子供はやらねばならぬときには集中して仕事ができる。そして少々の苦労にもたえてゆけるものだというのが持論であった」それは私も、実感としてあります。私だってやりたいことをやれていないのに、他のことに集中なんてできませんもの。




有真香から西南の方六キロくらいのところに木積という村があり、そこに釘無堂という寺があった。鎌倉時代の建物であり、その中に国宝の仏像が二十体ほどあった。私はこの寺がすきでよくたずねていった。母ねていって仏様を拝むのだが寺の奥さんはいつも快く扉をあけてくれ、しかも拝観料をとったことがない。私はこの寺には何十回というほど参った。参るたびに何らかの発見があった。そしてこの寺の仏像を基準にして他の寺の仏像を見たのである。仏像を見ていると時代とか手法とか服装や持ち物などにいろいろわからないことが出て来る。そのわからないものをつきとめようとするとき無堂へいってみる。するとわからないことがわかるいとくちが見えて来ることが多かった。その体験は貴重であった。とにかくこれぞと思う寺の仏像を心の中に焼きつけておいて、それをたよりにいろいろの仏像を見ていくと、他の仏像の中から多くのことを教えられるのである。どんなものを見ていくにも基準になる具体的なものを持つことが何よりも大切であると教えられた。

意識したことがなかったけれども、物の見方のお手本、基礎の話なんですね。。。調べることが、知ることにはつながらない。そのことをもっと知っておくために携帯とネットという…のがあったら、きっと宮本さんも使うでしょうね。そのバランスって、これからの…答えを出す?人類の課題でしよう。。。




柳田先生が雑誌「旅と伝説」で昔話の募集をした。私は旅につよい関心を持っていたのでこの雑誌をとっていた。さて昔話ということになると記憶の中にたくさんある。そこで一つや二つ書くよりは一通り思い出せるものを書いてみようと書いていくうちにノートニ冊になり、締切の期日をすぎてしまったけれどとにかく送ってみることにした。すると先生からは長い手紙と、『民間暦小考』「北安曇郡郷土誌稿」雑誌「郷土研究」を送って下さって「郷土研究」へは郷土のことを是非投稿するように、また「旅と伝説」へも投稿するようにとすすめられた。それまで雑誌は買って読むものと思っていたが、それから両誌へ投稿するようになる。柳田先生からは其後時折はがきをいただいた。

そういうことってありますよね。なんでしょう。それこそ、それが本来のその人の行く道ってのが、もう決まっていて「投稿している」のは、ちゃんと気づけている行動で。適材適所じゃないけど、人はみんなパズルで、自分の場所へいつかおさまる気もします。ここって時の、迷いない行動ほどその人の形を表すものはないとも。




しばらく話して青山の宿舎へ帰ろうと思うと、とまってゆくようにとのことで、青山の青年会館の方へは電話をかけて下さった。「君、青山へとまると宿泊費が要るのだろう。ここならば無代だ。今夜からここにとまりたまえ」と言われ、その晩からアチックの若者たちのとまる部屋にとめてもらうことにした。講習会は充実したよい会であった。同じような学問をしょうとし、柳田先生につながる地方の人びとがはじめて一堂に会して顔をあわせ、お互が胸をひらいて、語りあう機会をもったのである。この会が一週間の会期をそのまま終えて仲間のものがそのままばらばらに帰っていくのではいかにもさびしいと思って、会を作り、機関誌のようなものを刊行しお互の連絡をとるようにしてはどうだろうと桜田勝徳氏に相談すると、それについては岡正雄氏や橋浦泰雄氏に相談するのがよかろうとのことでお二人に話すと、その話をいきなり柳田先生に話したのでは先生は拒絶するだろう。しかし、長老連中に計画をはなし、その人たちに懇親会か何かの折に発言してもらえば成功するのではないかとのことで、私は早速金田一京助・伊波普飲・伊奈森太郎・小林存の四氏にその話をした。するといずれも賛成で、柳田邸で懇親会のおこなわれるとき、金田一先生が日火をきって下さることになり、閉会の日に折口先生が民間伝承の会という名をつけ、タブロイド版のささやかな機関誌を出すことで話がまとまった。これが後に日本民俗学会に発展していくことになる。

「その話をいきなり柳田先生に話したのでは先生は拒絶するだろう。」と、いう計らいからの素敵な「日本民俗学会」のはじまり。オシャレ風なそれっぽい美味しいコーヒーのお店が、地方にポツポツと大量出現することと比較して考えてみると、お互いのそれってどういうことかを、なにか面白く導き出せそうな気もします。学会でどんな話が繰り広げられているのか・・・大変気になっているので、いつの日か紹介を経て聞いてみたいところです。





まず下屋久村原小学校に岩川先生を訪い、宿直室にとめてもらって鎌田仲五郎から話を聞くことにした。翁は八十五歳であったから、明治維新のときは十歳であった。明治以前のことを子供の眼で見ている人の話は貴重であった。その当時の大きな変化をよく知っているからである。私が年寄たちからいろいろの話を聞くようになったとき、明治維新以前のことを知っている人たちとそうでない人たちの間に話し方や物の見方などに大きな差のあることに気付いた。たとえば維新以前の人たちには申しあわせたように話しことばというよりも語り口調というようなものがあった。ことばに抑揚があり、リズムがあり、表現に一種の叙述があり物語的なものがあった。維新以後の人たちの言葉は散文的であり説明的であり、概念的であった。そしてその傾向が時代が下るにつれて次第に強くなる。知識を文字を通して記憶していくようになると説明的になり散文的になっていくもののようである。こうした旅にもそれをはっきり知ることができた。屋久島の年寄たちの話は語り物をきいているような感じのするものが多かったが、今「屋久島民俗誌』を読みかえしてみると、私はそれをすっかり散文にし簡条書きにし、またきいた話を私なりに分解してしまい、言葉そのものの持っていたひびきのようなものは洗いおとしてしまっているのである。そこに住む人たちの本当の姿を物語るのは話の筋1つまり事柄そのものではなくて事柄を包んでいる情感であると思うが、そのような形で聞きとりを整理したものはほとんどない。物を調べ、それを文字で再現することがどんなにむずかしいことか。しかしそのころは情感的なものを洗いおとして鹿爪らしく散文的に書くことが学問として価値あるように思ったのである。

なにか大切なことなんだけど、今の令和に生きるわたしに、何を活かして、何を今にアウトプットして、どうすればいいのかが、皆目見当がつかない。文明を捨てることではなく、戻ることでもなく、ただ進化を見つめるのでもなく。アーカイヴのような…人とのことで、せめて今思う大切なことを、ただ惹かれるままに寄り添っていたいとは本望であるからこそ、その寄り添い方のマナーを過去から学ぶことなのでしょう。そのままではなく、今の時代の、私なりに。




島であるが故に特別に権力を持つ者を作らないようにし、平等配分と共助の制度が軽い、その生活を守って来た生き方を一人一人の人からうかがうことができた。中国山地の村々とはおのずから異る生活がそこにあった。

途中は汽車を利用したがあるきはじめると歩けるところまで歩いた。そうした旅には知人のいることは少ない。だから旅に出て最初によい人に出あうまでは全く心が重い。しかし一日も歩いているときっとよい人に出あう。そしてその人の家にとめてもらう。その人によって次にゆくべきところがきまる。その人の知るよい人のところを教えてもらう。そこへやっていく。さらにそこから次の人を紹介してもらう。しかしその先が就かなくなることがある。そうすると汽車で次の歩いて見たい場所までいく。そしてまた同じように歩きはじめる。その頃の東北の人たちはほんとに話し好きが多かった。話しはじめると話がきれないのである。冗舌ではない、能弁でもない。その生きて来た道をぽつりぼつりと話してくれる。山形県東田川郡朝日村松ガ崎の菊池三右衛門、秋田県男鹿市門前の秋山要作、青森県北津軽郡市浦村相内の三輪五郎兵衛の三翁はいずれも食事と睡眠の時間を除いて五十時間余を話しつづけて下さった。今思いうかべてみてその話自体がすぐれた物語文学のような気がしてならない。そして二日間の語りだけでりっぱな書物になるほどの分量のものであった。一人一人の人間に、みなそのようなライフヒストリーがあるはずである。そしてそのような物語を持つということはその生活がきわめて充実したものであったことを意味する。

多くのデータがネット上にあるということは、一体なにがいいんだろうか。なくなっても生活は回るはずで、むしろ、それこそAIに聞く習慣が確立している今、話す機会は激減している。そんな中でコミュニティーを求めているとは、ほんと「傲慢」である。もし「話」そのものの習慣が消してしまったら、私たちの生活は、どうなっていくんでしょう。声を出すということは、鳥が鳴く様なことで、それを止めてしまったら世界はどうなってしまうのだろうか。。。話の面白さというのもありますが、人が話す、伝える、人から話を聞く、つながる、みたいなところが、人間が過ごしてきた生活に直結している気がしてなりません。歌うだけでも良いのかもしれませんが・・・語ることを一体、どうして大切に感じているのか・・・・私が。美術にしろ、なぜ生まれたのか・・・。




このようなこともあって昭和三十六年頃から執筆活動によって生活もたつようになっていった。だからどこか一定のところへ就職しなければならないこともなかったのであるが、渋沢先生には別の考え方があった。

「本当の仕事をするにはそれぞれ足場を持たねばならぬ。人はどこかで足を地につけていなければならない。農民の強さはしっかりと足を地につけているからである。よい仕事をしている者もまたちゃんとした足場を持っている。私の祖父は二つの足場をもった。業界に対しては第一銀行を足場にした。社会事業については東京養育院であった。そこから物を見、実事をおこなった。そしてこの二つの足場からは生運はなれることがなかった。私にはアチックがある。アチックから物を見る。アチック的な姿勢で物を見る。君もまた足場を持たねばならぬし、君自身もこれまでアチックを足場にして来た。だがアチックでは給料が払えぬ。そこで足場になり生活もできる場所が必要になる。その足場がぐらつくようではいけない。それには自由に活動のゆるされる研究所のようなところがあれば一番よい。自由業はいけない。自由のようで、人に利用されるだけでいつの間にか自分の行く道を見失う」私の身の上のことになると、この話がよく出た。

足場…これから私はなにを足場にすべきなるんでしょ・・・?「自由業はいけない。自由のようで、人に利用されるだけでいつの間にか自分の行く道を見失う」ごもっともなお言葉で、胸に染み入ります。




観光文化研究所へはそうした若者が集って来た。「類を以て集る」という言葉があるが全くその通りであって、すきなことをするためには苦を苦にしない人たちである。そして貧しいことも大して気にしていない。貧乏しているくせにいつの間にか金をためて旅に出る。旅といっても国内よりも海外が多い。そして未知の世界を歩く。それも文明諸国に足の向くものは少ない。中近東・アフリカ・東南アジアなどである。そこには文明社会では見られない素朴であたたかな心を持った人たちがいる。文明社会が失ったものをそこで見つけることができる。文明の発達ということは、すべてのものがプラスになり、進歩してゆくことではなく、一方では多くのものが退化し、失われてゆきつつある。それをすべてのものが進んでいるように錯覚する。それが人間を傲慢にしていき、傲慢であることが文明社会の特権のように思いこんでしまう。そういうことへの疑問は、現実の社会のいろいろのことにふれていると、おのずから感得できるものである。そして生きるということはどういうことか、また自分にはどれほどのことができるのか、それをためして見たくなる。ところが今の日本ではそれすら容易にためすことができない。自分自身の本当の姿すら容易に見つけることができないのである。

そうしたことから本当の人間を見、本当の自分を見つけることのできる世界へ出ようとするようになるのだと思う。その旅について聞いてみると、私自身がかつて国内を歩いて体験したような暗さがない。言葉の通じない世界へはいっていってもそれをそれほど苦にしない。

「暗さがない」なんて良き言葉なんでしょう。そしてなんて全て同感な文章なのでしょう。「傲慢であることが文明社会の特権のように思い込んでしまう・・・」そういった言葉に反応する私はいるものの「自分自身の本当の姿すら容易に見つけることができないのである」の当事者でもある私は、一般的に"退化”と呼ばれてしまうオールドな中に手と頭も突っ込んで、忘れ去られたものを引っ張りだすようにして、いったい何を見つけようとしているのでしょう・・・・か。まだ、はっきりと見えていません。お金をためないとそこへいけない (逆に行けてしまう) っていう社会は、誰が作ったのか、そういうところも気になります。



昭和四十四年十一月頃であったと思う。田君はそのまえ、昭和三十四、五年頃に私をたずねて来たことがある。生れは鹿児島だが、放浪生活をしていて、秋田から私のところへ来たのであった。愉快な人で半日話していった。その後一度話をかけて来たが、姿は見せなかった。その田君がいま佐渡にいる。「佐渡は観光ブームで島の人が観光客に眼をうばわれている。この島におこなわれている鬼太鼓はもとすぐれたものであったが、今は衣裳もよくなり、太鼓を打つ所作もはなやかになっているが、太鼓を打つのに力がはいらず迫力のないものになっている。もとの素朴な力強いものにしたいために鬼太鼓座を作ることにしたので協力してほしい」という。地方に住む若者たちが自を失ってきつつあるときであったから協力を約した。そこで田君は四十五年八月に佐渡でおんでこ(鬼太鼓)学校をひらくことにした。私はその講師として出かけていって若い人たちと四日ほど行動を共にした。七日ほどの夏季学校だったのだが、参加した者の何人かがおんでこ座に入し、この集団は活気をもって来た。

私の願いは「佐渡という日本の片隅にいてもその芸能がすぐれたものであれば、正しく評価されるであろう。都会だからすぐれている、田舎だから劣るという概念を、こうした運動を通じて破ることができたらどんなに地方の多くの人びとを気づけるであろう」ということであった。

おなじころのことである。青森県上北地方の農家の主婦の手紙を読んだことがある。上北地方が開発されるということになって、その計画図を見せてもらった。その地図には地元住民の知らぬ間にたくさんの赤線がひかれてそれによって開発がすすめられようとしていた。そういうことが許されていいのか、自分たちが東京の町へ赤線をひいて改造計画をたててもそれはゆるされるのかという意味のことが書いてあった。なぜ地方は中央の言いなりにならねばならぬのか、なぜ百姓はえらい人の言いなりにならねばならぬのか、という主婦の訴えに対して正しく答えられるものがどれほどいるのだろうか。

しかし地方の人たちが胸を張って中央の人たちと対等に話ができるようになるためにはまず地方の人たちが自分の力を高め、それを評価する力を持たねばならぬ。おんでこ座の人たちの活動は、そういう問題につながるのではなかろうかと思った。そして期待した。

この仲間の集団としての生活ぶりはまことに見事であった。酒を飲まず煙草を吸わず新聞を読まず、ラジオ・テレビも視聴せず、砂糖も用いなかった。太鼓を叩くことに集中すると、できるだけ雑音のはいらない生活をしたくなるという。テレビも新聞も見なければ時代おくれになるように考え勝だが、時代におくれるというのは創意工夫を失って物まねだけで生きてゆくことではなかろうか。彼らは決して時代おくれにはならなかった。そして世界中を太鼓を叩いてまわるまでになった。近頃佐渡へゆくことが減ったのでおんでこ座に寄ることもほとんどなくなった。私はこのような運動が各地でおこってほしいと思っている。しかしまだ容易におこって来ない。

私は地域社会に住む人たちがほんとうの自主性を回復し、自を持って生きてゆくような社会を作ってもらいたいと念願して来た。地域社会の中にそういう芽を見つけたい、その芽が伸び育ってほしいと思った。日本の地方自治体が中央政府に大きく依存せざるを得なくなったのはシャウプによる税制改革案がとりあげられて実施されるようになった昭和二十六年頃であった。税収の中のもっとも大きい所得税を政府が掌握してこれを地域社会に配分するようになると地方自治体の責任者たちはその配分の多いことを求めて、眼が中央を向かざるを得なくなる。

これは「鼓童」の話ですかね。私が旅で佐渡を訪れた時のバスの運転手さんが「もう試験の日はたくさんの人がきてねー、それでも受かるのは数人」みたいなことをしていたくらいに、もう超有名集団となって私も知っているわけですが、こういった熱い想いのある方の働きかけだったとは・・・。全国にこういった文化継承なく、消えてしまった文化がいくつもあるだろう。同じ数だけ、一塊の観光目的のエンターテイメントになってしまったものも多くあるだろう。なぜ文化芸能が生まれ、受け継がれていったのか。生活が変わった今でも、その思いは、単なる生活以上の役割を果たしていたはずであるからこそ、その役割を欠いたとして、一体なにをそれに当てはめるんだろうか。永遠に、あれじゃないこれじゃないと、全く当てはまないピーズを考えなく当ててみるだけ = 消費の行動だけになってしまっているとさえ思う。前を向いて探してはいるんだけど、お金にならないから戻ることはさせようとしない。


 

おなじころのことであるが、私は郷里の島の中の久賀町で町民が結束できるような文化運動をおこしたいと相談をうけていた。私は昭和二十七年に仲間の者といっしょにこの町の町誌を書いた。そのときできた仲間がときどき集ってははなしていたのであるが、それでは何を中心に運動をはじめるべきかを具体的に考えつかなかったが、津具の夏目の業蹟を見て、民具をあつめて見ることから、ふるさとを見直す運動をおこしてみてはどうかと考えるようになった。しかし旅の日が多くて、なかなか具体的に計画をすすめることができなかった。

ところが昭和四十年から学校へ勤めることになり、夏・冬・春の休み以外は旅がほとんどできなくなった。がかえって計画的に時間をとることができるようになった。久賀で民具集をはじめることに動きはじめたのは中年の人びとであった。これに呼応して老人クラブがたち上った。

老人クラブにはまえからその動きがあった。若い者も婦人会も参加し、まず家々に保存されている民具のすべてを調査させてもらうことにした。調査が進んでいくにつれて、町家の人びとは不要なものは差上げてもよいというので、もらいうけることにした。そして何千点というほどのものが集ったのである。集ってみるとそこに久賀という町の性格がはっきり出て来る。昔は勘場(代官所)がおかれて島の中心地であったが、問屋町ではなく職人の町であった。そして家々にはそれぞれの性格があった。この町の人たちが過去どのような道をあるき、それが今の生活にどのように結びついているかがはっきりわかるのである。そしてその技術を生かして町を築きあげて来たさまが実によくわかる。そうしたことを踏まえて、町の人たちは歴史民俗資料館を作りあげていった。

保存された民具は、多くの郷土資料館などで見てきたが「差し上げてもよい」というあたりが、とても民俗と民藝のあたりの感覚で、私にも近くて、ほっこりする。それが美術品となるとそんなことは起きないし、どうしても損得勘定が出てきてしまうものですもんね。民具から、その家々、街の性格を理解できるというのは、文献や口伝以上の、事実中の事実ですね。たとえ町人が「この町では金がとれるんだぜ!」と言い張ったとしても、実際、採掘用以外の民具が多くあるのであれば、それは他のことが盛んであったということですもんね。物的証拠ではないですが、調査の点では重要な言質ですね。その蓄積が言葉となり本となりそうです。




大道芸の面白さは舞台をもたないことである。観客は輪になって囲む。芸人には裏も表もない。自分のすべての姿を見せる。見る方も輪になることで仲間意識を持つ。考えてみると、私の幼少の頃までは、人が集ると輪になることが多かった。輪になって話しあったのである。すると余程無口な者でないかぎり発言した。座席にも発言にも上下はなかった。人が向いあって話すような機会は少なかった。しかし教壇で生徒を教えるときは向いあい、いろいろの演劇や芸能も舞台でおこなうのを客席で見るというようになって演者と見物の間に一線が割されるようになった。最近はこの一線をなくするために、演出上にいろいろの工夫が見られているが、見ていて大へんギコチない。もっと自然にお互がとけあい、話しあうような場がつくられないものであろうか。近頃そう考えることが多くなった。

一つにはそのようにして人の集る場が少なくなった。昭和初期までは、道の辻に人がよく集ったもので、それを辻寄合といっていたし、辻で相撲をとることもあり、それを辻相撲といった。真宗という宗旨も人びとが辻にあつまって法語を語りあったものではないかと思われる。辻門徒という言葉があるから。その辻門徒がなまって辻本となり、辻本がやがて寺として発達したものが少なくない。その辻が、自動車のために人の集る場所ではなくなった。猿まわしをおこなう場すらうばわれてしまったのである。しかし猿まわしのような芸能が発達すれば、また広場を必要とし、それを作っていくようになるのではないかと思う。宮崎県をあるいていると、ムラの中のそれほど広くもない場所が芝生になっているのを見かけることがある。これは宮崎県の老人たちの間にゲートボールがさかんになって、その競技場としての芝生が必要になった結果であるという。ゲートポールがムラの中に芝生の広場を作りつつあるのである。ゲートボールというのはゴルフの極小型のようなもので、それほど広い場所を必要としないし金もかからぬ。老人たちのスポーツにはこれほどよいものはないようである。猿まわしのような大道芸の復活は、やがてまた、それをおこなう広場を必要とするようになるだろう。そしてそれが地域社会文化の向上のためにきっと重要な役割をはたすばかりでなく人間相互の親和感をつよめていくようになるであろう。輪になる運動などと唱えるまえに輪になるような行事をふやしていくことが大切ではなかろうかと思う。 

「広場」というのは、空き地という話でもいいのかもしれない。何をしてもいい、そして誰のものでもないような場所。社会から離れて、表現の自由があるような。。。そして、輪になるような行事・・・すごくいい言葉。それはつまり上下関係のない行事ということだろう。





私は長い間歩きつづけて来た。そして多くの人にあい、多くのものを見て来た。それがまだ続いているのであるが、その長い道程の中で考えつづけた一つは、いったい進歩というのは何であろうか。発展というのは何であろうかということであった。すべてが進歩しているのであろうか。停滞し、退歩し、同時に失われてゆきつつあるものも多いのではないかと思う。失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであったのだろうか。進歩に対する迷が退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向わしめつつあるのではないかと思うことがある。進歩のかげに退歩しつつあるものをも見定めてゆくことこそ、今われわれに課せられているもっとも重要な課題ではないかと思う。少なくも人間一人一人の身のまわりのことについての処理の能力は過去にくらべて著しく劣っているように思う。物を見る眼すらがにぶっているように思うことが多い。多くの人がいま忘れ去ろうとしていることをもう一度ほりおこして見たいのは、あるいはその中に重要な価値や意味が含まれておりはしないかと思うからである。しかもなお古いことを持ちこたえているのは主流を闊歩している人たちではなく、片隅で押しながされながら生活を守っている人たちに多い。大事なことを見失ったために、取りかえしのつかなくなることも多い。猿の調教を見ていて、今日の人間の教育にすら、何かが失われているように思えることがある。人間は人間であると共に動物であるのだということを考えさせられた。これからさきも人間は長い道をあるいてゆかなければならないが、何が進歩であるのかということへの反省はたえずなされなければならないのではないかと思っている。

私も全く、今の時代に対してそう思うということは、そう思う人は、どの時代にも必ずいた・・・ということなのでしょうか。つまりは時代の流れとは関係なく、どこか懐古主義というか、そういう考え方なのかもしれないと、自戒の念をもって思いました。しかし、私も全くそう思います。











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