「キャパとゲルダ ふたりの戦場カメラマン」 マーク・アロンソン&マリナ・ブドーズ
キャパ・・・!は、ゲルダだったのですね・・・!と、思わず、誰かに言いたくなるような話でした。戦場の記録、そしてラブストーリーとして読んでもいいような青春でした。ですが、”ス・ソワール紙の編集長はこう言っている。「彼は無鉄砲なほどの勇気と若さにあふれた、ほんとうにすばらしい青年だった。だが、戦争が彼の青春を殺してしまった」と。” の通り、異常だからこそな時代を、異常な行為で、そして大きな愛と心で生きた人生だったように感じました。
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“この日、アンドレが昔からの友人にもちかけられたのは、スイスのある保険会社が、いかにもドイツ人らしい、青い目をした金髪でショートヘアの若い女性の写真をほしがっているという話だった。”
おーっゲルダとの出会いは、撮影のナンパ!( 実際に声をかけたのは、ゲルダ本人へではなく一緒にいた友人 )
“Dデイ(第二次世界大戦において1944年6月6日にアメリカ、イギリス、カナダの連合軍がノルマンディー海岸へ上陸した日)に兵士たちとともに上陸する。いかにも、ロバート・キャパらしかった。むこうみずで、ギャンブル好き、スターカメラマン、そして話上手だったから、おそらく彼の英雄識には多少の尾ひれがついているだろう。この日の出来事の克明な記録に疑問をもつ専門家もいるかもしれない。どこまでが真実なのかは知るよしもないが、キャパが驚くほど頭戦だったことは、だれもが認めている。しかし、伝説となったロバート・キャパも、もとは、金に困った、みすぼらしいなりの若者だった。”
へぇー・・・と思いながらも、冒頭の気軽に声をかける感じだったり、自分のことを全然卑下しなさそうなあたりから、すごく人物像が、すでに見える気がしました。ゲルダと一緒にいられるようになって・・・
“人生でこんなに幸せだったことはない!」アンドレは、やはりハンガリー出身の写真家で、師と熟っていたアンドレ・ケルテスにこう言っている。「もう、ゲルダとぼくを引きはなすことができるのは、[墓穴を掘る]つるはしとしかない」”
ケルテスと同じ時代なのですね。ここらへんの時代感も、私は全くなく・・・なまんまでした。というか、ここでは”アンドレ”誰だい?って感じですが、普通に考えて後のキャパとなる方なのだろうと。それは、WOLSでもそうですね。母から届く帰国要請 (ナチ政府下強制的で書かされていたもの) を断り続けたオットー = WOLS。ナチスから逃れようと、改名するのは、よく聞く話です。
“アンドレとゲルタには、運を引きよせられるかもしれない大それた方法がひとつあった。名前を変える、という手だ。決めたのはどちらなのか、はっきりとはわからないが、おそらくゲルタではないか。頭のいいゲルタは、名前がもつ力を計算していたのだろう。二人は、もっと写真でかせぐための計略を編みだした。それは、ゲルタが製居を打ち、ロバート・キャパという名の、総獄で著名なアメリカ人写真家が堪熟した写真を売りとむというもので、キャパの写真は1枚150フランは下らない、という設定だった。ゲルタもまた名前を変えることにした。ゲルタ・ポホリレを、ゲルダ・タローにするのだ。この名前には、どこか女優のグレタ・ガルボに通じるはなやかさがある。”
げ!そんな話!?すごすぎる。詐欺じゃん。
“新しい名前は、人を惹きつけて魅了する力を二人に与えた。キャパは自分の新しい名前について、母親にあててこう書いている。「ぼくはほとんど生まれ直したと言ってもいい。」 ーーー この企みは大眠な行為だった。だれかが、なかなか姿を見せないロバート・キャパという人物に会いたいと言っても、ゲルダは、キャパはあちこち飛びまわっている、とはぐらかし、代わりに黒髪の助手「アンドレ」をうかがわせましょう、と申しでた。マリア・アイスナーは、ゲルダがもってくる写真を見て疑いをもった。そして、写真はアンドレのものだと確肩したが、だまっているととにした。それに、「キャパ」の写真は、とくに政治情勢が緊進してくるにつれ、ますます売れるようになっていたのだ。”
へーー!上手くいくもんなのですね 笑 すごい頭いいなぁ・・。でも、戦場で撮影をするくらいなのだから、それくらいの肝が据わっていないと(遊びがないと)、きっと普通な生活とも言えないのでしょうね。
“ブレッソンは、長身で本好き、毎朝共産党系の新聞に目を通す知識人で、およそキャパの友人とは思えなかった。だが、二人は一緒にいる時間を楽しみ、よくカフェで政治の話をしたり、仕事の情報を交換したりした。”
ブレッソンとも交流があったんですね。ここもまた、時代がごちゃごちゃ。にしても、戦場カメラマンとブレッソン。同じ写真でも、全く違う・・・わけじゃない。決定的瞬間的な撮影方法で、お互いに共通項は多分にあったように感じます。一体どういう仲で具体的にどんな話をしたのかとても気になりますね。たとえば、ブレッソンが戦場カメラマンだったら・・・・
“スペインのジャーナリスト、クレメンテ・シモーラは、ちょうどこのころ、コルドが選を移動中だった二人を見て、こう評している。「まるで子どものようだった。手にはカメラ以外のものはほとんどもたず、飛行機が頭上で危なっかしげに急降下する様子を、恐怖心のかけらも見せずにながめていた」”
えーーっと驚きながらも、冷静によく考えてみると、キャパの写真は、確かにあんまり恐怖みたいなものは感じない。生活としての戦争というか。それは自分が恐怖をあまり感じていない、感じていたとしても、写真を撮ることを能動的に最優先していたからなのでしょう。
“その一方で、タローは心の奥底で、自分はチャンスを逃したのだ、とすぐに気づいた。その誕生に力を貸してやった「キャパ」のせいで、タロー自身の影は薄くなってしまった。再びスペインへ行き、失われた時間をとりもどさなければならない。自分はまだ、写真界で名を知られていない。タローにとっては、撮影した写真の下に自分の名前が必ず載るようになることこそが名誉であり、自己実現の証だった。タローは友人のルート・ツェルフに、名前を載せてもらえないことは「屈辱だ」と打ちあけている。明らかに、胸中の不満が大きくなっていた。”
ほー、そんなにタローさんは、自分の写真が世に出ること、名声を浴びることに執着していたのですね。それは、マグナムを作る上でも、大事な出来事なのではなかったのでしょうか。
“キャパとタローは、仕事仲間としても、写真家としても、すぐに以前のリズムをとりもどした。キャパはタローに恋愛感情をいだいていたので、自分の評価が高まってくると、おくれをとっているとタローが感じないよう気を配った。そして、タローが写真家としての実績を伸ばせるよう、とれ以上ないプレゼントを二つ贈った”
素晴らしい関係ですね。仕事のパートナーであり、恋愛する恋人同士であり。ちゃんとキャパはタローを、フォローしていた。もっと上手く撮れるように、カメラまでプレゼントするなんて。
“キャパもタローもシムも、撮った写真に自分の名前をつけてもらうことを常に強く求めていたわけではない。たしかに、ノートを作り、そこにベタ焼きした写真を貼りつけて、編集者に自分たちの取材対象がどういうものなのかをつかんでもらっていた。しかし、その一方で、撮影した写真が、雑誌のページ構成のために一部を切りとられたり、形を変えて使われたり、組みあわされたりすることも理解していた。雑誌には撮影者の名前が載ることもあれば、のらないこともある。
この業界に食いこんでいこうとする新人写真家として、キャパとタローは、写真に撮影者の名前をつけてもらうことの重要性をわかっていた。なぜなら、それによって自分たちの評価が上がり、結果として仕事がふえたり、編集者との関係を築いたりできるからだ。”
なるほど・・・、結果として仕事が増えたりする。これは大事ですよね。そのために写真を撮っていたようなものなので。
“キャパは走らなかった。そのままそこにいて、シャッターを切りつづけている。「気がつくと周囲は大混乱になっていた・・・キャパは落ちついて人々の表情をカメラにおさめていく。やがて通りから人影が消え、一人残っていた、ライフルを手にしたグアルディア(警察官)が、避難しろ、とわれわれをせきたてた。立ちつくすキャパは暗い目をして、無表情だった顔をゆがめた」なにがキャパをこうしたましい行為に駆りたてたのだろう? ユンカース爆撃機が空を切り裂こうとしている時に、どうしてその場に飛びこみ、シャッターを切りつづけることができたのだろうか?のちに、キャパはよくこう言っていた。「写真にどこか足りないところがあるとしたら、それは、十分に近づいていないからだ」この言葉は、よい戦争カメラマンになるためには、命知らずの雷険家になって、常に危険にむかって行かなければならない、という意味に解釈されることが多い。たしかに、キャパの性格は戦争写真にむいていただろう。衝動的で、じっとしていられず、行動の人だった。”
やばい人ですね!!!笑 「写真にどこか足りないところがあるとしたら、それは、十分に近づいていないからだ」これは、写真学校のスナップでも言われることですが、戦場となると、それは命がかかってくる。(スナップももちろん時に命がかかってきちゃう場合もありますが)。誰も言っていないのに、そこまでの写真を追い求めているのは、尋常じゃありません。園子温監督の「地獄でなぜ悪い」の最後の映画撮影シーンみたいな。自分が死んだってイイみたいな・・でもそれとも違うんですよね。盲目さを感じます。
“キャパとタローは前線へおもむき、下の谷間で起きている数しい戦略を撮熟したいと思っていた。しかし、その前に、兵士たちに戦闘場面を演じてもらい、キャパがそれを映画用に撮影したい、と申しいれた。このように実戦場面をまねて演じさせることは、当時のドキュメンタリー映画の制作手法としてはよくあることだった。大隊は、実際、四月にこの村を税還していたので、その時の様子を再現することになった。ここでもまた、報道と政治宜伝の境界はあいまいだ。映画撮影ということで、兵士たちは湧きたった。カメラの前で胸を張り、大まじめな顔をしてみせた。その後、キャパは兵士たちに指示し、攻撃を受けた場面を演じてもらった。ライフル州をかまえて道を行進していた兵士たちが、走りだし、敵の難をさけるかのように石城の殿に回っていく。さらに、一団となって中庭を横切り、人影のない、鉄職で穴だらけの道を走っていった。キャパは映画用の撮影を行い、タローは写真を撮った。夜明け前、二人は本物の前線にいた。そして、カントロヴィッチは、兵士たちがみな、タローのために身ぎれいにしていることに気づき、「それまで、あれほどたくさんの兵士たちがきちんと齢をそっているのを見たことがなかった」と言っている。”
なんじゃそりゃ!!まさしく、その園子温監督の「地獄でなぜ悪い」ですね。リアルが映画になってしまう。戦場で演技をするなんて、なんというか、本当のロケ現場というか、でも、それくらいに戦争というものが日常で、あたり前のことだったんですよね。それを強く感じる話です。つまりは人が殺し合うのが、映画を撮るように日常だった。
“「彼女はりきっていた」と、カントロヴィッチは書いている。「ファシスト軍のすさまじい炭響を受けている時でも、前線に自分の姿があれば、味方の疲れきった兵士たちにとって、それは軍旗のような役目を果たすのだと。彼女自身の男気や熱意が発する魔法のような力が、兵士たちの士気を高め、手薄で浮き足だつ国際旅団の戦列に次なる行動を促す力になると」「ラ・ペケーニャ・ルビア」兵士たちは、タローをそう呼んだ。「小柄な金髪娘」と。”
もう、ジャンヌダルクみたいな感じですね。誰よりも、兵士を鼓舞させている存在だったのでしょう。勝利の女神、平和への女神。過信でもなく、実際そう見えていたに違いありません。
“気温が40度近くまで上がった。タローはとりつかれたようだった。記事をものにすると決めると、朝早く起き、アリアンサを出る時には重い映画用カメラと、鍼強であちとち傷ついた三脚を引きずっていった。前線への足を確保するため、検閲官に花を買っていき、強引にたのみこんだ。タローの撮ったブルネテの写真は力強く、躍動感にあふれている。そして、タローがそういう写真を撮るために、どれだけの覚悟をしていたのかを示していた。”
止まること知りませんね。ちょっと休憩して、、、、みたいな話がないのが、この時代なのでしょう。そして、最前線を撮りたい、というのは、ここでしか撮れないものを・・・!という、写真家の共通する思い、それはブレッソンも同じように写真を片手にフラヌールしていたことだとは思うのです。
“サーシュミットが数機飛来して爆弾を落とした。周囲の地面がびりびりふるえ、二人はここで死ぬことを覚悟した。
すると、ふいにタローがくるりと上を向き、戦闘機の写真を撮りはじめた。そして冗談まじりに、「もしわたしたちがここを出られたら、とりあえずこれで、不干渉委員会に見せてやるものはできたわ」と言った。また、トラックが攻撃を受けて災上した時には、タローは、熱でレンズの前がかすむのもかまわず、この時タローが撮影した写真は、それまでのどの写真ともまったく異なっていた。不気味で、露出オーバーや手ぶれ、ピンぼけもある。そこには、ファッションや外見を重視する、技巧的な若い女性写真家の影はない。構図の意識や細かい気くばりもかなぐり捨てていた。ぜい肉がそぎちている。タローは教しい戦のさなか、銃の代わりにカメラをかもは、すべてをありのままにとらえている。”
もうどうしましょう。兵士も呆れちゃうくらいに取り憑かれていますね。緊張と緩和の中で、多大なるアドレナリンが出てしまっているのでしょう。そうじゃなきゃ説明がつきない感じです。もう神に近い怖さのような・・?
“事の黒塗りの大型車を見つけたタローたちは、マドリードへもどる途中まででも乗せていってもらえないかと思いながら、手を上げて止めてみた。だが、中を見ると、後部座席では負傷兵たちがぐったりしていた。タローは、全員に「お大事に」と声をかけ、カメラを車内におかせてもらうと、自分はドア下のステップに足をかけて車の外側に立ったので、アランもタローのうしろに同じように立った。車が速度を上げると、タローは自分の身の安全よりもカメラの心配をした。「今夜はマドリードで送別会をひらきましょう」タローはアランにむかって噛んだ。「シャンパンは買ってあるから」。突然、ドイツ軍機が数機、地平線上に黒いカラスの群れのように現れた。運転手はハンドルをにぎりしめ、座席で頭を低くしたので、前が見えなくなった。そこへ、いきなり、味方の戦車が大きく曲がりながら接近し、将軍の専用車をはじきとばした。アランは投げだされて溝の中に落ち、意識がもうろうとなった。そして、軽くて小柄なタローは、車からふりおとされた。そとへ戦車が轟音をたてて進んできた。タローは脳のあたりを戦車の金属製のキャタピラにひかれてしまった。”ーーー病院には、ひと晩中、負傷者が突々に運びこまれていた。タローはモルヒネを与され、目をとじて安らかな死を迎えた。”
後部座席では負傷兵たちへ、あえて軽そうな労いの言葉をかけつつも、、、そんな事故?が。キャタピラーなんかに轢かれてしまったら、それはもう。。。。
“パリ七月二十七日朝、キャパは、いつになく早く目がさめた。不安だったのだ。ゲルダは帰ってこないし、電報もよこさない。前夜、アリアンサに電話をかけたが、だれも出なかった。キャパはフランス共産党の機関紙「ユマニテ」を手にとったものの、すぐには読まなかった。歯医者の予約があったのだ。キャパは新聞を小脇にはさみ、緑豊かな夏の並木道を足早に歩いていった。三ページに載っていた記事を読んだのは、待合室に入ってからだった。「フランス人記者、タロー蠣、ブルネテ述での戦闘で死亡した模様」キャパはアパートに駆けもどり、ようやく、ス・ソワールの編集者と連絡をつけた。ほんとうだ、と、編集者は言った。ゲルダは死んだ、と。キャパは耐えきれず、その場にくずれおちた。友人たちがサンドイッチや果物をもってきてはげまそうとしたが、キャパは悲しみでひどく心を乱し、なぐさめようがなかった。”
思わず、私も涙ぐんでしまいました。きっと自分と出会わなければ戦場へ行くこともなく、死ぬこともなかったと自分を責めたであろうキャパを思って。死なないことが奇跡続きだったはずなんだけれども、それでもどうしても。。。
“キャパは泣きどおしだった。ス・ソワール紙の編集長はこう言っている。「彼は無鉄砲なほどの勇気と若さにあふれた、ほんとうにすばらしい青年だった。だが、戦争が彼の青春を殺してしまった」と。”
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“モリス(ライフ)は用意周到に手はずを整えていた。キャパの写真をプリントして機影を通し、アメリカ行きの最初の航空便に乗せて、すでにニューヨークで印刷が始まっている六月十二日号に掲載しなければならない。「わたしは感じていました・・・・・・・世界中がこの写真を待っている、と」のちにモリスは、この時のことを、よくそう言ってふりかえった。ほかの写真家たちが撮った写真は届いていたが、どれも遠くから写したものばかりで、上陸時の戦闘場面を近くで撮ったものはなかった。「急げ、急げ、急げ!」モリスは暗室助手にどなり、現像をせかした。数分後、助手が泣きながらやってきた。「だめだ!フィルムがだめになった!」なにか問題があったのだろう。波しぶきのせいかもしれないし、フィルムがちゃんと巻きとれていなかったのか、あるいは暗室の熱のせいかもしれない。キャパが撮影した三本、もしくは四本のフィルムロールのうち、現像できたのはわずか十カットだった。それでも、その十枚はやはりすばらしい写真だった。乱れた画像も逆に緊張感を生んでいる。”
これが、言わずと世に知れていた、ノルマンディー上陸作戦の写真ですね。その、助手がフィルムをダメにした話は知ってましたが、、、ここでふと、なぜ人々は写真にそんなに熱狂するのか。それは事実を証明するものだから?人が写っていてば、その実在する人のことだし、表情を見れば、元気かどうかもわかる。同じように戦場をみれば、どういった状況かもわかるから・・・勝ちたいそれぞれの国にとって現状を、映像として知れることを、音声よりもリアルに伝わるからなのでしょうか。今では、youtubeで映像で配信されて、それもあっという間に世界中に伝わる。それって一体、どういうことなのでしょう。。。つまりは、タイムマシーン、ワープなのかと。自分の体がワープできないから、誰かが撮影したものを、共有することで、自分がさも、そこへ行ってきたような気になれる。だから、みたい!という思いが生まれる。。。より、前線の兵士の気持ちになってみたい・・・!というのは、それくらいに勝つぞー!!という思いがあったという裏付けですよね。
そうして、マグナムを結成したのちに・・・
“そんな中、1954年の初め、キャパを元気づける電話が入った。日本での長期にわたる仕事の話だった。そして日本滞在中に、キャパは、インドシナ情勢の取材という新たな可能性に興味をもつ。”
この先のことを読んだあとから思うと、やめといたら良かったのに〜〜!と、叫びたくなっちゃいます。もう戦場は嫌だって言ってたくせにー!と。
“キャパは道ぞいに歩き、いったん限のような小川におりてから、また、前進する兵士たちにむかって引きかえしてきた。2台のカメラで、1台はカラー、もう1台は白黒フィルムを入れてあったし何枚か写真を撮った。ちょうど、道路にむかって斜面を登ってもどってくる時、キャパは地雷をふみ、地面に投げだされた。脚が吹きとび、胸をえぐられていた。ロバート・キャパは、インドシナ戦争で命を落とした最初のジャーナリストだった。”
・・・・・。ベトナム軍などが推定400万~600万発の地雷を埋設したとされており、現在も地雷の撤去が続いているとの、インドシナ。おそろしいです。。。
ふいに「地雷を踏んだらサヨウナラ」を思い出してしまいましたが、これもまた報道写真家・一ノ瀬泰造さんが残した書簡などをまとめた書籍からの映画だったのですね。彼もまた、消息不明になった彼の写真をお母様がプリントされて・・・という、なんとも胸が締め付けられる思いばかりです。けれどもキャパは、ゲルダとの戦場での撮影は、撮影であると同時になにかデートでもあるような・・・、この狂った時代の中で、でも本人が楽しく過ごせるか、、、という、盛大なる社会との遊びを、カメラというフィルターを通じて真摯にしていった方なのかな・・・。
また細江さんですが、カメラがなかったら、あんなに大胆に色々とできない。ようなことも書いてあったので、戦場で無敵状態になれていたのも、それはカメラがあったからこそなのですね。今の現代でカメラを構えることは、果たして、無敵と言えるでしょうか・・・?なにか、無敵の反対のような気がします。
また細江さんですが、カメラがなかったら、あんなに大胆に色々とできない。ようなことも書いてあったので、戦場で無敵状態になれていたのも、それはカメラがあったからこそなのですね。今の現代でカメラを構えることは、果たして、無敵と言えるでしょうか・・・?なにか、無敵の反対のような気がします。