「昭和写真劇場」 岡井 耀毅





『アサヒカメラ』編集長などを歴任していた岡井 耀毅さんの視点で、すごく濃いー裏話な内容でした。昭和、消えていく「村」からの・・・「廃墟」視点は、思いもよらなかったつながりで、でも考えてみればそうだよなと。木村伊兵衛さんとの話から、今の木村伊兵衛賞にしても、アサヒカメラの雑誌が時代を作っていったんだなぁ、日本写真の方向を決定づけさせていたんだろうなぁと、このカメラ大国を見ていると思っちゃいます。テクニカルな部分って、全然知らないので、実際の写真家のみなさんの声というのは面白かったので、過去のアサカメを見たいと思います。 

     

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“原爆検閲の理由ははっきりしていた。旧ソ連の核開発を恐れるアメリカの安全保障の見地から原爆に関するいっさいの情報秘匿が最優先にされた。また、占領目的を阻害する反米感情をあおるような要素は根絶しなければならなかったし、国際的にもアメリカに対する非人道的な印象を与えかねない原爆報道(残虐無比な描写や放射能の影響についてのリアルな表現)はいっさい容認できないというのであった。

   

注目されるのは、51年まで占領下の足掛け7年間、原爆写真に関してだけは、それこそ蟻の一穴ともいえるほどのきびしい検閲の下にいっさい陽の目を見なかったという事実である。はじめて原爆写真が公開されたのは、サンフランシスコ平和条約が日米安保条約と抱き合わせで発効してまがりなりにも独立国の体裁をととのえてから3カ月後の1952年(昭和27)の「アサヒグラフ』(8月6日号)の誌上においてであった。同誌は、「原爆被害の初公開」のタイトルの下に、「広島・原爆犠牲都市第一号」という大見出しをかかげて、悲惨きわまりない全身焼けただれた被爆死や傷ついた市民の行列、壊滅した市街の焼け野原などの写真群を掲載した。その言語を絶する惨禍の写真は異常な衝撃を与え、4回にわたって増刷して七70万部を売り切った。AP通信が世界に打電し、日本ペンクラブによる「全世界に『アサヒグラフ』を送れ」運動が起こった。”

 

“ー類ニ無事チ殺傷シ…・・・・・終戦に関する勅語の一節をつぶやいて、壁ぎわでクルリと向きをかえた伊沢氏は、一「やりましょう!八月六日号の全頁をあげて、このむごたらしさを余すところなく、世界の人々に見せてやりましょう』編集会議は、伊沢氏の一言でついに決した」”

  

戦争の悲惨さを、こうやって知れている今には、写真という視覚情報がある。もちろんそれを撮った人がいたからなわけで。厳しい検閲・・・がなく、その当時のそのまま出ていたとしたら、もしかして怒りは世界中に広がり、戦争は続いてしまっていたかもしれないとも思いながらも、7年もの時間が経っての、目の当たりにするのは、実際に起きたことなのか・・・?と、いう何か、現実味も薄れたことによって、見ることができるようになれたかとも思う。でも、だからこそ「みろ!」と世界中に送ったというのも、それくらいの熱量がなければ、時間を埋めてくれてはいなかったかとも思う。敗戦直後すぐに出したならば、その熱量は戦争へと向いてしまっていたかと思うのです。たとえば、コロナにしても・・・・そういった期間があっての情報公開ってのはありえるなぁ・・と感じました。写真と時間の関係性というのは、経過することによって写真の見え方が変わるという、やっぱり時間軸はどうしても。

  

“結局、松重美人は、中心部の写真を撮ることができなかった。「私だけが生き残った、と思うと写真にすることが忍びなかったのである」と述懐している。

  

「ほんとうは、恐ろしくてシャッターが切れなかったのです。私は中国新聞社に入って、まだ二年目で経験も浅く、記者魂に打ち込んでいなかったからと思います。(中略)当時、死体や残虐な写真は新聞に載せないという、プレスコードのような軍からの達しがありました。そんなことと私の臆病もつきまとって写すことができなかったのだと思います」。松重が撮影したのは、わずか5枚。”

  

そうなのだ。写真は一人歩きしてしまうが、撮影した本人は、写せないものばかりをもっと見ている。その「写せないもの」が写っていないからこそ、写真は意味があると思う。何を撮れなかったのか。私たちは、そして何を見れているのか。

 

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“誌面に一種のリズミカルなひびきが乗ってきている。その頃、小安は嘉治隆一局長にこう言っている。「さすがに映画で鍛えられただけあって、津村さん、写真を見る眼をお持ちですよ」「そんなこと言うもんじゃないよ。君の上司じゃないか」そう言いながら快調の「アサヒカメラ」に嘉治の目もなこんでいた。

  

津村秀夫の編集方針は大きく言って次の五本柱だったと思われる。

1. 「復刊の辞」で述べているように、海外の写真作品や写真事情の積極的な紹介と技術の吸収消化

2. すぐれた写真家の発掘と育成

3. 戦前のようなせまい写理的な視野から大きく社会全般を見渡す眼を獲得するなかで写真表現の可能性をいっそう追求する

  

1.アマチュア写真の振興

2.いい写真を撮るためのメカニズムの重視と基本操作の習練への助言”

  

“こうして津村秀夫編集長は新人育成に精力を注ぐ一方では、テーマ性豊かな社会観察のヒューマンドキュメント路線を追求していったが、その根底には、津村秀夫が口ぐせのように言っていた”シャッター以前”という対象への考察を至上のものとする考え方があった。”

 

“サロニズム讃美の風潮があり、一方で数動期を反映した社会的リアリズム写真が台頭してくる中で、津村秀夫はアマチュア層に写真を撮る行為を通じて「現代」と向き合う姿勢に新しい感覚性を求めたといえよう。シャッターを切る前に「何を撮るか」「いかに撮るか」を思考するように唱導したのであった。” 

 

シャッター以前!これは現代アートにもつながるところなのに、全くのアートの話は出てこないのが面白い。鉄道雑誌は鉄道であるように、あくまで写真雑誌は写真なのである。

 

“「決定的瞬間」を掲載して大きな反響をまき起こした。当時、「アサヒカメラ」の愛読者だった奈良原一高はこう述べている。「当時はあまり海外の写真家に触れる機会がなかったので、海外作家紹介のページはむさぼるように見た記憶がある。そのころ好きになった作家や作品は、その後、僕の心から消えることはない」”

 

アサヒカメラ新編集長によって、アマチュア写真家のテクニックと意欲が上がったこと(技術アップと発表の場があったこと)は、今のカメラ写真大国日本に大きく関係ありそうですー。海外の写真を見るきっかけがいかに少なかったのか。。。それは細江さんがスタイケンの写真集を食い入るように見たということもまた、同じで。それって今は、どうなのでしょうか?mapでどこでも見れて、xやインスタで、なんでも世界中の”今”を知れますが、それは、その熱中することとは全く違う。その違いというのは「これしかない」と、「無限にある」で。これしかないという中の1つが「アサヒカメラ」という雑誌だったんだと思うのです。それしかないから繰り返し見る、それしかない中で、自分の頭で考える。それが良かった。short動画数はもうほぼ無限にあって流して、ついつい見てしまいますが、なぜか何も残りません。

見るもの、知るものに「物理的な制限がある」ということは、私たち人間が表現する上では、なにか良い環境だとも思うんです。柴田さんが、カメラを変えて作風が変わっていったように、制限があることで、表現の幅が、決まり、代わり、増えていくような気がします。その制限の幅が、”ページ数”と”関わる人達”だとして、多様な個性と制限とがぶつかり合って生まれていたのがこの時代のアサヒカメラだったんですね。

       

“1954年ころには、海外写真紹介は写真雑誌一般の大きなテーマの一つとなり、同じ新聞社

系の『カメラ毎日』も最重点に据えて挑戦してきた。ロバート・キャパ「日本の第一印象」をはじめ、フィリップ・シャルボニエ、ウエルナー・ビショッフ、ブレット・ウエストン、アンリ・カルティエ=ブレッソン、コーネル・キャパなどの傑作がつぎつぎに掲載された。これに対抗するように津村編集長が打ち出したのが写真界でも戦後はじめての独自の海外撮影であった。まず、その一番手に木村伊兵衛を起用してヨーロッパへ派遣したのである。”

 

すごいことですね。若手の有望な写真家を海外へ連れていく。。。これは、石原さんもきっと、ここに感銘を受けて?やっていたのかもしれません。

 

“「アサヒカメラ』に協力してきた願問格の面々は、あげてこの「独占契約」を支持した。伊奈信男はこう述べた。

 

「木村君はむかしから、だれかにシリをひっぱたかれないと、あまり仕事をしない人だった。最近でもこの傾向が残っているから、特約をすれば、それが刺数になっていい仕事をすると思う。

(中略)これから作品を作ってゆくのに、周りであまり狭い範囲を決めてはいけない。『日本人』というのは、その意味でいいと思う。銀座の小商人の顔はこうだ、東北の農民の顔はこうだ、漁民の顔はこうだ、というふうに、日本人の典型が取り出され、浮彫りにされてくると面白い(後

略)」


浦松佐美太郎の見解は、こうだ。

「木村伊兵衛さんが特約をしたのは、大変、結構なことだと思う。ほかの写真作家も、そうならなければウソだ。(中略)写真雑誌は今までのままだと、どの雑誌も同じようなものになってしまう。この雑誌はだれ、あの雑誌はだれというように、特定の作家が決まって、はじめて、その雑誌の特色が発揮されるだろう。こんどの特約は、そのきっかけを作るもので、写真界のために喜ぶべきことだ。


金丸重嶺もこう述べている。

「有能な作家と特約するということは、外国では珍しくない。日本では最初のことなので、独占といった感じがあるかも知れないが、私はそうは思わない。近ごろのように写真雑誌の数が多くなると、作家はどうしても乱作におちいりやすい。いい作品を作ってほしい天分のある人も、不本意なものを発表して、自滅するそれがある。(中略)木村伊兵衛氏が、写真界の頂点におかれているために、多くの関係者とやりとりをしなければならず、それで作家活動を妨げられるのを、私はかねがね心配していた。こういうわずらわしさから解放されて、思う存分、自分の作品を作れるのは、一番望ましく、非常に期待している(後略)」”


すごい!みんな肯定的!つまりは、エージェンシーを立ち上げて自分の価値を高めるようなことと同じようなことかと。それに”だれかにシリをひっぱたかれないと、あまり仕事をしない人だった” ならば、尚更ですね 笑 これもまた自由ではない制限からですね。報道なら報道、スポーツならスポーツ、そういう枠の中でこそ、生まれる凄さってのは、絶対あると思います。その枠が窮屈になるくらいの時に、ジャンルに関係なく同じ写真としての面白さが出てくるというか。。。別に写真じゃなくてもそれは同じで、巨匠たちはその上のあたりでいつも話が、ツーカーになる印象です。


“長野重一は当時をふり返ってこう述懐している。


「伴さんの編集感覚というか、センスというか、とにかく抜群でしたよ。僕なんてまだあの頃新人になりたてのヒヨッ子だったわけでしょ、それをポンともってきて、いきなり一年間の長期連載でしょう。ああいうひろい社会的な視野に立った編集長がいたから僕なんか世に早く出られたという一面もあるんですよ」”


“小安正直は、なによりもカメラ通であり、アマチュア層の関心の在り様を誰よりも熟知していた。部員時代の小安正直が接した松野志気雄といえば、つぎつぎに部数を伸ばしていく名編集長で、戦前の「アサヒカメラ』の隆盛を築きあげた功績を高く評価されているが、小安の松野編集長に対する敬意はのちのちまで、いささかも失われず、「僕は松野さんの薫陶をうけました。写真以外のことでも、写真を使って何ができるかというようなことの楽しみ方や撮り方などをいろいろ勉強させられた。いつもベビーパールをもって撮っていましたが、いまでいえば、バカチョンですかね。そういうことができる人でした」

 

逆にいえば、小安正直からみれば、伴俊彦の発想力や編集センスには感嘆すべき点が多々あったが、松野志気雄のようにアマチュア読者とともに写真を撮って楽しみ、ともに写真を論するというアマチュア本位の編集ベースが失われていたということになる。その点、小安正直はオーソドックスであった。メカニズム関係の企画記事や月例コンテストなどをいっそう強化して読者の関心にじかに添うような編集方針に戻していった。”

  

そんなすごい津村秀夫編集長から、二代目を任された井伏鱒二好きで顔の広いモダンボーイ伴さん。敗戦後の6年間のアサヒグラフを編集長をしていた。企画した「ニューフェイス診断室」は、新しいカメラの機能とかへの診断なのですね。なるほど・・・。「あなたも批評家」という、記事もすごいですね・・・!今やっても斬新な企画だなと感じます。そして、小安正直さんは温和温厚な人柄だったらしく、平衡感覚の持ち主。木村伊兵衛を独占なんてってのは、できないような方だったとあれば、アサヒカメラのバランス、抜擢する決め手がやっぱり写真への愛、実力という感じで、とにかくパワーがすごいなー。( すごいしか言ってない・・)


“「昭和十五年には、オリンピック大会が東京で開催される期待をもって、山川をリーダーとして体協に山川・土門・若松を嘱託として登録した。明治神宮競技場では、陸上競技のスタートラインで土門があまりにも前に出てくるので、スターターが怒って土門に退場を命じた事件があり、それ以後土門はスポーツ写真から遠ざかってしまった。”


“前へ前へ出ていく土門拳の話はまことに土門らしい一面が出ている。新聞社間の撮影協定の一定の線など土門にとっては問題外で、まわりから怒鳴られてもどこ吹く風で、「写真は一瞬しかない。自分自身がシャッターなんだ」とつねづね言っていた土門の面目躍如の一シーンではなかったか。木村伊兵衛もしばしばスポーツ写真を撮っていた。当時のカメラ性能を嘆いた失敗談がある。

「ぼくが驚いたのはね、1936年のオリンピックの時に棒高跳びがあったでしょう。西田修平選手が出た。あれを初めてツァイスのつくった反射望遠で撮ったんですよ。ところがボケたときに、棒高跳びの棒が一本のはずなのに二本もあるんだ。棒高跳びの棒が二本なんてますかったね、あれは」”


めっちゃ、個性ですぎててウケますね 笑 見てみてかった!!

 

“人間のもつとも飾らない喜怒哀楽がスポーツにはもろに出てくる。闘争心とか執念のような純粋なものをできるかぎり記録したい欲望につきあげられた」こうした人間性の内面までもえぐり撮りたい表現衝動は、たんなる競技の「記録主義」では満足しきれないスポーツ写真家としての作家の眼の要求でもあっただろう。その頃、吉江雅祥たち朝日新聞出版局のカメラマンもまた、相撲の「決まり手」ばかりの撮影に疑いを抱いていた。新聞の方の写真が「決まり手」なら、出版の方の写真は、決まり手からずれたところで撮ってみようではないかということだった。勝負の決まった瞬間より立ち合いの壮烈な当たりの方が凄いし、決まり手を撮ったつもりがタイム・ラグの遅れで両力士ともひっくり返っている「失敗作」の方がはるかに人間味が出ていて面白い。のちのテレビ時代には、こんな光景は見なれてしまってなんでもないが、当時はとても新鮮な驚きがあったのだ。中谷吉隆の記憶によると、相撲などは砂かぶりの至近距離で、しかもフラッシュバルブからストロボになってからは、かなり自在に撮れるようになったが、フィルムはまだ一枚ずつのスピグラだからどうしても一発必中の「決まり手」指向になってしまう。”

 

“メルメットがすっ飛んだ刹那のスピーディな写真。いかにも奔放自在な長嶋の個性あふれる瞬間だったが、「サンケイスポーツ』では没になった写真だった。岡崎満義は表紙写真はこれしかないと思ったが、「こんな空振りの写真は使えないんじゃないか」という編集部内の否定ムードも、一応もっともで、迷いに迷った。半半疑ながら、ついに決断したとき、岡崎はこう思った。「スポーツ新聞の写真というのは、要するに結果説明であって、雑誌ではそんな説明はいらない。もっと人間性のあふれた選手の個性や本質がズバリ出ている写真を選ぶべきではないか」つまり、岡崎の達した結論は、古典化した「決まり手」の拒否であった。それがスポーツ写真に感動できる根源ではないかということだったであろう。岡崎の賭けは当たった。話題沸騰の表紙となった。「それではじめて『ナンバー』がスポーツ写真の雑誌の世界で市民権を得ました」”



フラッシュバルブが割れたり、フィルム交換であったり、カメラの性能からしても ”決め手”を重視しないと、使える写真を試合中の短い時間で撮れなかったスポーツ写真。一発勝負ですね。そんな日本の状況だったのに対して、アメリカなどはバンバン撮ってフィルムの空き箱を山のように捨てていた、東京オリンピック。オリンピックはかなりは規制されて、フラッシュNGみたいなところから、一眼レフが多用されて、、、スポーツ写真も面白いですなぁ・・・。

  

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“柳沢という写真家と私は、かなりつき合った一時期がある。過敏なほどの繊細な感性を抱きかかえて、孤絶した自己領域の中にひたすらこもって、それでいて放胆な視座をあやつる個性。ナイーブな視線でなんでもない町村や風物をみごとに心の隅に送り込む光景化の名手。私は傍らにいると、ときには、いまにも壊れそうな小さな爆発物の危うさを覚えたが、あれが柳沢の発する対象への測定レーダーだったのだろうか。”

  

“それらの柳沢の写真に写り込んでいる多くの光景は、東京オリンピック前後の高成長で急ピッチで変容していく列島の姿であるが、その変わりゆく中での屈折した街の陰影であったりもする。また、開発のかげに取り残される貧しい漁村であり、人々にちがいない。そんな過去の状況が、単なる残像ではなく、一種の凄みを帯びていきいきと立ち上がってくるのに私は感動したのだ。あるいは、人間的な風土感を喪ってしまった列島の今日的状況への深いため息が改めて懐旧の想いをそそって私を刺激したのかもしれない。それが「写真の力」であるなら、やはり「記録」と「記憶」のすさまじい交合反復の場であったはずである。”

 

へぇーそういう方だったのですね。にしても、やっぱり写真は今しか撮れないもの、消えていくものを取り留めておく・・・しかない?ものでもないような、でも、そういう特性ですよね・・・。

  

“「廃墟」への憧れ

失われていく風景を要惜する心象は、ある意味で生の痕跡をたどり、まさぐり、再確認していく在りし日々への引き返しだが、そうした心情の窮極の一つのあらわれは、いわゆる「廃墟」への憧れにも通するのだろうか。かつての生命体であるさまざまな工場や建造物や物体などの生活空間の無惨な遺影を感険するほどにうつくしく描き上げる異才に、小林伸一郎の名をあげるのになんのためらいもない。”

 

そっか!故郷がなくなるなら・・・次は廃墟…。すごく頷ける流れです。それが無意識的に惹かれていた世代だとしても、時代がそういう時代だったんだろうというので。逆に、意識的に惹かれていたとしても、廃墟 = (ほぼ)なにか懐かしい故郷のような匂いに惹かれているっていう、それが分かりやすく目に見えている故郷ではなく、廃墟化していても、そこには見えない何か暖かさ・・・という「人がいた」「人が暮らしていた」という残りであるならば、ポケモンが進化して変わってくみたいな、ケンチク→ フルサト→ハイキョ みたいな。

 

だから根は同じことか・・・と、すごい腑に落ちてしまいました。

 

フルサトにも、進化前のタンジョウの時代があって、たとえば新興住宅地を写真に収めたとしたら、それは「建築」写真に見えているかもしれない。でも、実は建築をとるというのも"フルサト"の初期の"ケンチク"であったりして・・・!? だから私たちは、建築へも、同じように惹かれてしまうのではないか。そして、暮らしていくうちに、何かが育ち生まれて、その生まれたものは、建物がボロボロになったとしても、土地だけになったとしてもそれは残っている。建築への興味を抱いた時点から、実はそれは、もう生まれているのかもしれません。。。

  

“木村 ー 秋山、大竹の三つの写真展を見て、つくづく思うのは、「昭和」という時代の貧困から繁楽まで重層的にひろがる構造の中で、一つにひびき合う共鳴帯が「幸福への希求」という上昇欲望ではなかったか、ということだ。アメリカから与えられた「自由」も「民主主義」も、いつの間にか、もともと身につけていたかのように錯覚して生きた後期昭和原人たちが、唯一獲ちとろうとしたのが「幸福」への階段であったのか。いまや完全に「昭和」は遠ざかっていくのである。秋山、大竹展は、その意味でも、戦後写真の終焉を飾る壮大な一大フィナーレだったと言えよう。”

なるほど・・・「解放」を主に、林忠彦が撮っていたように、この時代は幸福を求めて、求められる時代になったということへの喜びが、そのままに溢れているような。それが、きっと今から見ると「古い」と思ってしまうようなことは、ある意味で幸せになってしまった本当の「平和ボケ」を感じてしまっている裏返しなのだろう。 

   

幸せな状態から、もっと幸せを感じるには、一度不幸にならなければならない。。。なんだか今はそんな時代なのではなかろうか。

  

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