「写真の理論」 甲斐 義明 (編訳) 1
森山さんが撮った「ル・グラの窓からの眺め」だけで、もうわ〜なのですが、とにもかくにも英訳ありがとうございます・・・!という思いになりました。そして、わかりづらいところが多いままな部分を、解説していただけるのが、嬉しく、その解(甲斐)説文がとても読みやすく、腑に落ちて、なんとも深い方だなと感じました。(私の感想が浅すぎる)
( 長くなってしまったので、2つに分けて )
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● ジョン・シャーカフスキー
“写真を発明したのは科学者たちであり、画家たちであったが、その職業的実践者はそれとは随分異なった人たちであった。”
“写真は嘘をつくことができないと公衆はじていた。そして、写真家もそうじる、あるいはじたふりをするほうが楽だった。それゆえ、我々の眼が見たものは錯覚であり、カメラが見たものが真実であると写真家が主張したとしても、おかしくはなかった。”
けっこう、シャーカフスキーさんの言ってることに、うんうん!と前のめりにはあんまりならなかったのが印象的。小難しいというか、単純に話してはいけないような、なんというか、、、その何も知識がないのに、でしゃばって喋っている人とか、大嫌いそうな感じというか。。。つまりは、写真とは・・というのを突き詰めているから、合コンで本気になって相手を求めてきているのに「既婚で楽しむために来たんです。」「は!?来ないでください。」というような。本気度の格の違いといいますか・・。
その辺りは、解説を読むと、より解き明かされる感がありました。
< 解説 >
“シャーカフスキーの写真論は「フォーマリズム(形式主義)」と説明されることが多い。写真の内容よりもその形式、つまりそれがどういう構図を持ち、どのような技法で撮影されているかということだけを彼は問題にしている、というのである。”
“「形」の面白さだけに終始しているような写真をシャーカフスキーが評価することはなかった。”
“写真をもっとも純粋な形で利用しようとする多くの写真家や批評家とは異なり、シャーカフスキーは写真の唯一の本質を定義しない。例えば、アメリカにおけるモダニズム写真の創始者のひとりであるポール・ストランドは1916年に書いた文章で、写真の「存在理由」はその「絶対的で、完全なる客観性」にあると言したが、そのような主張をシャーカフスキーはしない。写真とは•0である、と決めつける代わりに彼は、「事物それ自体」、「細部」、「フレーム」、「時間」、「視点」の五つの項目を示し、それぞれの要素が写真を制作する際にどのように関わってくるかを説明するのである。”
すごい。評価しないってこと、面白いですね。単純に見て、この形面白い!デザイン新しい!なんて思ってしまいそうなところですが。でも、確かに完全なる客観とは思いませんね。それでも「フレーム」という形・・・というか、ここで言うフレームというは写真家の持つ「視点」とも共通する、その人の性格そのものとも言い換えられるかもしれませんね。
“シャーカフスキーの文章をよく読めば、「写真家の眼』には2つの敵があったことがわかる。ひとつめの敵はピクチャー・マガジン、つまり写真を主体とした雑誌である。すでにニュース報道の主な場は紙媒体からテレビへと移行し始めていたとはいえ、『ライフ』を始めとするピクチャー・マガジンは、プロの写真家にとって主たる活躍の場であった。また当時はアメリカでも、写真を扱うコマーシャル・ギャラリーも数えるほどしか存在しなかった。”
“ピクチャー・マガジンを発表の場とするフォトジャーナリズムでは、写真によって物語を組み立てることが目指されるだけでなく、編集者があらかじめ作り上げた物語に従って、写真が用いられることも少なくない。だがシャーカフスキーの考えでは「写真はこれまで決して物調に成功したことはな」(20頁)く、写真で物語を語ろうとするピクチャー・マガジンは「写真的発見を犠牲にして」(同)きた。既存のフォトジャーナリズムに対する否定的な見方を、シャーカフスキーはその後も繰り返し表明することになる。”
“芸術写真の様々な様式の中で、シャーカフスキーが明らかに軽視していたのは、むしろ抽象写真、より正確に言えば「抽象絵画のように見える写真」であった。そのような写真は1920年代後半から30年代にかけて、モホイ゠ナジやフランスで活動したマン・レイをはじめとする、多くの写真家たちによって制作され、芸術写真の主要なレパートリーとなっていた。フォトグラム(印画紙の上に物体を置き、露光させて像を作る技法)など、暗室で作りこんだような写真については、それがたとえ「写真それ自体」の探究を目的としていたとしても、シャーカフスキーが高く評価することはほとんどなかった。”
ライフライフ、「あのライフに載ってたんだ!」と、すべてを通りこして神様のように言ってしまいがちですが、冷静に見つめてみると、そうかもしれませんね。報道という中で、逆に表現をしないからこそ面白いみたいな、その感じもあるとは思うのですが、編集者に合わせた物語だったらそれはまた別の話ですね。それは写真ではなくて、報道の内容理解を促進させるための挿絵的なイメージとなってしまう。それでも岩合さんが、ジオグラフィックの表紙を飾ったというのは、すごいことで、、、でもあれは写真はもちろん素晴らしいんだけど、生態系だったり、動物の営みや、関わり方という、別の評価軸があると思うので、ライフに掲載されるというのも、その戦場カメラマンだったら、もっと寄って臨場感を・・・!!という、そういう「写真」でありながらも、写真とは別なところという。。。
写真を探求する・・・ということは・・・・。
“写真家の「眼」よりも「手」が前面に出ているような写真は、彼の写真観とは相容れなかった。”
それは、なんかわかる!そして言葉にしてくれて、よりわかった感じです。写真家は「眼」で撮らないとというのは、視線の違いの共有をしたいからですよね。写真家に限らず、その人がどういう視点で世界を見ているのか?を、ちょっと覗けるのが写真、カメラの世界だなーとは思っていて、それが技巧的になってしまうと、それはその人の世界じゃない。だから、眼でいるままをとってほしい。そういったことなのでしょう。
“過去に生み出されてきた写真に刺激を受けて、写真家が新たな表現を生み出してゆく過程を、シャーカフスキーは「伝統(tradition)」という言葉で表現する。写真には伝統がある、という発想もシャーカフスキーの写真観の特徴であり、以降の著作でもこのことについて繰り返し述べられている。1970年代後半のインタビューでは彼は次のように語っている。”
私も写真は工芸でもあると思うので、分かるなー。
“「ニュー・ドキュメンツ」展で採用された、写真を1枚ずつフレームに入れて展示するという方式もフォトジャーナリズムとの差異を強調していた。”
“1974年にシャーカフスキーと『カメラ毎日』の山岸章二が共同で企画した「ニュー・ジャパニーズ・フォトグラフィー」展は日本の現代写真がアメリカで知られる最初の機会となった展覧会であるが、そこで選ばれた日本の写真が、それまで近代美術館でシャーカフスキーが展示してきた写真とあまりに似通っているという印象を持った批評家も少なくなかったのである。”
“美術家による写真作品が大型化していった背景には、それらを販売するコマーシャル・ギャラリーの思惑があることを示唆している。しかしシャーカフスキーの考えでは「最良の写真の多くを含む、数多くの写真は手に持ったとき、もっとも良いものとなるのであり、楽に手に持つことができるより大きい画像は、写真にとって困難な課題であると言わなければならない」。その理由のひとつとして彼は、壁に掛けて鑑賞する大画面の画像は「多かれ少なかれ公的で、力強い仕方で語りかけることが期待される」のに対し、優れた写真の多くはより私的で、曖昧さを含んだ表現によって特徴づけられることを挙げている。”
おもしろいです・・・おもしろいです。その小さい写真とうのが、本来の写真のあり方?というのは、やはり写真は"もの”としての存在なんですよね。大きくなるとそれは、写真というよりもアートやアドバタイズメントとして、というような。そこになると、確かに商業主義、お金儲けの匂いがしてきます。そういう意味で、家族のスナップにも良さがあり、でも、その写真家とアマチュアの写真の違いというのは、打率とか、そもそも目指しいてる点が違う・・・という。でも、そういう写真家の「眼」を通して見出された、なんてことない家蔵のスナップというのは、一定の価値があると。。。
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バッチェンさんの方が、読んでいて、うんうん。と、かなり理解しやすいというか、す〜〜っと入ってきました。けっこう、ユーモア溢れるふざけた人なの・・?かな? 笑 (だったのかな?とか言いかけて、全然ご存命の68歳でした! そして動画をちょっと見る限り、真面目そうな方でした。)
● ジェフリー・バッチェン
“さらに言えば、ほとんどの写真が関わっているのは、実際のところ順応なのであって、革新や転覆ではない。したがってそれらは通常の美術史の物語に、難なく馴染みはしないのである。これまで無視されてきた数多くの写真ジャンルの一部として”
“ロラン・バルトによって「人類の歴史における文化人類学的革命」として、「真に前代未聞」の種類の意識として説明された。「世界の歴史を分割するのは、写真の到来である」と彼は主張した。”
そんな大きなことか・・・!!たしかに!!!それと同列に「デジタル」と「スマホ」と感じます。1980年代にデジタル写真到来となって、デジタル写真が主流になっていた頃って、すっごいパッキパキだったんですよね 笑 画質が。今思えばめっちゃデジタルー!という、そういうものにも、別に気にならずに「写真」と言うようになり、スマホが出てからは「デジカメ」を持つこともなくなり、どんどんとその"世界の歴史を分割した、写真の到来"が、遺産相続していく更地のように、さらに分割して分割して、しまいには消えてしまいそうな。。。
”ヴィジュアル・カルチャーは、ひとつだけではなく数多くの異なった型の言説を伴うものになるであろう。”
写真を定義することは難しい…。
“アメリカ人だけの全体で毎秒550枚のスナップ写真を撮影していると言われる。真橋はともかく、この統計によれば写真を撮ることは快楽というよりは、むしろ神経症という言葉でもっともうまく説明できそうだ。では、なぜ我々はそのような写真を撮るのだろう?そして我々は今その写真から何を生み出すことができるのか?”
神経症!笑 おもしろい。ほんと、写真を撮る理由ってのは、よくよく考えてみると習慣化されてしまっているけど、謎です・・・。記録・・・か、感情か、、、ただの行為か。
“家庭のスナップ写真のジャンルとしての遍在性にもかかわらず、それはもっとも標準的な写真史の数々に登場することはほとんどない。理由は明らかである。ほとんどのスナップ写真は、うんざりするほどセンチメンタルな内容で、映像としては繰り返し非創造的で、発想としても商品としてもほとんど市場価値を持たない。”
うんざりするほどセンチメンタルって・・・伊代ちゃんもびっくりな表現 笑
“そもそもスナップ写真の代表的な例とはどのようなものなのだろう?そして、どのようにしてそれを選びにかかればよいのか?我々がここで解決しようと試みているのは、まさにその歴史的なジレンマである。”
“スナップ写真がすでに問題なく過去のものとなってしまった写真の形式であるかもしれない可能性が、このような活動の爆発を引き起こしたのだろうか?主要な美術館の展覧会図録を含むこれらの様々な出版物は、スナップ写真を賛美するのと同時に、事実上それが死せるものだと宣言している(museum(美術館)とmausoleum(墓〕の語源学的なつながり”
“それらの写真は同じく証明する。どちらなのだろうか?これらの出版物はスナップ写真への賛辞なのか、それとも、そのコレクターやキュレーターの鋭敏な眼に対する賛辞なのか?写真史の行為なのか、それとも、ただの美術鑑賞との形態学の行為なのか?文化的または社会的現象としての、あるいは個人的体験としてのスナップ写真について、これらの出版物はいったい何を教えてくれるのだろうか?答え:ほとんど何も。”
うん。おもしろい。キュレーターの鋭敏な眼の賛辞なのか・・・?写真の面白さと言いつつ。。。面白いと感じるのは、確かにそのキュレーターのフィルターを通したからで。家族スナップは、アウトサイダー(教育を受けていない)アートとしての写真なのでしょう・・・ね。でも、必ずしも有名となった写真家が教育を受けているわけじゃないし。。。そもそも、写真を習うっていうことが、違うような。。。具体的には「雑誌の表紙を飾りたい」か「感情をうまくぶつけたい」か「盛りたい」かの術を学ぶのでしょう。この点でいうと「写真は世界を知る、人生を知る、そして自分自身を知るための口実です。」と言ってる、グラシエラ・イトゥルビデの言葉は、ものすごく、しっくりくるわけです。
“スナップ写真をその元々の文脈における語りから切り離すことによって、付随的な細部や、フレーミングや切断といった側然の画像効果に集中することができる(そのため、写真の画像制作の内的で形式的な要素に注目するように強いられ、それが写真の意味が決定されるうえでの一側面にすぎないことを忘れてしまう)。そのおかげでこれらの本は、私的な行為を公的な芸術へと変えるのに成功しているのである。しかし同様にこのプロセスは、スナップ写真のジャンルとしての具体的な特質について言及する必要を避けるための、便利な方法にもなってしまっている。”
“我々はこれらの人々を知らないし、おそらく永遠に知ることはないだろう。しかし、それでも我々はこれらの瞬間に至るまでのシナリオを想像することができる。というのも、それは我々皆が共有している経験だからである。この女の子は間違いなく、自分の親/写真家に、そのような写真にふさわしいと考えられている身ぶりとポーズを模倣するように指導されている(同様に、女の子の親もコダックの広告に、そして、ひょっとすると、そのさらに親によっても指導されていただろう)。その模倣を通して彼ら彼女らは、中流階級の生活の外見と期待に順応したいという欲望を(意識的であるかどうかにかかわらず)表現している。画像制作の集団的な行動としてのスナップ写真が示すのは、特定の個人たちが、彼ら彼女らの性や階級における社会的期待や、視覚的な修辞的表現に順応するための努力である。すでに述べたように、我々は皆、自分自身のように見えるのを望むと同時に、他の皆と同じように見えるのを望んでいる。同じ、けれど(ほんの少しだけ)違って見えるように。何よりもまずスナップ写真とは、順応主義的な個人主義への領歌なのである。”
その模倣を通して彼/彼女らは、中流階級の生活の外見と期待に順応したいという欲望・・・!!なるほど。写真の撮る、撮られる行為の中には、そういう「定型」に入りたいという、欲望があるわけなのですね。まーそれは、モデルのポージングを真似るのとも一緒ですし、美味しそうな料理ができたら撮って「まるでレストランみたい!」と言うのと一緒で、自分、自分の生活を良く見せるために写真というのは、多く使われますよね。。。あの人からフォローされた!というのも、1つステイタスでしょうし。それは本来の生活とは違うからこそ、嬉しい、写真に撮るというような。。。旅行している時は普段着じゃなくて、いい服を着て、いいレストランへ行く、だからこそ「せっかくだから写真を撮ろう!」・・・これは、一体なんなんでしょうね。真実ではあるんだけど。
“スナップ写真が緊張や不幸の瞬間をとらえることは稀である”
だから、そういう写真があった時に、おもしろいと感じてしまうのでしょう。みんなが良く撮る写真の場面として、ありえないから。
< 解読 >
"そのような写真は、写真史ではほとんど無視に近い扱いを受けてきた。その理由は、バッチェンも説明しているとおり、代表的な写真史は美術史をモデルとして書かれており、その中では芸術的に優れているとみなされた写真が優先的に扱われてきたからである。"
ほんとですね・・・!全然、そこから考えてこなかったな・・・。別に美術史をモデルにしなくても良かったんじゃないか・・・と。でも、そうなると何をモデルに"史"を作るのかとなると、何か別の"史"を作り上げるための資料としての"史"にはなりそうで・・・「福神漬け史」ってあるんでしょうか。カレーがメインだとしても、きっとあるのでしょうね。
"だが彼も指摘しているとおり、芸術写真史がその一部を構成してきた美術史にとっても、学際的研究は常に無視できない動向であった。美術史は他の学問領域の視点を積極的に受け入れるべきなのか、それとも、あくまで独立した分野として存在すべきなのか。もし後者の方向性を選ぶとしたら、何が美術史の固有性なのだろうか。そうした問いが美術史には以前からつきまとってきた。美術史学の隣接分野としてここ20年ほどのあいだ、特に議論の対象となってきたのが、ヴィジュアル・カルチャー(visual culture)である。この言葉は研究対象と学問領域の両方を指す言葉として用いられている。そのため、この単語を日本語に訳すとすれば、それは「視覚文化」または「視覚文化論」となる。ヴィジュアル・カルチャーは文字通り、視覚に関する様々な文化現象、つまり、伝統的な美術史が扱ってきた絵画や彫刻だけでなく、映画、テレビ、インターネット、漫画、広告など、目に見えるあらゆる文化生産物を分析の対象とする。美術史の歴史自体が、それまで芸術的価値があると認められてこなかった対象を新たに研究の対象に加えてゆく過程であり、それに応じて正典として扱われる作品も変化してきた。しかし、ヴィジュアル・カルチャーはこれまでの美術史の歩みとは比べものにならないほどの勢いで一挙に研究対象を拡大し、正典という考え方自体を無効なものにしてしまう可能性がある。"
ビジュアル・カルチャー・・・!しっくり来る言葉です。でも、確かにそういうカルチャーとしては見ていなかった・・・少なくとも壁に展示されている写真に限っては。それとは別に街中で見かけるポスターや、それとないスナップから「これおもしろい!すご!作品じゃん。」と感じるそれは、そのビジュアル・カルチャーの方だったのでしょう。それと写真の面白さというのは、重なる部分がありつつも、完全には一緒にならないというか・・・それ自体が写真でありつつも、写真じゃないところの写真もあり・・・、
"何よりバッチェン自身のこれまでの「ヴァナキュラー写真」(芸術写真史からは除外されてきた、それぞれの土地や文化に独特な写真実践の総称)に関する諸論考は、写真の物質性や、ものとしての存在感、ー手で触れ、その上に文字を書き込み、身につけられるものとしての写真ーに注意を払ったものであった。その意味では、クラウスとフォスターの懸念は結果的に杞憂だったと言える。"
ヴァナキュラー写真・・・!こちらも、とても惹かれる言葉です。そして動画でもその内容の講義。そうやって名前をつけて、ジャンル分けすることは果たしてなんなんだろうか・・・とも。ジャンルでわかることで ”理解できる” ということなのでしょうか。それはそれで、差別・・・?アウトサイザーアートは、現代アートじゃないって言われているような、そういう意味で、ヴァナキュラー写真は、写真じゃないって言っているような。
"そのようなスナップ写真に対する注目が高まっている理由として、写真のデジタル化がそれらを急速に、写真の歴史における過去の遺物に変えてしまったことをバッチェンは指摘する。我々はかつてないほど大量の写真を撮影するようになっているが、それに反して、自分が撮った写真を紙の状態で見る機会は減る一方である。"
ですね・・・。それが「写真」をより「写真」とさせた気がします。それは、今までになんとも思わず、なんとも気づかずにいた部分で・・・だからこそ、写真って、、、世界がどんどん進めば進むだけ取り残されて、やっともっとわかってきそうな予感がします。それはいつなんだろうなぁ・・・。「写真」が、本当はなんだったのかわかる時って。