「少年は残酷な弓を射る」リン・ラムジー
邦題が映画の中で伝えたいことと、だいぶ違う印象になってしまっていると思うのですが「WE NEED TO TALK ABOUT KEVIN 」が、元のタイトルですね。「私たちにはケヴィンと話すべきことがある」。ここが、"WE"ってこともポイントだし、WANTじゃなくて"NEED"ってこともポイントですよね。
簡単に感想をいおうとするならば、親子の愛情のすれ違いみたいなことだろう。
ケヴィンは自分なりに、楽しいこと、面白いことをやってみても叱られるばかりなケヴィンだが、体調を崩した時に、お母さんが唯一喜んでくれたのがロビンフットの読み聞かせを楽しそうに聞いた話だった。嬉しい思い出として記憶されてしまったその記憶を、子供ながらに実際に再現しようと試みたんではないかと。
ただその嬉しいと感じたのは、母にとっては本の内容ではなくて、「続きを読んで」と、日頃だったら冷たくされるところが身体が弱っている時に運良く(?)、心が私に傾いてくれたことで "私が" 嬉しくてウキウキと本を読んでしまった。子供にとっては「お母さんもこれは面白いと思っているんだ!」と、日頃のお母さんの言動は何も楽しいと思えないけど、僕もこの本は面白いと思う・・・・そんなふうに起こったすれ違いの中での共感は、成長をしていく度に子供には既に伝わっていて、パターゴルフに誘った時にも、先に図星の心情を読み取られてしまう。
また、1つポイントなのが母親の、いつでもいい母親であろうとして部屋を常に綺麗にしていること。パターゴルフも、まるで仕事のようにささっと済ませているところに、子供と向き合っていないまま、なにか母親をやっている私に満足している感も見える。
そんな二人を、すれ違いながらも結んでいたのがロビンフットの物語なんだろう。だから、ケヴィンにとっては、お母さんが楽しそうに話していたヒーローになることで、きっと喜んでくれるだろう・・・と。母にとっては、読み聞かせをきっかけに、もっといい関係を築けるんじゃないかと・・・。違う未来を見ていた。だから "WE" の中には、どちらかというと、ケヴィン自身と母親自身のことで、父や娘が "WE"には入っていないような感じがしました。
ちなみに、ちらっと出てくる本屋のシーンでは、お母さんは伝説の冒険家というのでポスターになっている。そのDNAを考えると、すごく斬新で冒険心がある子供が生まれてもなにも不思議じゃない。さらにいえば、より強い遺伝子を残そうという根源的な本能的な欲求から、人は恋をしたりする感覚ってのいうのはくるらしいので、だからこそ、理解できない子供が生まれるのは、親を超えている証拠なんだろうとも思うんです。
色々と、心にグサっと突き刺さる場面が多いですが、お互いに真っ直ぐにだけ生きていれば起こりうることだなとも思いました。