「それをお金で買いますか」マイケル・サンデル

 



お金を払う時、そのもの or 物事を手に入れる or 体験できることの方が、お金という共通の価値よりも高い、それ相当、もしくは元を取れる、と、メリットを感じてお金を支払う。そうじゃないと、損した気分になり、返品やキャンセルをしたり、お金を返して欲しいとなる。美容室でのカットや家のリフォームにしても、うまくいかなった時には、お金は支払いたくない、高いお金を払って美味しくなかったら二度とそのレストランには行かないだろう。

   

でも、コンビニに行けば、ちょっと高くとも「いつでも近くで買える」から、定価の商品を買っていてもなにも文句はない。それに比べるとスーパーならば、定価で買おうとは全く思わず、どのスーパーよりも値下げされた商品を買おうとする。そして、安いからと、たくさん購入して家まで持って帰るには、いつもだったら自転車済むところが、車が必要となってくる。そういう、欲求を満たすように当たり前に消費していく (インパルス・ソサエティ) 自分との関係が、行動や感情にもつながり、お金をうまい具合に使おうとして裏目に出た事例が多く載っていて、読んでいて、とっても興味深かった。

  

特に、麻薬中毒の母親の元に生まれ育った子供の一部が、生まれた時から麻薬中毒の状態となってしまっていて、虐待をされたり、育児放棄されたりする、というデータから、それを予防するために慈善団体が、麻薬使用の母親が中絶や長期の避妊処置を受ければお金を支払うというプロジェクトをした際に、300名以上の人が殺到した話。会社が勝手にかけていた社員への死亡保険金は、遺族へは一銭も支払われないこと ( 社員へは、それ相当の投資 ( 研修など ) をしているからコストの埋め合わせとして妥当という言い分 )。保育施設のお迎えが遅れることが多いことをきっかけに、遅れた場合にはお金を支払う罰則を設定したことが、逆に「お金さえ払えばいいんでしょ」と、モラルが欠如する例など、お金という共通認識ある基準が人を動かす、動かせる、このことは一体なんなんだろうか?と、モラルと効率との間を行ったり来たりしながら考えさせられた。

  

でも、実際にお金で動くことは実は継続し続けない、続きにくいものであって、本来の目的を遂行するために誰もが群がりやすい”お金”で解決しようというのは、けっこう間違った選択じゃないかとも思えた。実際、生活のためだけに働くのは、とっても大変なことですが、お金をもらえている分、1日の大半を使って頑張っているというのならば、例えば、お金がもらえない仕事と分かれば多くの人は大変な思いをしてまで同じ仕事として働かないかもしれません。そういう感覚がある中で、お金を動機として動いていない方が、実はお金を支払う、お金を受け取る、どちらにとってもお金よりも価値ある動き方ができて、最終的には、その働きが、お金という基準を上回ることとなるような気もします。

  

特に円安のこの頃、お金という価値が絶対と言えず、戦時中の供出でお金や鉄などが出せないのならば、ジャガイモを差し出したように、お金の次にあるものがメインの価値基準となる日も来るんじゃないかとすら思ったりもするこの頃です。

  

    

  




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