「冷たい熱帯魚」園 子温




Amazon Primeで久しぶりに「冷たい熱帯魚」を見てみた。8年ぶりくらいだろうか。多数の園子温映画のレビューを見ていると「エログロ」と、大方の意見がそう片付ける中で、時たま私が感じたのと同じように感じている人がいるのを見つけると、いったいどんな風に家族との時間を過ごして育ってきたのか?と、いちいち自分の記憶も含めて想像してみたりもする。

妙な言い方かもしれませんが、改めて見る園子温ワールドは変わらずに私を温かさせてくれた。もちろん、けっこういつも園子温は猟奇的な事件を題材にしているので、起きていることは凄惨な事件なのだけれど、描いている物語はどこか温かい (と、私は感じる)。ビジュアル的に、生温かい血が流れるシーンは、涙と同じような温かさかもしれないし、なにか作られた世界や嘘を、真っ向から剥ごうとして吹き出している血のような気もする。

それは、アラーキーが「でてくる顔、でてくる裸、でてくる私生活、でてくる風景が嘘っぱちじゃ、我慢できません。これはそこいらの嘘写真とは違います」と、センチメンタルな旅の序文に真っ赤なペンで書いて、写真を私小説と言っているように、園子温フィルムは作られたものではなくて、私小説でもあるようにいつも感じて、嘘がない世界だと思うんです。

その園子温ワールドに共感できる人は割と狂っているだろうけれども、民族が違えば習慣も礼儀も美醜の判断も元なるように、狂っているは社会の方であるとも言えてしまう、そんな怖い優しさがある。逆にいえば、ホームドラマという多くの人にとっての理想郷は私にとっては怖い。どこにも本当がなくて、どこか苦しくなってしまう。その我慢ならなくなってしまう感覚は、アラーキーと同じかもしれないけれど、最初から"逃避"しようというのであれば、ホームドラマは楽しい。でも、その場合には冷たい熱帯魚は、辛すぎる。それはあまりにも現実的だからなんだと、そう思いました。全然、見えているものは現実的ではないんだけどね。でも、すごく現実だなぁと。












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