「アートセンターをひらく」水戸芸術館






















アートセンターをひらく。
なんと、そのままな展覧会タイトルなんだろうと思う、
無駄にかっこいい語感とか、字面とか、キャッチさを捨てて。
「ひらく」って、そんなに簡単に出来ないことを、
さらっとシンプルに書いてしまう、本質的なすごいタイトル。
作品は、なんだろうこれ・・・?と、
来た人だれしも思うものばかりだと思う。でも、

「ギャラリーをアーティストや来場者の「創作と対話」のために活用しました。
 第Ⅱ期では、展覧会を軸に、対話とさまざまな活動を育む場として
 ギャラリーをひらきます。」

という通り、あえて何かをしなくとも、
作品そのものがとっても対話的だと思った。
例えば、この作品。



( 末永史尚「再配置できる絵画#1-#6」)


箱の中のパーツを自分で自由に、変えらえるのですが、
変える前に、前の人がどんな風に入れたのか、
作品を通じて、知るつもりもなく知る事ができる。
誰か全然別の人はこの制約(世界)の中で、
どんな風に捉えているのかの違いみたいなものを、
自然と、触れることもなく、触れてる。
僕はどうしても、線を合わせたくなってしまうのですが、
他の人は、てんでばらばらで「なぜ?」と、
当たり前が揺らぐ感覚が、その場で強く感じなくとも、
もしかしたら忘れてしまっていたとしても、
ただ「楽しい」と思っただけでも、
それでも、身体的にいいんじゃないかと。

そんな風にして、蛇連尻さんのダンスワークショップの記録も、
どうしてこんな動きをみなさん自然とできてしまうのだろう?
と思ったのですが、作品が安心な場として機能しているからなんだなと思いました。

どの作品も、作品を通じてしゃべらなくとも"対話"に繫がるような
凄まじく爽やかな気合いの風が流れている、取り組みだなって感じました。
毛利悠子さんの電気が通ったり、通電しなかったりする作品からは、
「人を待つ」時の感覚を取り戻すような気持ちになりました。
人との関係で電気が走るってのはこの事なのかなと。



  





こんな、率直?な意見もすごく興味深かった。
アート= 「?」    の?の端々には、何かリラックスとか解放とか、
美術館に来る時ってのは、作品を見るよりも、
何かそういう状態を求めるもんなのかと。
破壊にしても、愛情を注ぐにしても、眠るにしても、
何か、人間的なことをしたくなる場所、それが美術館なのかもしれないですね。
 
学びが多い、いつでも僕の心の中で
キラキラと光り輝いている水戸芸術館ですが、
更に、キラキラ度があがりました。

https://www.arttowermito.or.jp/







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