「教養としての写真全史」鳥原 学
「平成写真小史」と同様、とっても読みやすい流れで、頭の中で分断していたそれぞれのジャンルの写真が、読み進めるごとにつながっていきました。整理されている部分がホント”教養として”という言葉にぴったりな、一通りが一般教養のさらっとした感じではなく、知識深めな感じな印象で網羅されている本でした。
特に、知るきっかけもあまり無かったヌードの章が興味深かったです。
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“「芸術としての立場は恐らくあまり進歩しますまい。時代を経ることによってだんだん高くなるとは言えません。人間のすることの芸術性は、千年前と今日と比較して横には広がるけれども、深くはなっていない事に誰でも気付きます。百年の歳月はあまり長いとは言えませんから、実際あまり期待出来ないと思いますが、一人の天才の仕事で、我々凡人の想像力は完全に覆され得る事をせめてもの慰めとしております」”
という、安井仲治の100年後の予言。ほーーー。確かに横に広がっているけど、深くなっていない。。。いつでも巨匠の絵、名作は古いものばかりです。もう後世に残すべき名作は生まれないのであれば、アートは一体何になるのでしょう・・・
携帯用の写生用具”カメラ•ルシーダ” = 明るい部屋。ヘリオグラフィー、イギリスのタルボット、カロタイプ、フランスのバイヤール。このあたりいつも、このあたりは頭の中でごちゃごちゃと混ざってしまいますが、”フォトグラフィー”という言葉を使ったのは、ハーシェルさん。そして、小西六→コニカ•ミノルタ。1990年、さまざまなもののデジタル化がすすんで写真も同様に。2006年、世界フラット化。
“十九世紀に最初の写真(ダゲレオタイプ)がフランスで公表されると、写真館が相いで開業されてブームとなった。だが、自分の顔を克明かつ客観的に見た人が非常に少なかった当時、写真を見て混乱する客は多い。そこで肖像写真家たちは、客観的な描写と同時に好まれる表情を両立することに注力するようになった。その方法のひとつは修正であり、もうひとつはコミュニケーションによって良い表情を引き出すことだ。
フェリックス・ナダールは十九世紀中葉のパリにおける最も著名な肖像写真家として知られる。1854年2月に写真スタジオを開き、翌年の第一回パリ万国博では金メダルを受賞するなどその評価は高かったが、多くの客が自分の写真に失望するのを見た。ナダールは修正をしてその期待に応えたが、ストレートに被写体の実在感を表現することも試みた。”
なるほど、、、。やっぱり自分が認識している自分の顔と、写真とのギャップは、それは確か「こんなんじゃない!」と、不満に繋がりますよね。その差を埋めたのがコミュニケーション。写真館というのは、ただ撮る場所じゃなくて、コミュニケーションの場所でもあったんですね・・・。
1854年に、ディスデリによって考案された8分割のレンズカメラで、名刺判写真(カルト)の流行。カルトマニアも。カルトドヴィジットですね。そして、モンタージュとして、警察も多様するように。自己の社会的位置付けを安定させる。組織に対する忠誠心を育てるための写真。
“評論家のスーザン・ソンタグは著書「写真論」(1979年)のなかで決のように述べている。「自分やだれか知り合いの、あるいはよく写真になる世間の人の昔の写真を見てまず感じることは、なんて私(彼女、彼)は若かったんだろうという思いである。写真術は死すべき人間の目録である」「写真は自分の死に向かって進んでいる生命の無垢、傷つきやすさを明示する。そしてこの写真術と死のつながりが人物写真にはすべてつきまとうのである」”
つまりそれは、写真を見る時には、多くの人は”絶望”を感じるわけなのか。。。写真になったことで生まれる特性なのかもしれませんね・・。
“「コンポラ写真」とは、およそ後者が拡張したものといえる。私生活の周辺に対象をもとめた、一見すると素朴なスナップショットであり、何かを声高に訴える姿勢は薄い。「コンポラ」という形容は、ウィノグランドやフリードランダーら、アメリカの「コンテンポラリー・フォトグラファーズ」展の作家との類似性から、写真家で写真教育者の大辻清司が名付けたものだった。傍観的な撮り方は平和で豊かな時代に生まれ育った者の態度”
そーなのですね!!具体的に、ウィノグランドとフリードランダーとう名前が挙がっていたことに驚きですが、自分の中でのコンポラのイメージとして1番しっくり来るのは、鈴木清さんです。
キネトコスコーブ、連続した写真を動画にする装置。リュミエール兄弟が、さらにスクリーンへ。さらに、1907年に、カラーのオートクロームを発明。1920年バウハウス以降に。ノイエザッハリヒカイト。
ドロシア•ラング「移動農民の母」。撮られた目的を知らなかったが、本人は知って生涯屈辱に感じた。。。写真は、大変な凶器である。。。
ライフが生んだ写真史上最大のスターはキャパ。三木 淳は、ライフ雑誌初の日本人カメラマン。
“ストーリー性よりも映像的なインパクトを重視して高度成長期の社会的な葛藤を捉え、日本のフォト・エッセイストと呼ばれた。その作法は「ジャーナリスティックな、社会通念から見ることを意識的に避けて、その事件なり現象なりの中に立ったときの、私が肉体的、生理的に感じたポイントだけに絞って写真を撮る」ことだった。”
長野重一さん。かっこいいですよねー写真。
“「アフガンガール」で知られ、マグナムに所属していたスティーブ・マッカリーが、過度な修正を行っていたことがインターネットで指摘された。炎上と呼ぶべき事態を招いたマッカリーは、最初「スタジオ内の誰かが勝手にやった」とした。だが、すぐ後に、自分はすでにフォト・ジャーナリストではなく「ヴィジュアル・ストーリーテラー」つまり写真による物語作家として活動しているのだと釈明した。こうした事態を防ぐため、世界的な報道機関はチェック体制を強化し、写真家にJPEGと現像処理が行われていないRAWの両データを提出することを求めている。”
わお。すごい加工!なんというか、やっぱり写真は、偶然に映り込んだものの面白さ(自分にどうにかできない偶然性) があってこそなので、消したりなんだりするのは、、、、やっぱりなんだか、そしたらなんでもできちゃいますよね。でも、コミュニケーションをとって相手の表情を引き出すというのも、考えてみれば、それもまた一種の作為ならば、像を消すのも、同じようなことのようにも、思たりもします。。。?
アレックソスって、マグナムなんだ!
ことに有名なのは、1920年代に発表されたアメリカのサミュエル・ローランド・ホールの「AIDMA(アイドマ)理論」だろう。ホールは、人間の購買に至るプロセスは次の三つの段階を経るとした。つまり商品やサービスを知る「認知段階」、それがほしいと思う「感情段階」、そして購買する「行動段階」だ。さらに具体的に分けると、Atention(注意)→Interest(関心)→ Desire(欲求)→ Memory (記憶)→Action(行動)となるため、頭文字を取ってAIDMAと名付けられた。”
木村伊兵衛も花王石鹸。中山岩田も、福助足袋。
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“イギリスのケネス・クラークは「ザ・ヌード」などの著作で、それをネイキッドとヌードに分けて述べている。まずネイキッドとは、着物が剥ぎ取られて本来隠すべきものが露出されている状態のことを指している。それに対してヌードとは、ネイキッドを素材とし、芸術家の手わざによってそれを理想像に昇華させたものを指すとしている。一方で、イギリスの批評家のジョン・バージャーは、描かれるものの立場から再定義し、ネイキッドとは本来の自分になることだとした。衣服を着たり、化粧をしたりすることは社会制度(階級・性差・職業・思想)を身に纏うもので、それを脱いでこそ自分らしい姿となる。逆にヌードとは真に裸の状態ではなく、既成の価値観や社会的な制度を纏った裸体だと言う。
「裸になることは本来の自分になることである。ヌードであるということは他人に裸を見られるということであり、本来の自分を気づいてもらえないことである。裸の肉体がヌードとなるためには、まずオブジェとして見られなくてはならない」”
“1960年代になると、週刊誌の創刊が相次ぎ、ヌードグラビアも増えた。その需要を担ったのは早田雄二、秋山太郎、大竹省二、稲村隆正、佐藤明、中村正也らで、映画雑誌からプロとしてのキャリアをスタートさせたものが多い。「婦人科」とも呼ばれた彼らは、アメリカのヌードやポートレイトの表現をよく研究しており、それを日本的な感性で再解釈した。大来的な人気を獲得した彼らは、自身もメディアによく露出したので知名度も上がり、カメラマンという職業イメージの新しい類型となった。それはカメラマンがもっぱら男性であり、その性的立場で女性を表現するのが標準だという、いわば視線という制度の類型化を伴っていた。”
“ヌードとは人体をモチーフにしたただ率直な造形表現ではない。作者の性的な立場と、性のあり方を規定する社会構造も投影されている。評論家の多木浩二が「社会における性のあり方、つまり婚姻の制度も娼婦の存在も含んだ性愛の社会性があり、それは社会の政治的、経済的支配とも関係している」とその背景を指摘したとおりである。この認識が明確に表れるのは1960年代後半だった。
こうした表現に関する論争の影響もあってより厳格になっていったのが、子どものヌードに対する社会的な拒絶である。ニューヨーク州では1977年に児童ポルノが禁止されているが、1982年の「ニューヨーク州対ファーバー事件」の合衆国最高裁判決により、表現の自由の保障対象外とされた。そして1990年代には、その規則がよりセンシティブに適用されていった。例えば1990年には、ヌーディストの少年少女たちを端正に撮影して人気のあったジョック・スタージェスが連邦捜査局(FBI)に検挙され、何千カットものネガや写真、コンピュータ機器が押収された。自身もヌーディストであるスタージェスは、作品に性的なテーマや強調は矢如しているし、保護者の了解も得ていると反論。最終的に、裁判所は写真家の言い分を認めた。”
ヌードの話は、どうしてもパッと見て、表面的に見てしまうことも多く、流し見しがいがちだったので、この話はとても興味深いです。写真家がどんな思いで、ヌードを撮っているか・・・が、写真に如実に出てくるのが面白いですよね。アラーキーは本当に、自分のエロ視点というわけじゃないなー、とにかく陽子さんを強く感じるのですが、ウェーバーはなんだかもうエロエロティックで( モデルに訴えられてもいたようですね )。ウィン・バロックはやっぱり崇高な感じで、細江さんは、人類と地球を感じるし。でもそういった「裸」になるという行為が、社会からの解放であるような話からすると、ヌードをNGとさせることは、よりこの社会に順応している人しか生きられないというような、、、人間社会の中で聞こえの良い話が進んでいくような中での、裏の何か深いテーマがヌードにはあるなぁ・・・と改めて思うわけです。
秋山庄太郎さんが「私のヌードは文部省推薦、警視庁公認」っていうの、大衆がイメージする女性のヌードに、寸分も狂いなく、当てはまるからなんでしょうし、ファッションモデルの中に、太った人や背の低い人がいないように「ヌード」の中では、こういうのがヌードだと、という決まった考えがあるからこそ、そうではない場合には、取り締まられてしまうのでしょうかね。
サリーマンの写真集なんかも、美しいと思いましたが、見る人によっては、そうは思わないのでしょう。
つまりは、多様な生き方を許しながらも、統制している。統制の仕方が正しいという一点張りで、多くの何かを、無意識的に、さら〜〜っと排除している。写真家は、それにNOと声をあげることのできる存在、社会の裏に触れさせることのできる、見ることのできる、写真というリアリティーのあるメディアの特性なのかもしれません。
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“自然風景の写真についても、1960年代までは、民俗的な立場から撮られたものが主流だった。つまり表現のテーマが、固有の生活文化を生んだ、その土地性や場所柄を表現することにあったのである。名前だけを挙げれば、入江泰吉、植田正治、島田謹介、岩宮武二、渡部雄吉、小島一郎といった写真家の作品に、それは色濃く認められる。都市への一極集中と農山村的な「ふるさと」の喪失も、こうした風景表現の背景にある。”
都市へ一極集中することで、逆に残しておくべき風景が生まれ、それが写真表現にもつながって・・・、もし、そんな一極集中の日本になってなかったら、私たちがもし今、地方の昔の写真を見たとしても、そこまで「わーー」とは思わないかも?ですね。。。イザイホーがなくなってしまったのも本当に悲しい。からこそ、イザイホーのドキュメンタリーを見て、わーーーっとなります。写真や映像を見る時に、いつだって当たり前なのは「過去」を見ているということ。知らぬ間に、意識しないうちに私たちは「過去」を見ている。それだけで、もうそういうものなんだなぁー・・・と。
“理解者と演出家の役割を求める建築家は、特定の写真家との関係を強めるケースが少なくない。
ル・コルビュジエとルシアン・エルヴェ、前川國男と渡辺義雄、丹下健三と村井修との関係など。”
“19世紀になると、こうした都市のかたちが変化していく。その代表的な例がパリである。1853年、第二帝政を作ったナポレオン三世のもとでセーヌ県知事に就任した、ジョルジュ・オスマンによる「パリ大改造」によって近代都市の姿へと変貌したのだった。
それは極めて視覚的な改造だったとされている。区画を整理統合して建物の規格を定め、大規模な公園を整備した。大通りを計画的に設置して景観と通行の効率を両立し、沿道にはガス灯を設置。発展し始めた鉄道を都市の中心に引き入れ、駅舎を近代化のモニュメントとして建設している。もうひとつ重要なことは、急な人口の増加・・・
オスマンの改造にあたって、パリ市は歴史的記念物委員会を組織し、シャルル・マルヴィルやギュスターヴ・ル・グレイら数名の写真家に取り壊される地区や建造物の撮影を依頼している。これは、写真が都市の変化を計画的に撮影した最初期のケースとされる。”
9章で紹介した、ウジェーヌ・アジェによるパリの写真群はまさにこのような変革の時期、おもに1898年から第一次世界大戦前までに撮られたものである。それゆえ、アジェの写真からはこの街の来歴を読み取ることもできる。”
なるほど・・・!シャルルマルビルのあの写真には、そんな帝政の背景が。そして、アジェの時代背景も、ジョルジュ・オスマンの大改造がかぶっていたんですね。。。そりゃー街は進化(破壊)していきますよね。今の東京の下町なんかも同じですね。でも、アジェはそんな、時代にぴったりと合っていたことさえも気にせず撮り続けていたんでしょうね。そういった村や街が消えてしまうからという思いで写真を撮っていたのか、それとも単に旅が好きで偶然に色々と撮ったものが、こういう文章と歴史の文脈から見てみると、そういうことなっているのか・・・。きっと後者の方が、感情的、人間的で、面白いだろうなって思っちゃいました。もちろん、どっちも素敵な写真なのですが。