平取町立二風谷アイヌ文化博物館 / 萱野茂二風谷アイヌ資料館 / 北海道立アイヌ総合センター / 北海道立埋蔵センターなどでのいろいろ
ずっといつか行ってみたいと思っていた、二風谷まで足を伸ばして行ってきました。ウポポイができた時にはその翌年くらいには行った記憶だけうっすらとあるわけなのですが、その時は漠然とした興味で行っていたためか、とても綺麗な施設、という、あまり心に残らない印象でした。
きっとそれはつまり、北海道大学植物園北方民族資料室にも書いてあった通り・・・
ということなんですよね。つまり「見るものにとって特殊なもののみが選択されたこと」。だから博物館や資料館で見ているものは、生活の平均ではないと。どっちかっていうと、その普遍性を知りたい私は、アシリ・レアさんなど元々アイヌのみなさんが多く暮らしていた二風谷の方が、"アブの多いところ" よりも"木が茂っているところ"の方が、いくぶん心に来るものがあるだろう・・・。
という、見て回って中でのメモです。
チセとは、アイヌ語で家のことです。掘った穴に柱を立てた上に屋根組みを行い、屋根にも壁にも昔を使います。普通は三間(けん)(一間=約1.8m)と四間、あるいは二間と三間の、一間作りが基本の形です。入口が直接、風や雪にさらされないように小さな土間のセム(前室)をつけて、臼や薪などの物置に使いました。部屋の真ん中あたりにアペオイ(囲裏)を切ってあります。チセには三つの窓があります。セムの反対側、部屋の奥の正面に、ロルンプヤラ(上座の窓)という窓があります。南東方向に向いていて、その窓の外にヌササン(祭壇)、があり、カムイ(神)のみが出入りを許されていて、この窓からチセの中を覗き見してはいけません。南面には二つの窓があり、東寄りの窓をイトムンプヤラ (光を受ける窓)と言い、西寄りの窓はヌプキクタプヤラ(汚れ水を捨てる窓)と言います。ロルンプヤラを背にしてアペオイに向かって座ったとき、アペオイの右側をシソ、左側をハラキソと言います。シと言うのは、本当のということですが、右という意味も含まれています。ハラキと言うのは、左を指します。
ある意味の、鬼門ということでしょうか。節分には、歳徳神の居場所によって毎年恵方が変わりますが、アイヌは南東方向。琉球でも、東(アガリ) = 太陽が昇る辺り。そして、日本神話でもやっぱりアマテラスは太陽で、万物全ての生命の根源を辿れば太陽に行き着くような・・・。それが、徹底されている暮らし。
仔グマのおりのことをへベレセッと言います。アイヌの伝統的生業カレンダーでは、早春3月ごろ、穴で冬眠しているクマをとります。仔グマは村につれられ、1年から2年ほど神の国から来たお客として養われます。仔グマは家の中で2ヶ月くうい暮らしたあとベベレセッに移され大切に育てられます。餌入れをへペレオイペプと言います。へペレセは床下に糞尿が落ちるようになっています。また、床に並べてある丸太は引き抜いて、グマを外に出せるようにしてあります。仔グマが1歳から2歳になったころ、神の国へ送りかえずイヨマンテ(熊送りの祭事)が村をあげて盛大に行われます。
そして、小熊を飼育する木の牢獄・・・というよりも人間と同等のお部屋。イヨマンテの映像は、女性はキャッキャと仔グマを取り囲み、男性ももしかしたら自分の命も危ないと感じるほどの大きさに育ったクマと、最後の時間を過ごす。このイヨマンテはクマにばかり注目がいくが、壊れてしまった農具なども返すこともするそうで。どんと焼きや左義長のようなことなのでしょう。
イヨマンチはいつのまにか願まつりと呼ばれるようになってしまいました。しかし、その本来の意味は「イ=それ、オマン=行く、テ=ささ」、つきり肉や毛皮をおみやげに持って、人間の家として神の国からきてくれた子熊を神の国へ送りかえす袋式のことです。だから和訳するなら送りというべきでしょう。( 萱野茂二風谷アイヌ資料館 )
成人する前の娘が身につけなければならないことのひとつは、針仕事だった。求愛を受け入れた相手には、自分が刺しゅうした手甲や脚半を贈る。それは、ひととおりの仕事をこなせるようになった、素としてりっぱにやっていける、という証にもなる。アイヌの文様がいつごろからあったのか、わたしにもわからないくらい古い。丹精をこめた文様の力で着る者を守りたいとか、飾りたいとか、そんな心とともに受けついできたんだろう。
男にとってたいせつなことは、刃物を巧みに使えるようになることだった。そうでなければ、猟に必要な弓矢やワナをしっかり作れんからな。木彫りが上手だということは、狩りがうまく、食べ物に困らんで暮らしていける男だということを示すことになる。だから年ごろの男は好きな人ができると腕によりをかけて彫り物をして、お目当ての娘に贈る。相手がそれを身につけて使ったら、「私も・・・」というサインなんだよ。
お椀にいっぱい盛ったごはんを新郎新婦二人で半分づつ食べるのが、アイヌの結婚式。結婚をあらわす「ウトムヌカラ」は、お互いを見つめあうという意味なんだよ。これから結婚する若い夫婦のために、親の家のそばに新居が準備される。家はチセ。チセアカラは家を建てることだ。新築のときには、村じゅうから人が集まってきて、あっという間に材料を集め木を組んで、一日で建てあげてしまったものだ。( 平取町立二風谷アイヌ文化博物館 | コムンコロカムイのこえ )
昭和半ば、アイヌの血を引く女性と男性との、伝統的なアイヌ結婚式の再現した映像を見せていただきましたが、本当に盛り盛りの一膳の白米を分け合って食べている。神前式でも御神酒を互いに口にする訳ですが、白米の方がとても家庭的で、それを食べ終えるまで参列した多くの人は、ただ待っているという時間の流れ方も素敵でした。そして「火の神」に捧げる祈りの言葉。これから一生この囲炉裏で料理を作る訳だから、という挨拶で、アイヌにとって「火」はとても大切な神様だそうです。
そして、貞操帯を母親から娘へと特殊な結び方で”むすんで”もらう。宴もたけなわ、大勢の来客が賑やかに踊り狂う中、夫と妻は新築チセの手縫の着物を掛けた寝室 ( 新居へ到着した際に自分の針仕事を掛けてみなに見せるそうで )へ。そういった、多くの人が夜通し踊り狂う中での初夜というのも、なんというか個人的ではなく、村として、在り方として、たくさんの人とのつながりとしてなんだかいいなぁと感じました。
その来客たちが踊っている踊りが「鳥」の振り付けなのですが、袖を広げるあたり、富山県・五箇山地方のトイチンサ節を彷彿とさせました。鳥になりきることって、なんなんでしょうか。トイチンサ節では「わーしのなーわーかいいいとっきゃさ〜」と、自分の若い頃がいかに美人で、モテたかを自慢する( というより若い女性はみな、そういう存在なんだろうと感じる )というような歌に対して、アイヌの輪になって踊るホリッパは、鳥そのものになったような鳴き声で、トリップな感じでした。
「アイヌ」という言葉がまだまだ差別的に使用されていたこの当時での結婚式。多くの人が反対したそうですが、当日には多くのアイヌの人が集まり、感謝をし、生き生きと祝っている顔、体が憶えている手つきや所作が、どれもがその人のものとして映っていて、文化とはこういうもんだと。
その対極(?)とまで言わないですが「熊の木彫り」が全国的に北海道のお土産として定着して流通したのは、もちろんアイヌの男の木彫りの腕が無くてはないものなのですが、実はこういった木彫の工芸品がお土産として普及した背景には・・・
“20世紀初頭に八雲(追記:北海道八雲町)の徳川農場の農民芸術運動から起こったものが、アイヌ民族に伝わったものです。アイヌの伝統的な木彫技術によって、瞬く間にその製作技術が身につけられ、優れた作品が生み出されるようになりました” ( 北海道立アイヌ総合センター )
“そんな木彫り熊のルーツは、1921(大正10)~1922(大正11)年にかけて、19代目尾張徳川家の当主である徳川義親夫妻が、ヨーロッパ旅行で訪れたスイスの首都ベルンで出会った木彫り熊にあります。これはヨーロッパの地方で農民が作ったペザントアートと呼ばれる農民美術の一つで、土産物として、大変人気を呼んでいました。”(和楽ウェブ https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/190948/ )
という、明治維新後、明治政府が開拓使を配置して蝦夷地を「北海道」と改称したあたりの、内地の人たちからの流れから起きていることだろうから「木彫りの熊」= アイヌだけのものというのは、ちょっと違うわけなんですね ? でも徳川義親は、アイヌの人々とともに熊狩をして、熊狩の殿様とも呼ばれていたようで、、、当時の世間としては、相当に不思議な人物に映っていたのではないでしょうか。( 尾張徳川家と八雲アイヌの交友 : https://www.town.yakumo.lg.jp/html-contents/ainuhistory/jpn/owaritokugawa/)
というところで、今回とても印象に残ったのは「トゥキパスイ」の存在。私が札幌の北海道大学植物園内にある北海民俗資料館で、トゥキパスイの存在に心を鷲掴みにされた翌日に、訪れた平取町立二風谷アイヌ文化博物館。そこの冒頭の紹介文でも、なんと・・・
「父:清太郎のトゥキパスイを失ったことをきっかけに、萱野茂は、民具を集め、守ることを決意しました。」
| 失われていくものを、取り戻すために |
「明治時代以降、国内外から多くの人びとが、アイヌ研究を目的に現在の平鳥町(びらとりちょう)を訪れるようになりました。しかし、その中には、研究を名目に墓から遺骨を持ち去ったり、家庭に残された民具を地域の外へ持ち出したりする人もいました。昭和28年(1953年)萱野茂が26歳のころ、山仕事から帰ると、父・貝澤清太郎が最も大切にしていたトゥキパスイ(棒酒箸:アイヌの願いを神に伝えてくるへら状の道具)がなくなっていることに気づきました。囲炉裏のそばにあった民具も、帰るたびに少しずつ姿を消していました。アイヌの風習に詳しい清太郎が、訪れた研究者らの民具を譲っていたためでした。このままでは、アイヌの民具も、そこに込められた知恵や心も失われてしまうー。茂は、自ら民具を買い集め、守ることを決意しました。清太郎のトゥキパスイが失われた出来事は、文化を戻すための長い歩みとなりました。」 ( 平取町立二風谷アイヌ文化博物館エントランス キャプション )
到着して、すぐこの言葉をエントランスで読んだ時に、ものすごく萱野さんとの心と繋がった感じがしました。単に好きで無尽蔵にアイヌの民具をコレクションをしているのではなく、自分たちの文化を守るために買い戻す。そして自らもアイヌの男として制作する。さらには、800時間以上ものアイヌ語の聞き取りを行い、アイヌの言葉・物語・風習を録音・・・。
私はジプシーにように本来帰る場所を探しているような気持ちもいつもあり、ほとんど人には「実家」があり ( 私にももちろんありますが) その実家という存在は、実は何も気にしないで景色のように目の当たりにしていた様々な物なんじゃないかと。全国各地から買ったりもらったりしたお土産でもいいですし、昔からあるずっと家にある由来のわからないもの、ぬいぐるみでもいいですし、コップやお皿といった食器、布でもいい。そういうものが、実は0.005くらいのトゥキパスイの要素を含んでいて、内地の日本人の場合、いろいろな家にある全部をトータルで見て1になっていると。多くの海外旅行者が押し寄せている今、儲かるからといって、いろいろなものを外へと出してしまったり、土地や家を安安と手放してしまったり、元あった文化がジワリジワリとお金に換えられて、曲げ捨てられていくみたいな感覚は、心地が悪いなぁと感じます。しかし、大きく嵩張るものや維持費のかかるものは、一刻も早く手放して、どうにかしてしまいたい。
そんな中での、小さなトゥキパスイは、私にとっては家と帰る場所の象徴として探していた1つのベストな形として映った訳です。
トゥキパスイ・・・
トゥキパスイ(捧酒箸)のことを、イクパスイ(飲む箸)とも呼びます。神へお祈りをするときに、この箸の先に杯の酒をつけて神々に御神酒をあげます。それはこのトウキパスイによって人間の願いごとが神へ伝えられるものと信じられているからです。
・・・人間の言葉というものはすべて完璧なものではありません。そこでアイヌたちは、人間の願いごとを神のところにいって伝えてくれる雄弁な使者であるこのトゥキパスイにいろいろな願いごとを託して、神と人間の仲介をしてもらうのです。トゥキパスイは魂を持った生き物だと考えられています。アイス独特の信仰の中から生まれた、神と対話をすることのできる唯一の道具です。したがって、トゥキパスイの作り方にもいろいろな面倒な約束ごとがあります。材料は柳、いたや、えりまきなどを用います。つるがらみのない立ち姿の美しい木を選んで切ってきて、節のないところを割り取って作ります。木を削る場合は材料を逆さに使うことのないように注意します。木の根元の方を右手で持ち、木の先の方がトゥキパスイの先になるようにしなければなりません。またラムラムノカ(うろこ模様)を彫るときは、魚のうろこと同じようにパスイの先の方へ向けて一方向にうろこを削りとっていきます。これはトウキパスイが生きものだと考えられているからです。お盆など他の道具にうろこ彫りをする場合は、中心に向かって向かい合わせにうろこを削りとっていくものです。そしてトゥキパスイには裏側先端の方にパスイパルンペ(箸の舌)、あるいはパスイサンペ(箸の心臓)と呼ばれる小さな三角の窪みをつけなければなりません。この窪みのついていないものは舌も心臓もないのと同じで、魂を持った生き物にはならないからです。それでは神の国へ行っても何もしゃべれず、アイヌの願いごとを伝える大切な使者の役目を果たすことはできません。ですからこのように下寧に作ったパスイはいうにおよばず、山で簡単に作ったパスイにもパスイパルンペはつけるのです。
さらに、パスイの裏側のまん中あたりにイナウシロ(その家の家紋ともいえる印)を刻みつけます。持ち主が代わると新しい所有者の印をさらにその前後につける場合もあるので、なかには異なったイナウシロシがいくつか刻みつけられたものもあります。ただ、トゥキパスイに彫刻する模様はさまざまで、これでなければという決まりはありません。すじ彫りだけで模様を彫りこんであるものや、熊を彫りつけたもの、舟やしゃちを彫ったものなど、種々様々なものをめいめいが思い思い彫刻しました。漆を塗った美しいものもありますが、これらはアイヌが彫刻をして、それを一年に一度日本本土からやってくる薬の行商人に頼んで塗ってきてもらったものです。なかにはアイヌが何らかの方法で漆を手に入れみずからの手で塗ったらしく、あたかも幼稚園児に絵具を塗らせたようにごてごてに塗ったものを見かけることもあります。
たくさんあるトゥキパスイの中には、ゆるく右側へ曲がったものや、逆に左の方へ曲がったものがあります。このことを、右ききの人は右手で持ち、左ききの人は左手に持って使うので、どちらもトゥキパスイの先が前の方へ向くように作ってあるのだ、と説明してある本がありますが、そんなことは絶対にありません。これは作る人の好みにより曲がっている木をそのまま削ってパスイにすることがあったわけで、お祈りをするときは必ず杯を左手に持ち、右手にパスイを持って行なうものだと決められていました。したがって、お膳に四個の杯を並べ、その上にトゥキパスイをのせるときは、右手で取りやすいように根もとの方を右手前になるように斜めに置いてあるものです。
山の中でお祈りをするときにそなえて、矢筒にも一本しばりつけておき、熊をとると、そのつど裏側に筋を一本刻みます。トゥキパスイがないと、きせるで代用することもあります。この場合、たばこを詰める方に御神酒をつけて神に捧げます。きせるもないようなときは、食事用の箸を使うこともありました。この場合は、人間の口に当たる部分ではなく、手に持つ方の先端に御神酒をつけます。きせるも箸もないときは、右手の小指の先に御神酒をつけて神に捧げながらお祈りをすることもあり (「アイヌの民具」 p243 )
「人間の言葉というものはすべて完璧なものではありません。」なんていい言葉なのでしょう。
そこまで厳密ではなく、けれど作り方に関しては正しい工程を踏まないとトゥキパスイにならない。そのストイックさがあり、神事で使うからこそ、作った人も、それを代々受け継ぐ人にとっても、ものとは別の意味になると。
「人間の願いごとを神のところにいって伝えてくれる雄弁な使者であるこのトゥキパスイ」を、強引に内地のものと当てはめて見ると、一体何になるのでしょうか?相撲でいえば、親方から受け継がれるとも聞いたことがある化粧まわし。西馬音内祭りのドキュメント映像を見たときには「笛」。受け継がれつつも、その先代のおじいさまの口の形に合わせた穴の形で上手く吹けず、普段は使わないのだとか。そして、伝統的な羽縫い。母から娘へと受け継がれ、その晴れ着で踊る・・・。それは、家族だけではないその土地との繋がりの形ではないでしょうか。そして、それは、具体的に神への言葉と言わずともそのような役割を果たしているように感じます。
それに比べると「形見」はあくまで個人の閉鎖的なもので、地域や文化、民族としての繋がりという点では、薄いかもしれません。となると、お墓・・?や、家や土地?長男で本家であれば谷崎潤一郎の「細雪」のように、どちらかと言えば ”のしかかる” 面倒なものでもある。そう萱野さんも「面倒な約束ごとがあります。」と、トゥキパスイの制作過程を説明している通り、なにかしらの「面倒さ」が伴うものなのである。きっと、家族というような形を作るにも面倒さが必要なのだろう。そして、その面倒さを、どう入れるのかというセンスを問われるのが文化なのかも?
現代に戻って「面倒さ」は、どうだろうか。全くもって不便さは嫌われてしまって、それを回避することが素晴らしいソリューションとされている昨今。タッチレス決済やら非対面で、コミュニティーのファーストステップをすっ飛ばして、ただただ効率的な良いコミュニティーに属したいと。見せかけの相互性の関係で、個人的な欲求ばかり高まった世界のように感じます。
博物館では、ゴールデンカムイの謎解き?をしていた人が多くいたのですが、問題が少々難しく、割と「厄介」なようで、でも一緒に乗り越えることは、展示物を見ることよりも、お互いの関係性を高めるような意味を見出している様子でした。そんな用意された面倒さを、快適ですぐにどこへでも行ける車と高速とで来て体験しているわけですから「面倒さ」を経る過程は、どうしても人間には必須なものでしょう。そもそも車なんて無かったのならば、ここへ来れただけで十分なはずなのですが。。。なんとも便利な世の中で余った時間を、さらに埋めてみようと人類は必死になる運命のようです。
こちらは、熊送りの際に使用するトゥキパスイにも似たキケウシパスイ。
キケウシパスイ・・・・
熊送りのときに作って、熊神にお祈りを捧げ、また熊神が神の国へ帰るときにおみやげとして持たせるパスイがキケウッパスイ(削りかけつき捧酒箸)です。これはイナウを削った残りの柳を四十センチくらいの長さに切り、それをたてに半分に割ります。割った方を下にして、右手に持つ根元の方は肉を厚くし、先の方は肉を薄くして、先の方を幾分とがらせます。それから手に持つ部分と中程、それに先の方の三か所に約七ミリ間隔の横筋をそれぞれ三本ずつ入れ、その筋を入れた上を斜めに削りとると唇のような形をした溝が三か所に三個ずつできます。次にその溝と溝の間に7〜10本のキヶ(削り)を二か所ずつ入れます。そのとき先の方へ向けて削ったキヶは向こう側へ下がり、逆に手に持つ方へ向けて削ったキヶが手前の方へ下がるように削ります。最後に、パスイを裏返しにして先端にパスイパルンペを彫り、まん中のところへおまつりを主宰する家のアイシロシ(矢につける印)を刻みこみます。アイシロシを刻みこんであると、熊神が神の国へこのキケウッパスイを持ち帰ったときに、どこの家で行なったまつりであるかが一目で分かるものだと言じられていました。熊神に御神酒を捧げてから、このキケウッパスイをイナウキケでしばり、外の祭壇の熊の頭骨をはさんであるユクサパウン二に下げておきます。
人間に必要なもの能力以上のものが「神」
アイヌの人たちは、天然現象や動植物、人間の作る道具などすべてに「魂」があり、神の国から使命を担って姿かたちを変えて地上に降りてきていると考えました。その魂は人間にとって有益なものだけでなく、天災や病気などにもあり、このうち、人間の生活に必要なもの、人間の力の及ばない事象を「神」として敬いました。神々の護りと生活の糧の提供があって初めて、人々の安定した平和な生活があります。そのような生活が続くことを祈願し、これまでの神々の護りに感謝を捧げるのが「カムイノミ(神への祈り)」の儀式です。
15世紀以降、蝦夷地に和人が増加してくると、それまでのアイヌ民族の平和な暮らしが破られました。1869(明治2)年、明治政府は開拓使を設置するとともに、蝦夷地を「北海道」と改めました。アイヌ民族は、北海道開拓政策が進められたことで、土地や美然資源の利用範囲を響しく侵善され、苦しい生活を強いられました。
日本とロシアの両国が千島・樺太等の領有をめぐり、話合いをもった際に、日本は「アイヌは日本に従属している。アイヌの居住地は日本の領土である」という論を展開しました。その後、1854年に日露通好条約により、初めて国境が確定されました。1875年に樺太千鳥交換条約が調節されると、千鳥と樺太のアイヌは、三年の間にロシアか日本の国籍を選ぶように求められました。明治政府は同年、海の民である樺太アイヌのうち854名を帝国臣民という位置づけから北海道に強制移住させ、さらに「種太に脱走されては」という危惧から内陸の江別対雁(ついしかり)に移しました。
…… 慣れない暮らしと病に冒されて人口が激減しました。
アイヌの地を勝手に奪い合わないでくれ、と、そう思ってしまいましたが、ロシアとしてはどうしても凍っていない港が欲しくて南下をしてきて、日本としても、ロシアからの侵略を食い止めるためにも必要であった。私も、北海道は日本。沖縄も日本と、パスポートがなくても行けていける分、そう安易に分類してしまっていましたが、たとえば旅をしていても読めない地名だらけ。アイヌ博物館のある「平取」も普通に日本語としてストレートに読もうとすれば”ひらとり”でしょうが、いいえ、”びらとり”と、濁る。これは元々が「ビラ」であって、当て字でそうなったんだろうなぁと。沖縄でも、降りたいバス停を見逃さないようにマメに電光掲示板をチェックしていても、いざアナウンスがされると「えっ!そんな読み方!?わからん!」と、驚愕していたわけですが、これは勝手に日本語に変換されて当てられたわけで「読みにくいですね」では、失礼な話だと思い直しました。
だからこそ、同じく熊送りの儀礼があるニヴフなど、ロシアからの文化圏はグラデーションにアイヌへと繋がっている。琉球も、中国の仏壇とほとんど同じく真っ赤っか。琉球孤というヤポネシアの考え方がある。ちょっと、南の端から北の端までを、日本と一括りにしてしまうのは、あまりにも強引で雑としか思えません。そういう国ってのは、世界、普通にあるものなのでしょうか。。。これまた少数民族に関心が出てきました。( 2008年に、衆参両院は「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」を全会一致で採択 )
ウイルタ・・・サハリンの内陸に住み、トナカイを飼育しています。春から秋にかけては、海岸部に出て漁労をし、袋には、山に入り狩猟をしています。限られた環境の中で、遊牧や狩猟、漁労も行うという多角的な生活スタイルを作りあげています。戦後、北海道に移住してきた人々が少数ながらおります。
ニヴフ・・・ニヴフはサハリン北部からアムール河下流域にかけて住んでおり、狩猟や漁労で生活しています。近くに住んでいたツングースの系の人々がギリヤークと呼んでいたのがロシアでの呼び方になったと伝えられています。アイヌは彼らをスメレングルと呼びました。ニヴフにはアイヌと同じような飼いグマの霊送りの儀礼があります。
墓標を作る木は、チクペ=(えんじゅ)かブンカウ(どすなら)でその他の木は使いません。いずれも御神体を作るときに使う木です。近所で人が亡くなったら、年配の人と一緒に若者数人で近くの山へ木を伐りに行きます。これならよいと思う立木のそばへいっても一言も口をきかずにまた別の木の方へ移動します。墓標にする木を伐りに行ったときは、立ち木に聞こえるように「この木がいい」とか「この木は悪い」などといってはいけないことになっています。それは選ばれた木はよいけれども、選ばれなかった木はどうしても墓標になりたがって、続けて人が死ぬものだと考えられているからです。
子供のころ、降りに住んでいた貝沢おろあっのさんの連れあいが亡くなったとき、着物を裏返しにして袖のところに頭を突っこんで、袖のつけ根のみやつぐちからのぞきながら、便所へ行く姿を見たとき、お化けかと見間違えて恐ろしい思いをしたことがありました。おろあっのさんがそんなかっこうをしたのは、昔、夫に先立たれた妻は、ウェンサバカラ(悪い頭づくり)といって髪を耳が出るくらいまで短く切り、髪が肩にかかるくらいまで伸びるまでは、あまり外を出歩くこともゆるされず、外へ出るときは必ず着物を裏返しにして袖を頭にかぶってみやつぐちから外をのぞきながら歩くものと決められていたからです。これは喪に服すると同時に、死んだ夫が妻を迎えにきても見分けがつかないようにするためでもあったわけです。夫に先だたれた後家さんのことをションピャラといいます。( 萱野茂二風谷アイヌ資料館 )
喪に服すのは、内地でのケガレの話と同じですね。“江戸時代は、女性の髪型史上、最も華やかで、その種類は数百種にも及んだといわれています。年齢や職業、地域や身分、未婚・既婚などで結う髪型がちがっていて、一目見れば、どこのどんな女性なのか分かったというのも興味深い特色です。( ポーラ文化研究所「日本髪の誕生と変遷」)” と、あるように、髪型と見た目でその人の状況が分かるのも、不思議とアイヌも同じなのが・・・不思議です。
他のアイヌの展示文章を読んでいても「戻ってこないように」みたいなことが多く、寿命を全うした故人へは、ユカラ(話)を、聴かせるのだそうだ。これも、天寿を全うした人の場合には ”戻ってこないように” しっかりと最後まで聴かせるのだとか。
琉球では、ニライカナイ。アイヌでは、カムイモシリ。五感として似ているのが、とても気になる。
だからこそ、遠くの内地から交換品として得ることができた「漆の漆器」もまた、1つのマレビトな存在として儀式に欠かせなくなったのでしょうか。でも、元々ない文化のものが儀式に欠かせないものになるという感覚が、とても不思議に感じます。。。
“江合幕府が成立した頃には、すでに現在に伝えられているようなアイヌの儀式が行われていました。本州方面から入手した漆器類や鉄製品、大陸からもたらされたガラス玉などは、儀式に欠かせない道具となっていました。儀式にはアイヌが自ら作り出したイナウ(米幣)やイクパスイ(酒箸)などの道具とともに、物名交換で手にいれた漆器や刀などが用いられました。” ( 北海道立アイヌ総合センター )
( 弥生時代ー古墳時代 ) 考古学上言われている「続縄文化時代」がこの頃始まる。「モレウ」文様の起源である網文様が土器面に施されるようになった。 ( 江別市郷土資料館 )
アイヌ独特の紋様は、古くからあった。それはもう自然とあったと。いう言葉もどこかで読みましたが、土器を見ても、本土で見ているものより渦系が多いような・・・。1つ1つに意味があるようなのですが、その意味合いよりも、なぜ渦のようなシンメトリーが生まれのかということに、興味が尽きません。。。。
"目"も、日本だけじゃなく各国の文化で多く出てくる紋様なのだとか。。。ってのも、岩田さんの本に書いてあったなぁ。
東南アジアの民俗社会には必ずしも東南アジアとは限らないのであるが、私のこれまでの調査経験の範囲でのべる目のモチーフがしばしば用いられている。船のへさきに刻まれた目についてはよく知られているが、ボルネオ内陸部の村をたずねると、民家のそこここに目をモチーフとする装飾が見られる。ロングハウスの部屋と部屋との境にする板壁、厚い木の扉、あるいは盾などに数多くの目のモチーフがちりばめられているのである。地域によっては凧の模様として人間の顔や魚の姿が描きこまれ、そこに大きい目がついていることもある。日本にも顔の絵を描いた凧が多い。目は、一般には、魔よけのシンボルだといわれている。力強い目、あるいは数多くの目が、そこに侵入の機会をうかがっている悪霊をしりぞけるというのである。目が悪霊、魔ものの侵入を見張っていて、その侵入を防ぐといってもよい。目は文化のなかにあって呪術的な役割を果たしている。そう解釈されているのである。
しかし、結局は同じことなのであるが、目の意味をちがった枠組み、違った座標の上で解釈することもできる。目は目に見える世界、つまり文化の内部領域だけでなく、目に見えない世界、つまり文化の領域の外側にひろがっている、未知の領域をも見張っていると考えるのである。(P103 木が人になり、人が木になる。)
二つの世界は、日常的には、別々の世界なのであるが、自分自身を、あるいは自分という名の目、または鏡を、両者の境界に位置づけたときにだけ、二つの世界は一つの世界としてそこに映るのである。そのとき、ほんとうの意味のコスモスを見たことになるのである。(P108 木が人になり、人が木になる。)






