横浜トリエンナーレ2024


魯迅の野草を主軸に、それぞれの国では簡単には分かり合えない重めで社会問題ドキュメンタリーなテーマばかり、そして同作家の作品が一箇所にまとまって展示しているわけではなく、どこかでまたふと再会する。見ずらさもあったり、分かりにくさもふんだんにありますが、私は、多くの展示作品がけっこう好みでした。特に興味深い写真作品が多くて。










イエンス・ハーニングの、ブランド広告に使われるモデルが変わると、それは効果をなさないといった、身につけているモノの値段も入ってるモデル写真とか。( ハーニングは、平均年収分の紙幣を使って作品にするという同シリーズの依頼を美術館から受けた時に、紙幣を何も貼らずに受け取り、作品を真っ白なまま納品した話がすごい面白い ) とか、香港デモ後の様子を記録した何兆南/ハウス・ホーとか。















自然と住まう的な系だと、その場その場であるもので暮らしながら侵略していくように広がって制作するヨアル・ナンゴが、とても興味深くて。都会のジャングルというか、この方が生きていることを強く感じるなぁと思うと、ホームレスの方が人らしいなぁ。とも。しかもそれが、その国の地域の天候に合わせて生まれてる生活感とかから考えると、多くの人が思い描くような決まりきった幸せな形よりも “より快適な姿”として映っている感じがして。…すごく快適そうでした。みんな本当はそんな快適に過ごせる日々を、求めてるんだろうけど、それは決して”買う”ことだけでは、得られないことに気づいてないよねっていう、のびのび感があって。











オズギュル・カーは単純にずーーっと見とれてしまった。骸骨が音楽を奏で、自然の美しさを語り、新鮮な空気が好きだと話す。そして、ハエが飛び交う倒木。そこには、声の心地よさ、音楽の心地よさとか、間合いの良さとかあるんだけど、木は枯れ、人は骨になってる。。。それなのに、私たちはステキだと思ってしまう。もし、生身の人がそうなっちゃってたら、見とれていないで助けるはずなのに。…ね!








魯迅「故郷」で、親友みたいに連れ添っていた仲でさえ、何十年経ったとしても変わることのない社会的地位の格差によって、痛烈に関係性がイコールではないことに気づく主人公なわけですが、そういう、どうしようもない社会の壁であったりが、実は私たちが今まで作ってきたものでもあり、これからどう作っていればいいのだろうかと。それを、魯迅の頃も、今だって世界中のアーティスト”も”考えている。







私たちが社会を作ったんだから、私たちが社会を変えることもできる。なんだか、そんな強いメッセージが、いろんな形、生まれが違えると誰にも伝わらないような形としても至る所にあって、





社会主義体制下のハンガリーで、哲学者を読み進めるドバイ・ペーテルの映像が、1番シンプルに、グッと来たかも。。。怖いですね。自分とはかけ離れた思想を自分を殺して生きなきゃいけない社会の中で、歪んでいく自分をどうにかしなくては、いけないという。確かにそこから、たくさんのアートは必要に駆られて押し出されて、ブチュっと涙のように出てきそうな気がします。











そうそう、今回のデザインされた文字が特殊で、なんとなく常に違和感を受け取る感じが、当たり前なコミュニケーションが、お互いにはできないんだよっていう、イライラと食い違いと、優しくない感じが、もしかしたら狙いであるのならば、真っ当に今の世界の2024年の内部を表現してる横トリなのかなーと思いました。立派な木ばかり見ないでくれと。そう、その木を作ってるのは野草なんだから。

  



 

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