「ピダハン」ダニエル・L・エヴェレット

 



「ピダハンとか最近読んだよー」とかさらっと言える大人ってなんかかっこいいよねーっという思いも数%ありながら、言語好きなので純粋にとっても読みたかったけど分厚めな本。いつ読もうか・・・と思いながら数ヶ月、置きっぱなしに。そうだ、インドへ旅中にちょうどいい旅のお供だなーと、持っていき読破しました。


のっけから最後まで、おもしろい。とにかく面白い。わたしたち日本人は普通に、日本語で考えて行動しているわけですが、実はその”考える”ということが日本語の中でのことだったというのは、あまり意識せずにそうしてましたね。思ってみれば言語の中のさらに細分化された日本語の世界で生きているのだと。つまりは、日本語を使わない人はその日本語以外の言葉で考えているわけで、日本語にはない表現もあるある。昔なんかで読んだ話だと「アイデンティティ」という言葉は、日本人にはちゃんと理解しずらい言葉だとか。つまりは移民とか、生まれ育った地域がないとか、移住していく中で自分の立ち位置について考えた時に、初めて「アイデンティティ」という概念が出てくるとか。そういった言葉が、もっとたくさんあるのかと。そういった違いがそれぞれの国の言語であるのだけど、


そもそもの言葉の始まりのような極シンプルな子音と母音とで成り立っているのが「ピダハン」という感じなのでしょう。


おっと思ったところはドックイヤーしていたところの引用で、振り返りながら書いてみると・・・( 自動取り込みなので、誤字脱字あり )




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「ピダハンがもう一般カヌーが欲しいと言ってきた。もう自分たちで作れるじゃないかと言いかえすと、「ピダハンはカヌーを作らない」と言って行ってしまった。その後わたしの知るかぎり、アガオアを作ったピダハンはいない。この経験からわたしは、ピダハンが外の世界の知識や習慣をやすやすとは取り入れないことを知った。」

  

もしJICAで派遣されたとしたら「えっ、あんたたち私たちが作り方教えてあげるののに作り方、覚えないの !? 」ってなりそうな話。でも、それだけピダハンは自分達の文化を誇りに思っていて、便利だからといってそれは私たちとって”便利”なのかは、別な話と捉えている。「いいじゃん!」って、易々と受け入れるわけじゃない鎖国的に守るところが痺れますね。それはお金がたくさん手に入ったとしても、それはこの村では価値はないから要りませんって感覚と似ていて、本当に頼るべきものを知っているというか。






「故人が大柄だった場合は、座位で埋められることが多い。そのほうが掘る分が少なくて済むからだ(ピダハンの口からそのように聞いた)。」


あははは!おもしろい。確かに、大きい人を埋めるために頑張って掘るよりも、座らせたら楽だもんね。理にかなってるし、きっとジャングルって時間をかけたら自分も危険な目に遭う可能性が高くなるってこともあるんでしょうね。







「ピダハンのいたずらが楽しいのは、集団意識が強固だからだ。皮肉を言ってみせることができるのも、川べりにアナコンダを仕掛けても許されるのも、互いが信頼のきずなで固く結ばれた共同体だからだ(もちろん言頼に縦び目がないわけではない。盗みや裏切りも皆無ではないからだ。それでも大枠には、共同体に属するひとりひとりがお互いを理解し、同じ価値観を共有しているという頼感がある)。」


川べりにアナコンダ仕掛けてもいいんだね。高度な遊びです。日本でいうならば・・・、本当に仲良い同士ならどんなこと言っても傷つかないって感覚?そして、逆にその危険を体験することで得られる学ぶというのは、友情よりも上な気もします。でも、殺されるようなイタズラで日本人の私は死にたくはないっ






「歩きながら、自分が疲労困憊し、汗だくになっていることを意識していた。こんなに重い荷物を背負ったまま村までたどり着けるかどうか心もとなくなってきた。そんなことを考えていると、コーホイが横にやってきてにっこりし、手を伸ばしてわたしの背中のヤシの束を取り、自分が肩に背負っている東の上にのせた。「おまえは運び方を知らない」とだけ言った。彼の肩にはたぶん二二、三キロは余分な荷物がのった勘定になる。欝着と枝や夢が垂れ下がっているジャングルの細い道を一〇キロ近く歩くのに、二〇キロ以上の負い荷は大変だ。だが彼はいま、合わせて五〇キロ近い荷物を背負っている。コーホイが重みを痛感しているのはわたしにもわかった。一緒に汗して働き、苦労や失敗を一緒に笑い、ピダハンとわたしの友情は、このときのジャングルの行程で一層確かなものになったのだった。」


これはすごいグッとくる話。こうやって絆は深まりますよね。。。蛇とやっていることは同じだろうけど、こっちの方が全然イイ。






「ビダハンは食料を保存しない。その日より先の計画は立てない。遠い将来や昔のことは話さない。どれも「いま」に着目し、直接的な体験に集中しているからではない。これだ!とある日わたしは思った。」


インドから帰ってきてから書いているのですが、まさしく同じく「これだ!」と感じています。今日しかないんだもん。いくらお金を貯めても、いくら明日のことを用意しても、あるのは今のこの今日しかないんですよね。そうやって生きていると明日につながっていくだけで、その明日もまた今日になるんです。だから、今日から明日を生きるよりも、今日をずっと生きていけば自然と明日になって、1年後になっていくらしいですね。






「どうして口をきいてくれないのかと、尋ねた。すると独は、「おれに話しかけてるのか?おれの名前はTiaapahaiティアーアバハイだ。コーホイはここにはいない。おれは以前コーホイと呼ばれていたが、そいつは行ってしまって、いまここにはティアーアバハイがいる」と答えた。」


おもしろい!体はつねに変化し続けている(水は循環している)んだから、そりゃ自分の名前も変わってもおかしくないですよね。自分に飽きるって感覚が最近あります。

  





「ピダハン語は話し言葉を区別する音、つまり音素の種類が最も少ない言語のひとつだ。男性の場合、母音はたったの三つで子音も八つしかないが、女性となると母音は三つだが子音は七つだけだ。女性が使用する子音は男性より少ない。これはほかに事例がないわけではないが、珍しいケースだ。」


それだけで通じ合えるのが謎・・・。でも、仲の良い夫婦が「あれのあれよ」「あーあれのあれか。」って、だけで会話できるのと同じ感覚なのかな。






「十一しか音素がない言語で複雑な情報を伝えることができるのかという疑問がわくかもしれないが、コンピュータ科学ではよく知られているように、コンピュータは人間が命じたプログラムであらゆる情報をやりとりするが「文字」はたったのふたつー1と0だけだ。これがコンピュータ言語における音素であると考えることができる。モールス信号も長音と短音というたったふたつの「文字」の組み合わ

せだ。原理的には言語にはそれで充分なのである。」


なるほど!たしかに。1と0ですっごい複雑なことやって退けてる。私たちが意味として捉えている「複雑」というのも、また違う意味合いでしょうね。複雑という言葉は意外と、違う意味をさしている気がします。






「英語を母語とする子どもは誰ひとりとして、このような強勢のパターンをわざわざ教わることはない。自然にできるようになるのだ。なぜそのような調整ができるのかを解明することは、言語学者にとっては楽しい謎解きだ。オーストラリアの砂漠地帯で話される言語であれ、ロスアンジェルスで使われる言葉であれ、あるいはブラジルのジャングルで用いられるものであっても、言語はすべてイントネーションを利用いる。」


うんうん。イントネーションは学ばなくても、生活の中で自然と覚える。不思議ですよね。人間は基本的な真似る能力が高いのでしょうか。動物の中の鳴き声も、きっと同じなんでしょうね。犬とか猫とか、鳴き声で感情がわかる(気がする)のも、人間の能力かもですね。






「工品を作るにしても、長くもたせるようなものは作らない。たとえば何かを運ぶために籠が必要になったら、その場で濡れたヤシの葉で籠を編む。一度二度使うと、こういう籠は乾いて弱くなるので捨てられる。使い捨ての籠を作る技があれば、長持ちする材料(柳など)を選びさえすれば長く使いつづけられる籠を作れるはずだが、そうしない。そうしたくないからなのだとわたしは結論付けた。これは興味深いところだ。人の動きのほうに物を合わせようとする意志を感じる。」


すごい!新しい感覚!このくらい明日がないと、、、大変かも(笑 でもその大変さが幸せならば、他国の文化を取り入れて、お金に翻弄されたり、美味しいものばかりを求めずに済むような気もします。それはそれで人によっては幸せそうに見える不幸だともこの頃は感じたりも。






「彼らの念に厳しく制約されているのである。だからわたしたちが、言語を研究するときには、個々の語彙を異なる視点を同時にもって理解しなければならないのだ。」


うん。1つの言語だけじゃそれを理解できない。比べることによって個性とか特緒がわかる。。。だから日本語だけ使っていても、何が日本語の特徴でどういったイイ回しが言いやすいのかって、わからないですよね。英語ばかりなインドだと、その言い方、変換できね〜って、よーーく感じました。






「まず、その語彙の文化的な位置づけと用法を理解すること。また、その語彙の音声構造を理解すること。そしてその語彙がある文脈や文章、物語においてどのような使われ方をするのかを理解すること。言語学者はおおむね、言葉を理解するのにこの三つの視点が必要であることを了解している。だがピダハンはさらに別の視点も教えてくれた。「友」と「敵」という密接な関係にあるふたつの語彙の場合のように、個々の単語の意味が文化によって規定されるばかりでなく、単語の音自体もー口やハミングなどどのような形で発せられるかを問わずー文化によって決定されうるということだ。後者の視点は、ピダハン語以外の言語にも事例がふんだんに見られるにもかかわらず、これまで言語学ではほとんど論じられてこなかった。ピダハンは言語学研究の将来に、きわめて明快な研究材料を提供してくれたことになる。」


おもしろい!確かに文化からってのはわかる。日本語も日本の文化にあってるってもちろん、感じる(抑揚が少ないから静か)けれども、それが相手とも関係性ってところからも言葉がつながっているというのは。「友」と「敵」。上下関係で言葉が変わるとも違う、内と外の関係。。。そこでこそ成り立つ(意味合いが変化する)公式な共通の言葉があるってことに驚きです。






「カボクロ(田舎者)は、自分たちの属する世界の周辺に位置する存在なのだ。ところが釣り竿を使った漁法はピダハンもカボクロもしないので、釣り竿が使われることはまずない。漁を意味するピダハンの動詞は、文字どおりの意味は「魚を槍で突く」と「手で魚を掬う」なのだ。竿で魚を「釣り上げる」という意味になる言葉はない。アメリカ人がやっているのしか見たことのない技術には興味をもたないのである。アメリカ人は自分たちの属する世界の住人ではないからだ。」


これまた面白い。漁の動詞自体が「槍でつく」「手ですくう」ってことだから、漁はそういうことだと。決して「魚を釣る」ということじゃない。そして魚を取るというのは、そういうことだと。・・・・めっちゃおもしろい!!!& 頭硬いの !? (という言葉もなさそう。だって今日だけなら頭硬いとか必要ないもん)






「一方ピダハンは、それまでに火星人が来るのを実際に目撃していたとしたら、火星人が来るぞと言うかもしれないが、目撃した経験がないかぎり決して言わない。ピダハンが話すのは、魚捕りや狩り、ピダハンの人々のこと、自分が見た精霊など、現に生きている日常の経験についてだ。彼らが創造性に矢けているからではなく、それが文化の価値だからだ。ピダハンの文化はひじょうに保守的な文化である。」


すばらしい。。体験した事、そして信頼できる友人の話しか、口にしない。噂話が一人歩きしなさそう(こういう”そう”とか”みたい”とか断定を曖昧にしやすいのが日本語のいいところですね)でイイですね。

   





「ジャングルを歩いていて枝が揺れたとわたしが見たとき、彼らには枝を揺らしている精霊が見えるというのがなるほど理解できる。サピアはさらに、わたしたちが世界をどう見るかは言語によって構築され、われわれが見ているものが何であり、それが何を意味しているかを教えてくれる言語というフィルターなしに感じることのできる「現実世界」なるものなど存在しないとまで言っている。」


“わたしたちが世界をどう見るかは言語によって構築され” その通りすぎる。 全てが言葉に変換されますよね。なるほどに、それを違うアウトプットがアートなのだと思うと、とても素敵。






「ブラジルにいれてポルトガル語に囲まれて育ったとしよう。普遍文法の考え方に従うと、子どもは、文章には必ずしも主語が明示されなくてもいいという「主語なし」パラメーターを採用する。つまりポルトガル語では「昨日わたしを見た」というのは文法的に正しいが、英語では不完全だ。またポルトガル語では動詞が主語について英語より多くの情報(最低限人称や数はわかる)をもつようになる、などなどの特性である。この理論は、文法と認知の関係を追究した多くの研のなかでも最も影響力の大きいものだ。」


主語なしは「英語では不完全だ。」これですよね!日本語も一緒。私たちが話している時に「私」を主張することは、日本語にはあまりない。だから、英語が苦手なんだと思います。逆に英語だと、普段かんがえない「彼/彼女」や具体的なものの場所、関係性をすっごく考えないと話せなくて。それが英語の文化なのだととっても感じます。






「アーバンによると、一部の言語では話し言葉でも書き言葉でも受動態の現れる頻度が高く、一方、能動態のほうが頻繁に使われる言語もある。さらに、受動態のほうが自然でよく出てくる言語の社会では、どちらかといえば自分が何かをするというより、何かがその人の身の上に起こるという立場の人が主人公として登場する。こうした主人公は、能動態を主とする言語の社会の主人公よりも、おとなしいタイプと見なされる。」


これもめっちゃ面白い話。「この前、田中さんに会っちゃってー」とかでも、受け身ですよね。田中さんが主人公になる。そういう言い回しってホント、日本人は得意だから印象が「おもてなし」なのでしょう。






「あるとき、わたしはアナコンダを流木と間違えた。わたしが育った文化では、船で川を行くときには流木に気をつけるべし、ということになっている(万国に通用する有益な助言だ)。川を流れる流木がどのように見えるかも教えてくれる。しかしわたしの文化では、巨大なアナコンダが川をこちらへ向かってくるとき、どのように見えるかはいっさい語られることがない。」


そうですよね。体験から言葉は作られる。だから、体験のない事は繋がりがない。






「アナコンダを流木と見誤ったこの経験から、わたしは心理学者がとうの昔に知っていた事実を教わった。認知とは学習されるものなのだ。わたしたちは世界をふたつの観点から見聞きし、感じ取る。理論家としての視点と宇宙の住人としての視点と。それもわたしたちの経験と予測に照らし合わせて見ているのであって、実際にあるがままの姿で世界を見てとることはほとんど、いやまったくと言っていいほどないのである。」


ですね!!本当にあるがままの姿の世界って誰も見れないのでしょう。だから写真ってのも面白い。






「複雑な情報の伝達が日常になっている社会、つまり現代的産業化社会において、伝達文にできるだけ多くの情報を詰め込もうとする場合にリカージョンが有効であると考えられる。だがピダハン社会のように、コミュニケーションがエソテリックなものに限定される社会ではリカージョンはさして有効でない上、直接体験の原則にもそぐわないのである。」


リカージョン!初めて聞く言葉ですが、僕はすっごいリカージョンしてる人で、文章が長くなっちゃうんですよね。それが現代の産業化社会とつながっていたとは・・・!!!「おいしいね」ってだけでいいのに「この美味しさって、この前銀座で食べた2000年からオープンしている三つ星シェフの店の、あの名物に比べると、少し劣るけど、でも先週いった駅近くにあるひっそりとした隠れた名店よりは、美味しいよね 」ってな。”that”で永遠続く感じ。 ほーほー、これは社会の働きと関係していたわけですね。。。なるべくシンプルにするように気をつけよう。。。






「これからわたしたちは、何らかの理由で規模の大きな文化から隔絶されてきた集団をなければならない。ピダハン社会が孤立しているのは、彼らが自分たち以外の文化に対して強い優越意識をもち、軽視してきたためだ。」


すばらしい。日本人は日本の文化に優勢でしょうか。日本の文化って、他国と同等に、いや、日本人ならばより素晴らしく感じてもイイはずですよね。それがあっての上で、スマッシャーしたハンバーガーと食べてタピオカを飲みたい。だって日本は宗教関係なく、いろんな文化を受け入れて発展するのが素晴らしい国だもん。






「つまり、ロスアンジェルスに住むピダハンを被験者にした調査ではピダハンの真の姿を理解できないし、北米の部族であるナバホの言葉を、南部アリゾナ州の大都市であるツーソンに住むナバホから習っても、理解は望めないということだ。わたしは言語を、その生まれた文化のなかで研究したい。文化的状況から切り離して言語を研究することはもちろん可能だし、そこから興味深い事実をたくさん知ることもできるだろう。けれどもそれでは、文法の秘密を解き明かす基本的な鍵は、きっと見つからないことだろう。」


うん。そうですね。なんだっけ、tiktokで見てて擬音語を勉強している外国人が、パタパタとか、バタバタとか、「おーわかるわかる、便利だね!」って言っていたけど「桃が流れる音は?」ってのが「どんぶらこ」ってのに、「why!?」ってなっていたのを見たけど、日本人なら桃は「どんぶらこ」でしかないですよね!!!!それはやっぱつながってますね。あの中には、桃太郎がいるんだもん。おりゃ重いし「どんぶらこ」でしょ。






「もし、文化に引きずられてわたしたちの視野が制限されるとするなら、その視野が役に立たない環境においては、文化が世界の見方をゆがめ、わたしたちを不利な状況に追いやることになる。」


マジですね。異国にいったときに日本の文化の視野で見ていても、それは理解できない。でもだからこそ、異文化体験はより日本を映し出すことになるとも。移住したら、あっちの文化も獲得できるから、いいですよね。。。人間が理解しているこの世界って一体なんなんだろう。






「よき言語学者になるためにフィールド調査は必要ではない、自分の母語を研究することは、フィールドでかつて研究されていない言語を研究することと同じくらい重要らしい、文法は文化とは独立した独自の体系である、ということだ。」


“自分の母語を研究する” これはしてこなかったなー。日本語って、なんでこうなのか、ピダハンを通じて知りたくなりました。江戸の言葉、文化ってやっぱ好きなんですよね。わたし。






「ピダハンの村を訪問する人たちが口を揃えて言うのは、ピダハンがひっきりなしにしゃべり、笑っているように見える、ということだ。ピダハンの行動には余計な遠慮はない。少なくとも村にいる間は。小屋のなかに常に絶やさない焚火の周りに寝そべり、イモや根菜を焼き火に埋めてじっくりと焼く。話題になるのは、漁のこと、精霊のこと、一番最近訪ねてきた外国人のこと、ブラジルナッツの実が今年はどうして例年より少ないのか、などなど。焼けたイモを掘りだす間ピダハンは口をつぐみ、イモを割って口に含むと、文字どおり瞑想しながらふたたび会話に戻る。話題は多いわけではない。しかしカリフォルニア南部のわたしが育った家庭も同じだった。家畜のこと、畑の作物のこと、ボクシングやバーベキュー、カントリー・ミュージックに映画に政治、その程度だ。わたしの実家でも、誰も“デカルトの創造性”になど関心はなかった。言語学者は、もっと多岐にわたる内容を話すから”デカルトの創造性”を必要とするということか。わたしはそうは思わない。わたしが知っている言語学者たち、のみならず大学教授であっても、話の広がりという面では、ほとんど全員ピダハンたちと大差ないのが実態だ。言語学者は言語学の話とほかの言語学者の噂しかしない。」


おもしろい!たしかに、適当に集まって話す話題ってそういうことですよね。つまりは言葉を知らなくてもきっとそういうことを話すだろうという予想はできるからこそ、言葉がなくても繋がりあえる。初対面でいきなりマニアックなことなんて聞かないですもんね(そういうオフ会なら聞くけど)。これもまた、今しかないことにつながっている気がします。






「わたしたちはたいてい、自分たちの知識は「携帯可能」であると考えるーサン・ディエゴにいて感じ、学んだ世界に関する知識が、デリーに行っても完全に通用するものだと。しかしわたしたちが知っていると考えていることのほとんどはきわめて地域限定的な情報であり、地域に根差した視点で得られたものでしかない。電圧110ボルト用の電化製品を電圧が220ボルトの地域ではすぐには使えないように、そのような知識も新しい環境ではそのままは使えない。たとえば大学で言語理論を学んだ研究者がフィールドに出かけたとして、もし環境の変化を敏感に感じ取る感性があれば、自分が学んできた理論が必ずしも現地で出会う言語にぴったり当てはまらないことに気づかされるだろう。理論は地域により適切な微調整がなされれば、便利なものだ。そうしようとしないのならば、理論は寝る人の体のほうをベッドの大きさに合わせてしまったプロクルステスの寝床のようなもので、現実にある言語という事実のほうを、理論に合わせて引き伸ばしたり切り詰めたりすることになる。」



わかりやすい。「プロクルステスの寝床」すっごい絵ですね。怖すぎる。でもこんなようなことを、私たちも外国の方とあったり、意見の違う人と会うたびに、無意識的にしてしまっている可能性があるということですね。郷に入れば郷に従え。「個」が強くなるとそういう考えが薄くなるので、戦争なんかに繋がらないか、それがちょっと今は心配です。






「言語を都合よく文化状況と切り離してこねくりまわすことはできなくなる。まして、研究対象の言語が使われる社会が、研究者の文化と大きく異なる文化的背景をもつ場合には、そんなことをしていたら、決してその言語を正しく理解することはできないことになる。また、言語学は現在多くの言語学研究者が言しているように心理学に属す」




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ってので、日本語をつかって、日本語で考えやすいことを、私たちは考えていたってことになるわけです。


英語ってやっぱり個人的に苦手だと感じるのですが、それは自分の考え方と英語が合っていないからで、そうなると俄然、自分の考え方に近い言語、文化が世界のどこかにあるんじゃないかなぁ・・・と、読みにつれ思えてきました。果てしない旅ですが、私は感じていて、大切にしていることを、どこかの国のどこかの部族で話す言語は、それを体言してくれているかもしれない。そういうところに暮らせたら、もしかしたら幸せなんじゃないかなーと。


日本語ってのはどうしても、陰湿になりやすい言葉じゃないかなーと。日本ずっと湿気多いし。たの”しい”、かな”しい”、うれ”しい”、さみ”しい”、どれを口にしてもなんか感情としては”しい”で終わる感じがテンション低めで、他の言葉を待っている感じがあるんだけど、たのし”かった”ってのは、逆にけっこう過去を重んじそうな意味強めな感じを受けるし、たのしもうね!ってのも、相手との強制的な巻き込みを感じるし(ってそれは意味を知っているからかもですが・・・)。


イタリアのバ・ベーネ!とかいかにも良さそうな感じじゃないっすか。ベーネ!って。ブラボーとか、ファッチャマコジィ!みたいな「それにしよう!」って感じだし。「しよう」ってのは語感的に強制力なんか低めですよね。sirは強すぎるし、yes / no もクリアすぎる。中国語の”ブー”の否定系って超否定されてる感じがしていいし、ジャンボ!って挨拶されたら、なんか元気でるけど「おはよう」ってのは、やっぱりちょっと優しいよね。スパコイノイノーチなんて言われたら、ちょっとただ眠りに行く感じじゃないですよね。


って感じな、語感から感じ取る意味ってのも、すごい重要ですよね。「ピダハン読んだんだけどさ〜」っていうと、「えっインドってナンじゃなくてピタパンだっけ?」とか言われるように似ていて言葉とつなげられて解釈されたりしますしね。













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